『10分休憩!』
「はい!」
号令をかけてタイマーをセットする。真夏の体育館はサウナのように熱いが、冷房なんてない公立高校の体育館には扇風機しかなく、首振り設定になった扇風機の周りを上級生が取り囲んでいる。
夏合宿は午後5時が1番きつい。練習終わりまではあと1時間半もある。夏合宿だからといって練習メニューが特別ハードであるということはない。ただひたすらに気温が高いことが体力と気力を奪っていくのだ。
休憩時間になっても汗が引くことは無く、私自身が発熱しているのではないかと思ってしまうくらい体が熱くて、汗をかいた肌からは湯気が出そうだ。
不快感に堪えられず、かといって人の集まる扇風機に近寄ることもできず、私は副部長に一言声をかけ、タオルを持って外の水道へ向かった。

蝉の声、青すぎる空に白い入道雲、ぎらつく太陽。私が夏と聞いて思い出す記憶は大体これだ。
水道の近くに行くと、花壇に植えられた向日葵が、直射日光を浴びて生き生きと咲いていた。私も植物だったらこんなに暑すぎる夏でも元気でいられたのかな、なんてふと思ってしまう。
ただ立っているだけでも熱いし、早く目的を果たして体育館に戻ろう。
体育館の外にある水道の上にタオルを置いて、蛇口をひねり出てきた水を両手ですくって顔にかける。ひなたにあるせいか、水すらもぬるい。
でも顔を洗うたびに汗のべたべた感が無くなっていく。よし、もうちょっと頑張れそうだ。
蛇口をきつく締め、タオルを取ろうと顔を上げ、私はびっくりした。水道の向こう側に、さっきまでは居なかったよねやん先輩が立っていたからだ。固まったままの私を見て、先輩はけらけらと笑った。
「よ、新部長。元気だったか?」
先輩に話しかけられて、私は我に返った。ささっと顔を拭いて前髪を整え、いつものように笑って話しかけた。
『よねやん先輩〜〜!! 合宿来てくれたんですね。あとで1on1やりましょ!』
よねやん先輩は1つ年上の男バスの先輩で、先輩が現役の時代はよく練習に付き合ってもらった。教え上手で話しやすく、その上面倒見のいい最高な先輩だった。
彼はそんな頼れる先輩だけど、今日は制服姿でノリ悪く首を傾げた。
「えーどうすっかなぁ。今日は差し入れ持って来ただけなんだよな」
そう言って彼はコンビニの袋を持ち上げた。その中にはアイスのファミリーパックが2箱入っていた。
『わあ、アイス! よねやん先輩まじ救世主! 早く体育館行きましょ!』
「現金な奴」
そう言って笑うよねやん先輩の背中を押して私は体育館へ向かう。突然現れた先輩に、部員全員でぴしっと挨拶した後、先輩の「差し入れ。アイス持って来たぜ」の言葉に、部員は一斉に元気を取り戻しアイスに群がった。きゃあきゃあと女子特有の歓声が上がるのを、私はよねやん先輩と並んで見ていた。「みんな元気で何よりだな」と笑う先輩に、私は『先輩のおかげですよ』と返した。
「さて、アイスが溶ける前に男バスにも持って行かねーと。じゃあまたな」
それだけ言うとよねやん先輩は手をひらひら振って歩き出してしまった。差し入れが女バスにあって男バスに無いわけがないけど、先輩がもう去ってしまうのが名残惜しくて、私は背中に必死で声をかける。
『アイス渡したら戻って来てくださいね! あっ、それに男バスも合宿やってますし、泊まったらどうですか!?』
「パンツ持ってきてねーから無理!」
ついに体育館を出て行ってしまった背中に、私は1人肩をすくめた。

結局その日、よねやん先輩は女バスのところへ戻ってこなかった。本当に帰っちゃったのかな、残念。もっと話したかったのに。夕食とミーティングを終えてのお風呂上り、そんなことを考えつつ副部長と合宿所に向かって歩いていたら、1人の人影が見えた。よく見るとそれはよねやん先輩だった。
昼間に会ったときの彼は制服姿だったが、今は練習着を着ていた。どうやら今夜は泊まるらしい。彼は私たちに気が付くと手を振ってこちらにやって来て、私をちょいちょいと指さした。
「なぁ副部長、ちょっと部長借りてもいーか?」
「いいですけど、明日の部活が始まるまでにはちゃんと返してくださいね!」
副部長の過ぎた冗談に、私は彼女を横目で睨んだ。
『そんなに長くなるわけないでしょ。やめてよね』
「あははっ、冗談だって! こっちは私がどうにかしとくから、ごゆっくり〜」
副部長はにやにやと笑うと足早に去って行った。彼女に任せて大丈夫かな。
不安を拭い去る前に、よねやん先輩が外を指さして提案してきた。
「外行く?」
『いいですよ』
よねやん先輩の言葉に頷いて、彼の背中を追う。そしてこっそり、帰ってなかったんだ、と嬉しくなった。

外へ出ても所詮夏の夜なので、ぬるい風だけが吹いていた。
濡れた髪を耳にかけたら、よねやん先輩が私の髪を見て「あ」と零した。
「お前髪の毛濡れてるじゃん」
『そりゃお風呂上がりですから』
私が笑ってそう返すと、先輩は私の肩にかかっていたタオルを取って、私の頭をもしゃもしゃとかき回した。善意で乾かそうとしてくれてるのか、私で遊んでいるのか、どちらかわからないから怒るに怒れない。
『もうちょっと優しくやってくれません?』と笑いながら注文すると「悪い悪い」と笑い交じの声がすぐ近くから聞こえた。そして雑なタオルドライが止むと、先輩はタオル越しに私の顔を両手で掴んで上を向かせた。
よねやん先輩の笑った顔がドアップで見える。その顔はちょっと優しかった。
「な、お前無理してねえ?」
言葉を失った。星空と優しい瞳だけが見える。
私だけを見つめるよねやん先輩に、勝手だけど、すべてを包み込まれるような気がした。ぶわっと顔に熱が集まって、涙がじわじわと滲んだ。なんでわかってくれたんだろうという安堵と恥ずかしさと、でも嬉しさが勝っていて。だからこれはきっと、嬉し涙だと思う。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、目を瞑って小さく頭を振ると、私の顔を掴んでいた先輩の手が離れて、からからと笑う声がした。
「やっぱ無理してたかー」
『いや、そんな……』
タオルで涙を拭って、できるだけ明るい口調で否定してみるけど、声はどうにも弱い。ぽんぽんとよねやん先輩が私の頭を優しく叩く。子供をあやすようなその手も心地よくて、今まで1人で抱えていた不安がぽろぽろと涙になって零れ落ちる。
「オレ、お前は部長に向いてねえだろうなーって思ってたんだよな」
『そうなんですか?』
涙を拭う合間によねやん先輩を見上げる。先輩は空を見上げていた。
「2年生で1番信頼されていたのも実力があったのもお前だけど、人に命令したり引っ張ったりするのは苦手だろうなーとは思ってたんだよ。
逆に副部長は行動力があってパワフルだけど、気分屋なところがあるから安定性に欠けてた。だから元部長は、お前なら信頼できると思ってお前を部長に選んだんだろうな」
『……私、そんな大層な人間じゃないですよ。く、暗いし、地味だし』
よねやん先輩からの全肯定が少し過大評価に感じて恥ずかしくて、そして彼を騙しているような心苦しさもあって、私は否定の言葉を並べて俯いた。そう言ってから、構ってちゃんみたいなうざい卑下をしてしまった、と後悔するけどもう遅い。やってしまったと内心焦ったものの、先輩の返事は笑い声だった。
「まーな! オレも雪野が1年の時はそう思ってたけど。でも今のお前は明るいし頑張ってるし、そういう所が元部長にもメンバーにも気に入られたんだと思うぜ。もっと自信持てよ」
明るい、頑張ってる。私はそう思われてもいいんだろうか。バスケ部に入って、少しは変われたのだろうか。変われたとしたなら、私に影響を与えたのは。
私はそっと先輩を見上げる。先輩は私と目が合うとニッと笑った。その笑顔はひだまりみたいにあったかくて、じんわりと心が温かくなるのを感じた。
『……ありがとうございます。えへへ、よねやん先輩にそう言ってもらえたから、元気出ました』
「ん、よかった。じゃ、そろそろ部屋戻るか。お前も髪の毛乾かさないといけねえし」
よねやん先輩はそう言って合宿所へつま先を向ける。え、もう行っちゃうの? つい先輩のシャツに手を伸ばしかけて、慌ててその手を止めた。しかし言葉は止められず、ついぽろりと零れ落ちた。
『え、あ。うん、そうですけど』
先輩は私の言葉をきちんと拾って、振り返ってくれた。
「まだなんかあったか? 相談だったら乗るけど」
『いえ、これといった用事は無いんですが……。もっとよねやん先輩と一緒に居たかったなって』
過ぎた願いだ。でもどうせなら、そう思って私は言うだけ言ってみた。先輩は大したことないという風に笑った。
「同じ学校なんだし、またいつでも会えるだろ?」
『でも、よねやん先輩はボーダーで忙しいし、次はいつ部活に来てくれるかわかんないし……』
私が唇を尖らせると、あっけからんという風に先輩は言った。
「じゃあオレたち、付き合えばいいんじゃね?」
えっ。ストレートすぎる言葉を私は頭の中で繰り返した。学生にとってその提案が、どれほど大切で重要なものか知らないというような、あっさりとした口調だった。私は開いた口がふさがらなくて、つい聞き返すことしかできなかった。
『……えっ?』
「オレ、雪野の事好きなんだけど。お前はどう?」
好き。簡単に口にされた言葉にびっくりする。今度は顔だけじゃなくて体全体が熱くなる。え、好き? 付き合うって? 混乱して目線を泳がせていると、よねやん先輩は続けた。
「気付いてなかった? オレ、雪野の事特別扱いしてたつもりなんだけど」
『気付いてなかったです。よねやん先輩は誰にでも優しいって思ってたから』
「違うんだなーそれが。な、オレはお前に嫌われてないと思ってんだけど、どう?」
先ほどまでのさっぱりした口調と打って変わって、先輩の声に不安げな色が付く。私ははじかれたように背筋を伸ばして、よねやん先輩を真っ直ぐ見た。
『嫌いじゃないです! わ、私も好きです。是非よろしくお願いします』
私がそう答えると、よねやん先輩はほっとしたように頬を緩めた。
「まじ? よかった! 緊張した! はは、今言うつもり全然なかったけど。なんか今のお前見てたら無性に言いたくなったんだよな。なんつーか眩しいっていうか、守りたいっていうか。なんだろーな? この気持ち」
『あはは、なんでしょうね?』
「……な、雪野。抱きしめてもいい?」
『うぇっ!? あ、えと、どうぞ……』 
私が返事をすると、先輩は「さんきゅ」と笑った。迷わず一歩踏み出し、両手を伸ばしてぎゅうと私を抱きしめた。私の背中に回された手のひらは大きくて熱い。いつもバスケットボールを容易く操るあの大きな手だ。ぎゅうと押し付けられる胸板も熱くて、そこから溶けて一つになってしまいそうだった。


向日葵と夏恋

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