ボーダーの屋上で、私は空を見上げていた。今にも雨の降りだしそうな鳩羽色。今日こそ行けるかもしれないと、私は柵を跨ぎ、柵の上に座る。下を見ると色々なものが小さく見えて、ここが地上より早く高いということを実感した。僅かに胸が高鳴って、せーの、と心の中で勢いをつけた時、屋上のドアが開く騒々しい音が聞こえた。
嫌な予感がして振り返ると、黒髪の男がこちらを見ていた。うわ、最悪だな。私は振り返ったまま笑った。赤いつり目がこちらを睨みながら、つかつかと寄ってくる。
『やあ、三輪秀次じゃん。今日も機嫌がよさそうだね』
「ふざけるな、雪野。逃げるつもりか?」
『わかってるなら話は早い。見逃してくれないかな? それか、私のことを好きになってよ』
「は……? 何を言ってるんだ?」
私のすぐ後ろに立った三輪は私に銃を向けたまま、意味がわからないと顔をしかめた。
私は向けられた銃をそのままに、つらつらと語り出す。
『見逃すの意味はそのまま。私のことを好きになるは「私のことを好きになったら私の幸せを一番」に考えてくれるでしょ? つまり「私の幸せのため」に私を見逃してくれってこと』
「同じ事だろう」
『見逃す方がメリットはあるよ。三輪秀次は私の事嫌いでしょ? 嫌いなら嫌いなまま見逃してくれればいいんだよ。そうすれば今後、私の顔見なくてすむよ?』
私はそう言ってへらりと笑うと、返事の代わりに彼は私の額にがつんと銃を突き付けられた。トリオンで作られているとはいえ、ほとんど鉄の塊が押し付けられるような硬さと重みを感じる。銃を握りしめた三輪秀次は、苦虫をみ潰したようなしかめ面で私を睨んでいた。
「愚問だな。組織からお前の捕縛命令が出ている。俺はそれに従うだけだ。お前との取引には応じない」
三輪は冷たくそう言い放った。ふう残念、取りつく島はなさそうだ。私も彼もトリオン体だ。逃げるには一瞬三輪の虚を突けばいい。アステロイド、バイパー、ハウンド、どれにしようか。
トリオンキューブを用意しようとしたその時、再び屋上のドアが騒々しく開いて、小柄な人影が現れた。ちらりと見えた赤いジャージ姿の人影は「こら!」と、澄み切っているもののぴりつく声を上げた。私はあわてて生成しかけたトリオンキューブを消滅させる。
三輪の影になってるけど、声でわかる。私は体を逸らして、彼の向こうに居る人に笑顔を向けた。
『やあ木虎ちゃん! 今日も可愛いね。会えて嬉しいよ』
「雪野さん! いつまで逃げ回るつもりですか?」
ありゃ、今日の木虎ちゃんは軽口に付き合ってくれないみたいだ。怒ってる。私は眉を下げた。
『えー? 木虎ちゃんは、なんでここに?』
「雪野さん、内部通信切ってますね? 無意味に切らないでください。あなたがここに居ることは三輪さんが通信で教えてくれました。
雪野さん、貴方はサボり癖で出席は足りないしテストの点数も悪いから、このままだと高校すら卒業できませんよ。いくらボーダーでも庇いきれないです。いい加減勉強してください。さもないと私が教えますよ? いいんですか、3個も下の後輩に勉強教えられても」
木虎ちゃんの言うことはごもっともだ。私の学校の成績はギリギリ……、というかボーダーじゃなければ即留年の域だ。テストは半分近く受けてないし、受けたものは名前を書いたレベルだろう。生きることすらどうでもいいのに、勉強なんてやる気になるはずがないだろう。私は困ったようにへらりと笑った。
『わー、それは流石に恥ずかしいかも』
「じゃあ早くラウンジに行ってください。今さんと荒船さんが見てくれるそうなので」
『はぁーい』
片手を上げて元気よく返事をする。木虎ちゃんはふぅとため息をつくと、三輪に話しかけた。
「三輪さん、雪野さんの連行頼みますよ。私は広報の仕事があるので戻ります」
そう言うと木虎ちゃんはさっさと屋上を後にしてしまった。しょうがない。私は肩をすくめてから、屋上の床に降り立った。
『はーあ。逃げ出したかったけど、木虎ちゃんにも時間を割いてもらったことだし、今日のところは大人しくラウンジに行くとしようか』
「最初からそうしろ」
『いやぁ、だって今日は曇ってたし。なんか逃げられそうな気がしたんだよね〜』
灰色の空を見ると、あの日を思い出す。何もかも奪われた日の事を。最初の数年は光の刺さない灰色の町や暗い空を見ると、心臓がどきどきして指先が冷えて呼吸が苦しくて、どこかへ逃げたくて走り出したくて叫び声を上げたくなることもよくあった。最近は割とましになってきたほうだけど、それでも曇天を見ると心が落ち着かなくなってしまうのは、仕方ないと許してほしい。
何気なく両手を隠すように頭の後ろで組んだのに、わざわざ三輪はその手を解いて、私の手首を掴んで歩き出した。換装体だから痛くは無いけど、震えが伝わるほどぎゅうと私の手首を締めてくるので『ちょっと、痛いよ。そんなに掴まなくっても逃げないって』と笑いながら言った。
三輪はそのまま私をぐいぐいと引っ張って、屋上の出入り口まで大股で歩いていく。気を逸らしたくて私はどうでもいい問いを彼の背中に投げかける。
『ねえ、そういえばさっき愚問って言ってたけど、どうして私の事見逃してくれなかったの? だって三輪秀次って私の事嫌いでしょ? 私がボーダーからいなくなった方が良くない?』
「愚問だと言っているだろう。お前のことは嫌いだが、見逃す気はない」
『なんで? 邪魔者は居ないほうがいーでしょ』
「お前のことは嫌いだが、お前が居なくなるくらいならお前を好きになった方がいい」
『……はぁ?』
三輪秀次、今世紀最高に意味がわかんない。三輪はドアに着くとドアを開かず、私と手を繋いでないほうの手で、私の肩を屋上の出入り口に押し付けた。彼に絞められた片手も、壁に押し付けられる。壁ドンみたいな体制で、人を殺しそうな目で、私に顔を近づけた。
「お前はここに居ろ、ここで戦え。お前はそうやって生きたほうがいい。お前の生きる道はそれだけだ」
三輪はそれだけ言うと肩を押し付けていた手を私の背中に回し、ぎゅうと勝手に抱きしめてきた。
はぁ。いやまぁ、私もそう思ったからここに居るんだけど。
こいつ感情こじらせてるなぁ。壁に縫い付けられてた手はいつの間にか自由になっていたので、仕方なく私は三輪の頭を撫でた。
4年前の大規模侵攻で三輪は姉を失くし、私は家族を亡くした。そうした背景で同じような目をしてボーダーに入隊したのに、適当に生きる私に三輪は腹が立つらしい。
結局三輪は、自分を大事にできない代わりに私を大事にしたいのだろう。私をボーダーに縛り付け、私が幸せになるのを見たいのだろう。三輪自身は自分ことを、姉を助けられなかったから幸せになる資格は無い、大体そんなふうにでも思っているのだろう。滅茶苦茶勝手だ。
普通の人だったら、愛おしかった日常を懐古するか、儚く散った愛おしい人のためにいのりを捧げるか、そうやって生きることもできたのだろう。でも私も三輪も、そんなことは出来なかった。三輪はネイバーへの復讐を、私はありとあらゆる全てに抗って、そうやってでも生きることを引きずるしかなかった。
そう、私たちは生きることを選んだのではなく、生きるという道を押し付けられただけなのだ。望んでなんかいない。それなのに生きることにしたのは、私たちが出会ってしまったからだろう。自分と全く同じ自分を愛してしまったのだろう。きっと私たちのどちらかが死んだときが、もう一方も死ぬ時だ。そう思えば、三輪のあの行動も理解できなくない。ならば私が何度身を投げようとしても問題ないだろう。三輪が止めてくれるだろうし。そう思うとなんだか安心してしまって、私はぬるい体温に身を任せて三輪の背中に両腕を回したのだった。


さよなら私のドッペルゲンガー

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