小説 | ナノ
孤爪研磨と僕の話


孤爪研磨と僕の話をしよう。
孤爪はクラスではどちらかといえば目立たない、地味な生徒だった。休み時間には一人で本を読んだり、持ってきてはいけない決まりになっているはずの携帯ゲーム機で遊んだりしていた。誰かと話したり遊んでいるのは見たことがなかった。丸まった小さな背中はいつもなにかに怯えていて、ただ暗いというよりは必死に自分を守っているという印象を受けた。
欠席もそこそこ目立ったが、孤爪が休んでも誰も心配しなかった。一人でいることをからかったりする者もおらず、ゲーム機を持ち込む校則違反を咎めたり、言いつける者も居ない。先生も今考えれば気付いてない訳はない筈なのだが、事情があったのか見て見ぬ振りだった。僕はそんな孤爪をまるで透明人間みたいだと思ったのを覚えている。

授業中に自ら進んで発言をすることは無く、先生にさされた時にだけのろのろと立ち上がり、俯きがちに、消えそうな声で訥々と最低限の話をした。か細い声と独特の間に教室は水を打ったように静かになり、ぴりりとした緊張感に包まれた。少々の聴き取りづらさはあったが、要点がまとまっていてとても分かりやすいそれに、先生はいつも感心したように頷いていた。誰も気付かなかった矛盾をさらりと指摘し唸らせることもあった。
そういう、普通なら誇らしく思うことをした後、孤爪は一層俯いて背を丸くしていた。

積極性はないが消極的な訳でもない。一見真面目なようだが不要物は持ってくる。僕は、一言では表現出来ない少し不思議な存在の孤爪に興味を持っていた。
同じ年頃の、同じ男子にしては長めの髪が印象的で、陽の光を浴びてつやつやと光るそれを綺麗だなあと感じたのがきっかけだと思う。
授業中や休み時間に横顔を盗み見るのが楽しみだった。話しかける勇気はなかったし、孤爪には何となく、自分とは住む世界の違う存在でいて欲しいと思っていた。いつも窓際の席で、静かにノートをとっている。時折頭が動いて、真っ黒な髪の間からちらりと小さな鼻が覗く。ツンとして品の良い形のそれが僕は好きだった。その頃は確かに、眺めているだけで幸せだった。

梅雨の日、体育の時間、図らずも孤爪と関わりを持つこととなった。
授業の始めにはまず準備体操とストレッチをする。体操はその場で一人で、ストレッチは二人で行うのが毎回の決まりだった。男女別に四列で背の順に整列し、隣になった者同士が組む。
僕は孤爪のひとつ斜め後ろだったため、彼とペアを組むことはなかった。しかし、その日はたまたま僕の列の生徒が欠席しており、ひとつ前にずれた僕が孤爪と組むことになったのだ。
酷く、緊張した。眩暈すら覚えた。今までただ眺めるだけの存在だった孤爪と、一対一でコミュニケーションを取るのだ。勿論嬉しいことではあった。しかし一方で、高嶺の花がその価値を無くしてしまうのではないかという懸念もあった。
緊張を悟られないように最大限の注意をし、やろうか、とにこやかに声を掛ける。孤爪は一瞬だけ僕に視線を向け、薄い唇を動かして、あ、うん。と言った。逃げるようにサッと伏せられた目。まぶたは薄く、それを縁取る睫毛は人形みたいに長い。窓から射し込む陽の光が繊細な影を落とす。

まずは僕がをストレッチを、孤爪が補助役をした。
先生の掛け声に合わせて、孤爪の小さな掌が僕の背中や肩を控え目に押す。
いち、に、さん、し、と小さく数える声が耳をくすぐり、それが全身に反響して身体の何箇所かがかあっと熱くなった。しているのはゆったりした動作なのに、心拍数はどんどん上昇し、息が弾む。気付かれてはいけない。僕が孤爪に対してこんな感情を持っていることを、決して気付かれてはいけない。孤爪には僕の、否、人間の浅ましい感情を知ってほしくない。すうと深呼吸をし、なんとか平静を装った。
しかし、本当に大変なのはストレッチと補助役を交代してからだった。
床に座った孤爪を見て息を呑んだ。体操着から覗く日焼けを知らない首筋。華奢な二の腕、薄らと筋肉のついた脹脛。足首はきっと片手で容易く掴めてしまうだろう。孤爪の身体は僕や他の男子とは違い、そして勿論女子とも違っていた。きっと、男女の優れた部分だけを切り取って繋ぎ合せたらこういう形になるのだろう。丸まった背中は不思議とだらしなさを感じさせず、ショーケースに閉じ込められた高い猫を連想させた。僕などが触れたら、そこからはらはらと壊れてしまうかもしれない。
自分の心臓の脈打つ音がヘッドフォンで聞かされているかのように煩く、必死で先生の声を聞いた。二度目のストレッチが始まる。
恐る恐る孤爪の肩から肩甲骨にかけて手を添え、目算を遥かに上回る肉のなさに目を見開いた。僕も痩せ型ではあるのだが、それ以上に孤爪は痩せている。本当に、壊れてしまうかも知れない。
先生の掛け声に合わせて、脚を真っ直ぐ伸ばした孤爪が上半身を前に倒す。柔らかい身体は綺麗に二つ折りになった。そうすると薄い身体を支え、構成している背骨が、肋骨が、肩甲骨が、よりはっきりと浮かび上がる。背中にぴったりと張り付いた白い布が不浄な高鳴りを更に加速させていく。
最早、先生の掛け声やそれに呼応する周りの声、体育館独特のざわめきも僕には届かなくなっていた。

僕には時々、目の前にある綺麗な花をぐしゃぐしゃに踏みにじりたくなる衝動に駆られることがあった。それは、余りの美しさに感激した時だけ発現した。花だけでない。綺麗なものは皆汚してボロボロにしてしまいたかった。完全に壊したい訳ではなかったから、花は花弁が千切れてしまわないように注意して踏みつけたし、蝶々だって羽を毟り取る事はしなかった。土で汚れ、くしゃくしゃになったアネモネを、千切れた羽でよろめく蝶を見て、僕はいたく満足した。同時に安心もした。恐らく美しすぎる物に脅威を感じていたのだろう。
この感覚が普通でないことは幼心に気付いていたし、人間や動物がその対象になることはなかったから、人に知られない様に上手く処理すれば大丈夫と言い聞かせて、実際に処理して生きてきた。しかし、人間が対象にならないのではなく、対象になるような、自分の中にある基準をクリア出来るだけの人間がいなかっただけなのだと、孤爪を見て気付いてしまったのだった。
目の前にある非力な背中を、髪を鷲掴みにしながら踏みつけて、白い体操着を黒く汚す。平たい腹に馬乗りになり、苦痛に歪められた顔に唾を吐いて、殴って打ち付けて全身を痣や傷でいっぱいにしたい。泣いて抵抗したってやめてやらない。こんなに綺麗なお前が悪いと吐き捨て、身も心もボロ布みたいになるまで、やめてやらない。
でも、そんなことをしたらどうなってしまうのか僕はきちんと分かっている。何度も言うように、僕は自分が異常であることをしっかり認識している。だからこれは、忌まわしい衝動を落ち着けるための儀式なのだ。
押し当てていた右手をそっと離し、人差し指で肩甲骨の形をなぞる。骨の上は、低めの体温が更に低く感じられる。突然仕掛けられた悪戯に孤爪は肩をびくつかせ、動きを止めた。僕は我に返り、ばくばくと喧しかった心臓は一瞬だけ動くことをやめる。身体からスッと熱が引き、一体何をしていたんだと後悔の念に駆られた。しかし孤爪は抗議の声を上げたりはせず、何事もなかったかのようにそのままストレッチを続けた。よかった。ほっと胸を撫で下ろし、僕も素知らぬ顔で続きをする。

ふんわりとしたニット地が、指の動きに合わせて歪な線を描く。硬くて柔らかいそこを、蝸牛が這うような速度で滑り降り、少しだけ脇に反れたところでそっと指を離した。孤爪の背中は、震えているように見えた。
心が満たされ、動悸も大分落ち着いた。何事も無かったように再び肩に手を添える。人差し指には先ほどの感覚がまだ残っていた。僕は懲りずに、出来ることなら布越しでなく直接触れてみたいなどと考え、愚劣な空想を始めた。
孤爪のほくろの一つもない滑らかな肌を、僕の浅ましさが隈なく汚していく。背骨の凹凸とゆるいカーブを感じながら、焦らすように尾骨へ向かったら、孤爪は一体どんな反応をするだろう。やめてほしいと抗議してくるのか、抗えずに背を丸めて只管やり過ごすのか。上体をつつむ肋骨も良い。背から脇を通り、胸まで美しいカーブを描くそれを、一本一本丁寧に検分するのだ。十二対のそれを全て検めて、最後に胸骨をつうと降りる頃、孤爪はきっと今の僕みたいに、寧ろそれ以上に胸を高鳴らせることだろう。そうしたら、僕はどうしてあげればいいんだろう。どうしたら楽にしてあげられるんだろう。しかし、解放してあげず苦しみ悶える顔をずっと眺めているのも一興だなと思う。
孤爪が窓際で静かに過ごしている所より、困ったり苦しんでいる所を見た方がずっと心が満たされるのかもしれない。先の醜行を咎められなかったことで調子に乗った僕は、少しだけ勢いをつけて、背中を強めに押した。黒い髪がはらりと揺れて、全身が強張り、反射のようなものなのだろうか、うっと苦しそうな声が漏れる。それを、もっと聞きたいと思った。
ほんの数十分前までは、静かにノートを繰るところを眺めているだけで満足だったのに。一度心に悪い虫が湧けば、それはどんどん増殖していく。

そのあと数種類のストレッチの間、ゆるい渦をつくる旋毛や、開脚して際どいところまで露わになった太腿を見てまた心拍数を上げた。普段滅多に晒されない太腿、さらにその内側は、殆ど生まれたときの色のままなのだろう。恐ろしいほどに青白く、日差しを反射して眩しいくらいだった。やがて、右の太腿の内側、ハーフパンツの裾がぎりぎりかかるくらいの位置に、一つだけ小さなほくろがあることに気付いた。白い肌に一つだけある黒い印は、そこに注目しろと言っているようで、僕の頭に強く強く焼きついた。ほくろは皮膚の不具だ。どんな位置にあろうと、僕には欠点に思われて仕方がない。でも綺麗な孤爪のただ一つの欠点に幻滅はせず、寧ろそのほんの少しの不完全さが他の部分の美しさを引き立てるのだとすら思った。
程なくしてストレッチは終わった。時間にしたら短いものだった。けれど、僕にとっては大変に尊いひと時だった。間近で見、接した孤爪は絶妙なバランスでその完璧な美しさを成していた。それは、絵に描いたような、僕の理想通りの存在だった。

孤爪は、いつも給食を食べるのにひどく時間がかかった。昼休みが始まっても食べているのは普通で、酷い時には午後の授業の始まる直前に漸く食べ終え、小走りで一人分の食器を返却しに行くという塩梅だった。
その日も例に漏れず、殆どのクラスメイトが外へ出て閑散とした教室のなかで、彼はただ一人黙々と給食を食べていた。
僕は、孤爪の斜め前にまわり、孤爪くんと呼び掛けた。さっきと同じく肩をびくりとさせ、疲労と不安をたたえた顔が僕を見上げる。同じ日本人にしては薄い色の瞳が、陽の光を浴びて硝子のように透き通っている。
万が一先程のことで警戒されていたら、という不安があったが、それは大丈夫なようだった。
あっと言ったきり動きを止めた孤爪に痺れを切らし、平気?と尋ねると、何と答えたら良いか分からないという風に俯き、それっきり完全に黙ってしまった。ペールグリーンのトレイの上には二枚の皿とカップが一つ並んでおり、炒めものとスープはあと少しで終わりそうなものの、二つに割られたコッペパンの片方は全く手が付けられないまま残っていた。
僕が食べてあげようか?という突然の提案に、孤爪は目を丸くした。こちらを凝視したと思えばまた視線を落とし、今度は教室内で談笑する生徒たちをちらりと見た。給食を人に分けたりするのは禁止されてはいないが、食べ始める前に済ませなくておかなくてはいけない決まりだから、それを気にしているのだと推測した。その決まりを厳密に守っている生徒はいない。本当に真面目なんだなと少しだけ哀れになる。ガチガチに縛るものを少しだけ緩めてあげようと、僕はそっと孤爪の耳許に唇を寄せた。
大丈夫、誰も見てないよ。
孤爪の身体が、少しだけ弛緩した。この一言が、こんなに効くとは思わなかった。おずおずと差し出されたパン皿からパンを受け取り、僕は駆け出したい気持ちを抑えながら席に戻った。パンは神様の身体だ。僕たちの関係はこの瞬間、確実に変化した。

その後、夏休みが来るまで、時々孤爪のパンや牛乳を代わって食べた。孤爪は毎回、いつもごめんと謝ったけれど、僕には何でもないことだったから、気にしないでと優しく笑った。
朝と帰りには挨拶を交わすのが日課になったし、時々は授業や宿題の他愛無い話もした。孤爪はまだ習っていない漢字や算数の公式も知っていて、それを褒めれば微かに笑った。少しずつではあるが心を開いてくれているのが伝わってきて、嬉しかった。素直に嬉しいと思ったのは初めてだったかも知れない。この頃は不思議に僕のよくない衝動があまり起こらなかった。綺麗な孤爪は僕の心も綺麗にしてくれたんだと思った。
家に帰って一人、控えめに笑う孤爪を思い出すと、胸がひどく締め付けられた。僕らの春からどんどん日付を進めていくカレンダーに、夏休みなんて来なければ良いと思った。週末の休みですらもどかしいのだ。耐えられる自信がない。それに、折角縮まった僕たちの距離は、きっとまた開いてしまう。

願いも空しく、終業式がやってきた。校長先生の話も、夏休みの過ごし方についての注意も、すべて左から右に流れていった。体育館の床に貼られた色とりどりのテープを意味もなく眺めて過ごした。テープは数えきれないほど踏みつけられて傷み、汚れていた。虫唾が走った。教室で配られる宿題も、通知表もどうでもよかった。明日から夏休みが終わるまで、ずっと今みたいな時間が続くと考えると気が狂いそうだった。
帰り支度を整え、ため息を吐きながら教室を出ると、少し先を孤爪が歩いていた。僕は小走りで追いかけて、さり気なく隣に並んだ。宿題が多くて嫌になるなんて話をしながら、二人で昇降口まで歩いた。孤爪はいつもに比べて雰囲気が柔らかい気がした。今なら、遊びに誘えるかもしれない。そう思った瞬間、どこからか研磨!と孤爪の下の名前を呼ぶ声がし、今しがたまで僕の方に向いていた孤爪の意識は完全にそちらに向けられた。僕の決心は、いとも簡単に打ち砕かれた。
孤爪を呼んだのは、僕の初めてみる少年だった。背が高く、短い髪はツンツンと逆立ち、目には鋭い光をたたえている。上級生だとすぐに分かった。特有の威圧感があったからだ。固まる僕とは違い、孤爪は彼に随分慣れた様子だった。
遅えよ、早くしないと場所なくなるんだから。急かす少年に孤爪は謝っていたが、いつものような遠慮や怯えは全く見当たらなかった。僕を置き去りに次々に会話が繰り広げられる。呆けた僕に手を振り、孤爪は少年と昇降口を後にした。二つの黒いランドセルが徐々に遠ざかっていく。それが見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
ハンマーで頭を殴られたような衝撃というのは、こういうことを言うのかと思った。

その年の夏休みはとてもつまらなかった。友達と遊ぶ気にもなれず、昼間は家で、夕方には塾で勉強ばかりして過ごした。この期間、普通に学校があればもっと孤爪と親交を深められただろう。テキストを繰るときも、食事をとっている時も、何をしていても僕は孤爪のことばかり考えていた。
孤爪は夏休みをどう過ごしているのだろう。昇降口で遭遇した上級生とはどれくらいの付き合いなのだろう。あの後二人でどこへ行き、何をして過ごしたのだろう。僕も孤爪とたくさん時間を過ごせば、あの上級生と同じ、いやそれ以上に懐いてもらうことが出来るのだろうか。
夜が来て布団に入り、部屋の電気を消すと、孤爪の顔を見たくてたまらなくなった。もっと話したい。もっと頼られたい。名字ではなく名前で呼ばれたいし、あいつみたいに研磨と呼び捨てにしてもみたい。

その日、夢に孤爪が出てきた。クラスメイトも教師も、誰もいない学校のなかで、朝から晩まで二人で過ごした。僕は、孤爪が自分の席から動かなくてもいいようになんでもやってあげた。本が読みたいと言われれば図書室まで走ったし、給食もパンや牛乳だけでなく、孤爪がもう食べられないと言ったものは全部食べた。夢の中の孤爪は、ごめんではなくありがとうと言ってくれた。
陽が落ちて随分眠くもなったので、洋服からパジャマに着替えた。穿いていたジーンズを脱ぐと、右の太腿の付け根、孤爪と同じ位置に、ほくろがあった。えっと声を漏らして孤爪の方を向くと、そこには誰もいなかった。教室には僕しかいなかった。
ほくろだけでなく、身体すべてが、孤爪のものになっていた。僕は孤爪がいないのをもう一度確かめてからシャツを脱ぎ、身体を見下ろして、生っちろい肌と浮き出た肋骨にうっとりした。手のひらで段々をなぞり、途中にある小さな胸はふよふよと柔らかかった。上半身の全てを無我夢中で触った。そしてごくりと生唾を飲んで下着のゴムに手をかけたところで、目が覚めた。
違和感に布団を捲ると、僕の下着の中に異変が起こっていた。
夏休みの間、同じことが毎日のように起こった。家だったり街だったりシチュエーションは様々だったが、必ず孤爪が出てきて、全てが露わになる直前に目が覚めた。夢の内容から考えて、僕は僕の歪んだ欲望と同様に秘めておくべき現象なのだと判断した。そこは、時間が経てば治まるのが分かったので、そのようにした。罪悪感だけはどうやっても消えなかったのだけど。

長かった夏休みがやっと終わり、孤爪を眺めていられる日々がまた始まった。
僕は夏休み前と変わらず挨拶をした。孤爪は少しだけそわそわしていたものの、心配していたよりは普通に話すことが出来た。もう少し距離が縮まったら、今度こそ遊びに誘おうと思った。孤爪はいつもゲームをしているから、ゲームセンターにでも行けば楽しめるのだろうか。それとも、どちらかの家でゆったり過ごす方が良いのだろうか。僕はどちらでも良い。孤爪さえいれば例え溝の中だって楽園に変わる。

その日は九月も終わりだというのにひどく暑かった。朝のニュースでは猛暑日になること、熱中症に気をつけることなどをしきりに話していた。
鉄筋コンクリートの校舎は、直射日光を浴びていた方が遥かにましだと思える蒸し暑さだった。全開にした窓から入る風は無く、外を走る車の音が暑苦しさを倍増させる。
孤爪はいつもよりずっと怠そうに教室に入ってきた。顔色も芳しくなく、無理をしているのがすぐに分かった。何故休まなかったのだろう。気遣って声をかけてもただ力無く頷くだけだった。

その日は担任の先生が不在で、代理として担任を持っていない先生が僕たちのクラスを見る運びになっていた。その先生は生徒の扱いの差が激しい事で有名で、気に入った生徒には甘く、逆に少し変わった生徒や引っ込み思案な生徒に目標を定め、なにかと理由をつけては執拗に詰るのだった。
朝からその先生は孤爪が気に入らないようだった。声は小さく、俯きがち。友達もいない。髪は長いし学校に不要物を持ってくる。そんな問題児の要素ばかり持っているのに勉強は出来るという部分が面白くなかったのだと思う。
先生は、授業中は何かと孤爪に発言させた。それがいけない事だとは思わない。ただ、彼は声が小さくて聞こえないとか、もっとはっきり話せとか、時々は苛立たしげに教壇を叩き、威圧的な態度で何度もやり直しをさせた。孤爪の背中はその度丸くなり、萎縮していく。
そして、給食の時間に事件は起こった。先生は、決められた時間内に食べ終わらないことがいかに周囲に迷惑をかけるかという話をし、最後に、間に合わなかった者には罰ゲームをさせると言った。孤爪はひたすら俯いてその話を聞いていた。

ひと気のなくなった教室に、給食の入っていたバケツやバットなどがそのまま置かれていた。孤爪は顔を真っ青にし、微かに震える手で給食を口に運んでいる。随分焦って食べていた割に、皿の中身はさして減っていなかった。
時間内に食べ終わることが出来なかった罰として、孤爪は一人で給食の後片付けをすることを命じられた。作業自体はさして大変なことではない。しかしずれた時間にたった一人で給食室までワゴンを押していくのは孤爪にとって苦行であろう。それに体調だって良くないのだ。罰ゲームだなどと嘯く先生を思い出し、僕まで嫌な気持ちになった。
大丈夫だよ。片付けなら手伝うから。全くひどいよね。僕のフォローに孤爪は申し訳なさげに頷いた。と思ったら、ぴたりと動きを止めた。口元は給食を含んだまま動くことなく固く結ばれ、細い眉が苦しそうに寄っていく。額にはじわりと汗が浮かんでいた。きっと暑さだけのせいではない。やがて孤爪の手、綺麗な手が、口に添えられる――
僕は躊躇なく孤爪を立ち上がらせ、まともに動かせない身体を半ば引きずるようにトイレへ向かった。腕の中で小さくなりただただ震える孤爪を見て、夏休みに頻繁に起きた身体の違和感がまた起こるのが分かった。夏休みが明けてからはなかったのにどうしてだろうと思った。それに、こんな切迫した時にそうなる意味が皆目分からなかった。いつもならすぐに終わる廊下が、とてつもなく長く感じられた。孤爪が途中で限界を迎えてしまわないか、それだけがただただ不安だった。

必死の思いで辿り着いたトイレは教室とは比べものにならない蒸し暑さで、なんともない僕でも気分が悪くなる程だった。
孤爪を抱えたまま一番奥の個室に入る。ドアを閉め、鍵をかける。孤爪は鎮座する洋式便器を見て、両の手のひらで口を押さえた。
我慢しないで吐いた方が良い。と僕が背中を摩ってやっても、黙って首を横に振るだけだった。吐いたら楽になるよ。顔を覗き込み言うと、孤爪は少しだけ顔をこちらに向け、絞り出すような声で、吐けない。と言った。

孤爪ははあはあと荒い息で肩を上下させながら、両手を便座に着いていた。力んで骨の浮かび上がった手の甲が痛々しい。
変わらず背中を摩りながら、汗で頬やうなじに張り付いた髪を退かしてやる。体勢を吐きやすいように変えてもなお孤爪は吐けないようだった。方法が分からないのだろうか。
孤爪の呼吸とシンクロするように、僕の鼓動もどんどん早くなっていた。不安や焦りもあったが、それ以上に、僕は。
指、入れてみようか。
僕の提案に、孤爪は大きな目を更に見開いた。吸い込まれてしまいそうだ。しかし限界が近いのだろう。嫌だとかそういう抗議の声は上がらなかった。思っていても言えなかったのかも知れない。
従順に小さく開かれた口に、中指と人差指を挿し入れる。暖かい舌に触れた瞬間、孤爪は反射的に咳き込み、僕の指は温かい唾液にどろりと包まれた。涙で潤んだ目でごめんと謝る孤爪。大きな目を濡らすそれは、今にも溢れてしまいそうだ。その間もはあはあと息は荒く、自分の下半身が更に醜くなるのが分かった。
やり方が悪いのか孤爪が変に我慢強いのか、指を入れてもなかなか吐くまでには至らず、あうあうと喃語のようなものを漏らし、時々咳き込んでは便器にだらりと唾液を垂らすだけだった。暫く後ろから覆い被さるような格好で、孤爪の舌をぐりぐりと押したり、左手で背中を摩ったり、髪を退けてやったりした。この暑いのに重ね着したTシャツは、汗でじっとり湿っていた。
うなじの髪をどけるのに少し身体を前のめりにすると、全身に電撃が走った。僕の膝と膝との間、形を変えたものが孤爪の身体に当たったのだ。こうなるのは初めてではない。だけど、こんなになったのは初めてで心底驚いた。それに、今の衝撃は未知のものだった。刺激を与え続ければ、楽になれるのかもしれない。だけど、それは今やってはいけないことだと思う。クラスメイトの前で下半身を触るなんて、どう考えても間違っている。夏休みの間は、何もせずに治めてきた。だから今だって、そうするべきなのだ。だけど吐き気を堪える孤爪と暑さにあてられた僕の頭は本能的に、楽な方に流れてしまった。
右手は変わらず孤爪の口のなかを蹂躙し、左手は背中を摩ることをやめ、卑しい部分に添えた。ハーフパンツの上から揉みしだくと腰骨の辺りがゾクゾクした。そこは孤爪がえづく度に硬さを増し、比例してふしぎな痺れもどんどん大きくなった。今現在までの高鳴り―例えば体育の授業で孤爪に触りたいと思った事、夏休みに見た僕を惑わす孤爪の夢、小さなほくろ、目の前で汗みずくになって喘ぐ孤爪―が一斉にフラッシュバックした。あの時は悶々としたまま遣り過ごしてしまったものも全て昇華されるのだと、何の根拠もなく思った。
孤爪は今、とても苦しいだろう。そんな彼を助けてあげたくて、だけどもっと苦しそうにしているところも見たかった。そうしないと、僕は楽になれない。一時は治ったと思った。でも駄目だった。僕はやっぱり綺麗なものを踏みにじらないと自分を保てない。心でごめんと何度も謝りながら、唾液でてらてらと光る右手を更に奥に入れた。それは孤爪のためではなく、僕の欲求を満たすためのものだった。
薄い背中が仰け反り、ひどく汚い声で孤爪が鳴いた。孤爪は僕の異変に気付いてしまったのかもしれない。両手で僕の右手を掴み、全く言葉にはなっていないけれど、やめてとか嫌だとか助けてとか大体そんな様な事を叫んだ。孤爪もこんなに大きな声を出す事が出来たんだと的外れなことが頭に浮かんだ。僕の頭は不思議と冷静だった。必死に僕の手を払おうとする細い腕を、片腕で二本とも上体に押え付け、動けないようにした。火事場の馬鹿力というものは凄い。そして孤爪はあまりにも非力だった。ぴくりともしない腕と呼吸器官に異物を突っ込まれる恐怖に孤爪はパニックを起こし、更に叫んだ。痛い、嫌だ。じたばたもがく脚を思い切り蹴った。綺麗で、触れたら壊れてしまうと眺めるだけだった脚を何度も、何度も蹴った。髪が乱れて、普段全部は見えない顔がすっかり見えた。汗と涙と唾液でぐしゃぐしゃだったけれど、それでもまだ綺麗だと感じた。まだ、孤爪は綺麗なのだ。これではまだまだ足りない。僕の心は満たされない。
それにしても、こんなに煩くしたら誰かが来てしまうかもしれない。人に知られたら、叱られるだけでは済まない。だけどもうそんなことはどうでもよかった。僕はぬるま湯のような痺れの、その先にあるものを手に入れたいという思いでいっぱいだった。もっと苦しんで、泣いて、もっと叫べばいい。指を手加減せずに激しく出し入れした。跳ねる身体は水を失って悶える魚と重なった。物事に執着しなさそうな孤爪が、今は生きることに必死でしがみついている。こういうところを僕は見たかったんだ。
慰める手のなくなった下半身は孤爪の太腿に擦りつけた。そこは骨ばって硬いところと柔らかいところがあって、自分の手で触るよりずっと気持ちがよかったし、そうすれば孤爪を心身ともに踏み躙っていると強く実感することができた。気分が乗り、口内を責める指を四本に増やす。孤爪は激しく暴れながら時々白目を剥いていた。もう気絶しそうなのかもしれない。気絶して何も分からなくなってしまった方がよっぽど楽だろう。何度か大きく咳き込むとゴボッと吐瀉物が漏れ出て、僕の肘までをも濡らした。そろそろ吐かせないと喉に詰まらせてしまうかもしれない。万一孤爪が死んでしまったら、もう苦しむ顔が見られなくなってしまう。それは困る。苦痛だ。
研磨、研磨、僕が今、楽にしてあげる。叫び続ける孤爪がきちんと聞き取れるように、一音一音をはっきりと発音した。初めて孤爪を呼び捨てにした。これであの上級生と同じだ。いや、あいつは孤爪の口に手を突っ込んだことも、こんな苦しい顔を見たことも、それを救ったこともきっと無いだろう。これで、僕の勝ちだ。
僕の声に反応するよう、喉の奥が激しく痙攣するのが分かった。トイレを汚してしまわないように、顔を便器に向けてあげた。二、三度全身が波打ち、今までで一番汚い声とともに汚水が便器に流れ落ちていく。げえげえと汚いものを吐きだす孤爪を見下ろしながら、僕の愚かな行為は頂点に達し、綺麗だった唇から伝う汚れた唾液が終わりを告げていた。

先までの昂ぶりは完全に消えていた。孤爪にした事も、最早現実だったのかよく分からなくなっていた。ぼんやりとした頭で、目的を果たした右手を見やる。ぬらぬら光るそれは僕の浅ましさの証明だった。トイレットペーパーを千切って拭うと、消化されなかった春雨が床に落ちた。
僕が片付けをするその間も孤爪は便座に手をついて震えていた。まだ気分が悪いのかと心配になったが、呼吸を整えているだけのようだった。
一度個室を出て、手を洗い清めた。それでもまだ僕の手は汚れている。もう一生綺麗にならない右手。左手だってそのうち、汚れていく。
個室に戻り、もう平気かと尋ねながら、湿った背中に手を添える。振り返った孤爪は、この蒸し暑いのに青ざめた顔を、汗と涙と吐き出した物でどろどろにしていた。ついさっきまで見ていたはずなのに、僕はその惨状に酷くショックを受けた。綺麗な孤爪はすっかり汚れてしまった。僕が望んで汚したのだ。
歪められた表情は、嘔吐による不快感と、それ以外のものも僕に向けていた。そしてそのまま何も言わなかった。僕も同じように何も言えなかった。
後にはただただ、不快な蒸し暑さと饐えた臭いだけが残った。

それからどうしたのかは、全く覚えていない。覚えていないというよりは、思い出したくないのかも知れない。孤爪との関わりがすっかり無くなったのは確かだ。
二十年近くが経った今、孤爪がどこで何をしているのか全く知らないし、さして知りたいとも思わない。あの頃の感情を思い返すことはあるが、今でもそれを持ち続けているかと問われれば躊躇いなくノーと答えるだろう。痛いくらいに心を掻き乱したものも、時が経てばどうでもよくなってしまう。人間というのは哀しい生物だ。
但しそれでも、あの頃の孤爪は今でも、僕の理想の美しさを唯一持った少年なのだ。それだけは何があっても変わることのない、この世界でただ一つだけの真実だ。


14/10/06
15/06/23


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昨年の夏にハイキューにはまり、一番初めに書いた小説がこれでした。
それまでは小説というよりは散文詩モドキみたいなごく短いものしか書いたことがなく、且つインターバルが数年単位で空いていたので、書き始めた時はまさかこんなに長い話(当社比)になるとは思ってもみませんでした。
作中では研磨マジ綺麗!最高!というテンションですが、私自身は少なくとも美少年とかそういうザ・お綺麗のカテゴリではないなあと思っています。ただ、めっちゃ魔性だなあとは思います。


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