小説 | ナノ
おとなになったというけれど


一月某日(月)

「うわっ」と思わずでかい独り言を漏らしたのは玄関の鍵穴に鍵をさしこんだ瞬間だった。なにかを忘れているような気がしていたが、そうだ、トイレットペーパーをまた買い忘れた。昨日は薬局を過ぎてだいぶ経ってから思い出して、だけど明日の帰りに買えばいいやとそのまま家に帰った。そしてこのザマだ。ストックは既に切れているが、いまホルダーにかかっているものは明日の朝までもってくれるだろうと思う。けど、そうしてまた明日の帰りも買い忘れてしまう可能性もある。っていうかちゃんと買うよりそうして買い忘れる確率のほうがずっと高い。きっと今思い出せたのはさっさと買いに行けという天啓なんだ。あーあと肩を落とし、いま来たばかりの道を戻ることにした。
家から一番近い薬局までは歩いて五分もかからない。しかし俺にはそこから更に七、八分歩いた最寄り駅前の薬局に行かなければならない理由がある。値段がだいぶ違うのだ。決して一円一銭を切り詰めなければならないほど家計が切迫している訳ではないのだが、一度価格比較のようなことを始めるとどうにも気になってしまう。ちなみに一番近い薬局ではよく食料品を買う。卵と牛乳がすげえ安いんだ。
「あー……腹減った」
腹は鳴るわ鳥肌は立つわあくびは出るわで忙しい。もうすぐ二月。ピークは越えたものの夜はまだまだ冷える。腕をしっかり組んで暗い道をほてほてと行く。
就職を機に実家を出て、今いる汚くも綺麗でもないそこそこのアパートで一人暮らしを始めた。給料が上がったらもっとでかい部屋へ引っ越すと言っていたのに、諸々の手続きが面倒で気付けばもう五年以上住み続けている。
家具も生活用品も価格第一で揃えた住みはじめのころは透明の衣類ケースや微妙な色づかいのカラーボックスが物凄く嫌だった。いつかは全部買い替えてハイセンスな部屋にしてやる! なんて意気込んでいたものだが、結局今も変わらず微妙にテイストのちぐはぐな、まあいわゆる男の一人暮らし然とした空間のままだ。とはいえ元来そういう洒落た部屋に住みたいと思っていたというよりは一人暮らしに対する憧れ故の……みたいなアレなので、これからもずっとこんな感じなんだろうなあと思う。
ひゅうとひと際冷たい風が吹いて、歯がかちかち鳴った。
「えっしゅ!」
職場ではできない、腹筋を全力で使った無遠慮なくしゃみをする。あー、寒い寒い。コートのポケットに手を突っ込み、目指す薬局に思いを馳せる。トイレットペーパーの他になにか買うものはあったろうか。買い物リストを作っておこうとは思うもののつい忘れてしまい、メモ紙にしようと適当な大きさに切ったチラシばかりがむなしく増えていく今日この頃。──この間買ったから、ティッシュはある。カイロもまだ残ってる。マスクもある。じゃあ、大丈夫か。こんな具合だから八十パーセント以上の確立で買い忘れが出る。「携帯にメモしておけばいいじゃん」と研磨に言われて試してみたこともあったが、『おやつ』と適当に打ち込んだのを誤送信してしまい、それきりやめた。猛烈にばかにされた。そのおやつをほとんど食うのは研磨だってのに。
薬局に辿り着くとごちゃごちゃした店内には蛍の光が流れていた。もうそんな時間か。表に出されていた商品棚を店員さんが店の奥へ引きずっていく。俺はいつものトイレットペーパーをひっ掴んでレジに直行した。
「えっしゅ!」
財布を広げたところでまたばかでかいくしゃみが出た。


一月某日(火)

母ちゃんに寄るように言われ、仕事帰りに実家へ寄った。「いきなり何」とぶっきらぼうに問えば、「まずはただいまでしょ」と脛に容赦のない蹴りを食らう。俺がこんなにでかくなければげんこつだったのかもしれない。しかし「何」とは言いつつも母ちゃんの用件にはだいたい見当がついていた。
「煮物、作りすぎちゃったから持っていきなさい。余ったら冷凍庫に入れて、もしジップロックがなければそこの棚に……」
「あーわかったわかった」
そこの棚にあるからいる分だけ持っていきなさい。そんでチンするときはどうたらこうたら。もう何度聞いたか分からない話を適当に聞き流して、テーブルの上にあったおからをつまむ。うまい。
「ちょっと、食べるならちゃんと座って食べて」
「すぐ帰るよ。ごはん炊いてあるし」
「そうなの? ゆっくりしていけばいいのに」
「まあ、そのうちね」
余ったというには多すぎる煮物をタッパーに移し替えていく。お玉を傾けて汁を切っていたら、すこし前にもこうして実家のタッパーを持って帰ったことを思い出した。
「……そういえば、こないだのタッパ」
「そんなの別にいつでもいいわよ」
「あ、そう」
一人暮らしをするアパートから実家までは自転車でたった二十分の距離だ。とはいえ、こうやって呼ばれたときにくらいしか帰らない。
「身体ばっかりでかくなって」なんて言いながら、やはりかわいい一人息子が家を出ていったのは寂しいと見える。母ちゃんは去年くらいからこうしてなにかと俺を呼びつけるようになった。大概「おかず作りすぎた」とか「良いサンマ買ったから食べに来たら」とか食べ物で釣ろうとしてくるからめちゃくちゃ分かりやすい。母ちゃんの料理は美味いし、それ自体はありがたい。お小言を聞くのも親孝行だと思っている。だけど、ひとつだけやっかいなことがある。
「そうだ鉄、あんた年末年始はどうしてたの?」
──ほらきた。
「どうって、いつもと一緒。研磨とだらだらしてた」
「またあ? もー……あんたたちはいつもそうやって……研磨くんも彼女とかいるんじゃないの? あんたは楽しくて良いかもしれないけど、ひとまで巻き込んだらだめよ」
要するに、いい加減に恋人の一人でもつくれということだ。二十代も半ばを過ぎ、ひとりでふらふらと腰の据わらない息子の行く先を案じて下さっているのだ。
「あーはいはい、わかってるって」
「友達とか、職場の人の知り合いとか、良さそうな人いないの?」
「さあ……いないんじゃない?」
「じゃない? ってなによ、お母さん心配してるんだからね」
たしかに俺が母ちゃんの立場だったら同じような気持ちになるのかもしれないけど。
「……俺さ、母ちゃんと結婚するって子どものときに言ったよね」
里芋を乗せたお玉を軽く振りながら反撃する。
「今はそういう話をしてるんじゃないの!」
「んー、まあ、なんか考えとくわ」
「お父さんだって心配してるんだから……ねえ、お父さん?」
「え? ああ、心配だな」
「もう、今絶対聞いてなかった!」
きゃんきゃんやかましい母ちゃんを適当になだめ、煮物を片手に実家を後にした。冷たい夜風に吹かれながら実家の方角へ向けて念を送る。俺は別に一人ぼっちではないんだぞ、と。
高三のときに好きだと言われてから今日現在まで、俺と研磨はずっと一緒にいる。あの研磨に好きと言われた──しかもライクではないほうの意味で──瞬間はだいぶ、かなり驚いたけど、別に嫌ではなかった。……いや、照れ隠しはやめよう。俺も研磨のことがたぶん好きだった。出会ったばかりの、小学生のときからずっと好きだったんだと思う。初めはろくに目も合わせてくれないという拒否られっぷりだったけど、なんかかわいくて放っておけなかった。鬱陶しがられるともっと構いたくなった。「危ないから」とかもっともらしい理由をつけて腕をひく時間が幸せだった。「好き」という言葉こそ出てこなかったものの、研磨は普通の友達とも、父ちゃんと母ちゃんとも違う存在ということはなんとなく感じていたと思う。
でも、二人で手をつないで歩いてたところを見たクラスメイトに「それはおかしいことだ」と言われてからは手をつなぐのも、研磨をかわいいって思うのもやめた。研磨はただの友達なんだって言い聞かせて、何度も何度も言い聞かせて、そうするうちに自分の本当の気持ちもわからなくなっていた。しょっぱい思い出だ。
正直な話、好きだと言われてしばらくの間はいまひとつぴんとこなかった。けど、はっきり自覚してからはもうずっと好きなんだって胸を張って言える。俺が今まで好きになったひとは研磨だけで、きっとこれから先もずっと研磨だけだ。それを無理に打ち明けようとも思わないけど、いつまでも彼女だなんだと口うるさく言われるのはごめんだ。しかし研磨とはまた違う意味で大切な両親に嘘を吐きつづけるのも居心地が悪い。母ちゃんの美味い飯を食うたび、どうしたもんかと悩む。


一月某日(水)

「いらっしゃいませー」
 元気のいいおっちゃんが買い物かごの山をがらがらと押していく。今日はスーパーで買い物をする日。
昨日母ちゃんからもらった煮物は結局昨日の夕飯と今日の朝食、それから弁当箱に詰めた分で終わってしまい、残念ながら煮物と一緒に持たされた大量のチャック袋は台所の棚で眠ることとなった。普段はコンビニか社食で済ませる俺が手弁当なのが珍しかったようで、仕事の昼休憩では「ついに彼女ができたか!」と散々冷やかされた。「母のです」と言っても信じてもらえず、あの研磨がこんな料理を作れるわけがないだろうと叫びたかった。まあ俺たちはどっちも彼“女”ではないんだけどさ。
今日の夕飯はいつも通り鍋。いや煮物? よくわかんないけど、野菜と肉をとりあえず煮たやつ。具材も大体決まっているが、ほかの買い忘れがあるとうまくないのでスーパーへ来たときは用事のなさそうな棚もとりあえずまわってみることにしている。案の定ああそういえばこれなくなりそうだったな、ならあれも……というものがちらほら出てくる。でも一つだけ忘れなかったものがあって、それはなにかっていうと正月に研磨が美味しい美味しいって食ってたみかんだ。年末年始くらいは良いか、といつもよりも奮発してみたところ予想以上に好評を頂けた逸品である。ただ、調子に乗って「普段のもこれにするか?」なんて言ったのは失敗だったかもしれない。だってこれ、本当に高いんだ。もちろんびっくりするくらい甘いから値段のぶんの価値はある。
正月といえば、研磨の初夢は俺たちがただの幼馴染から今のような関係に変わったあたりのできごとが至極鮮明に描写されたものだったらしい。研磨は「絶対言いたくない」と顔をしかめながらもどこかそわそわしていて、「聞きたいなあ」とおねだりしてみたら渋々、といった体で教えてくれた。言わなきゃよかったと口をとがらせるのをからかいながら、久しぶりに研磨に好きだと言われたばかりのころの、ふたりして挙動不審に手を繋いでいたときの感情を思い出していた。今でも研磨に対しての気持ちは変わらないけど、いかんせん俺たちの付き合いは長い。だからもうあのときめきは味わえないだろうなと思ってた。ぶつくさ言いながらちんたらみかんを食う研磨に向けてはやくチューさせろって念をじわじわ送った。
みかんの入った買い物袋は重い。次に研磨が俺の家に来るのがいつかは決まっていない。けど気まぐれにふらっとやって来たりもするから、つねにストックしておきたい。もし研磨が来るまでに俺が全部食べることになっても、ひとりじめできてラッキーだとポジティブに考える。
下手くそな研磨の代わりに俺はいくつもみかんを剥いてきた。単純に考えて普通のひとの二倍は剥いている。あいつもごくたまに挑戦してはいるけど、一向に上達する気配がない。おそらく俺に剥いてほしくて下手なふりをしているんだ。そう思うことにしている。かわいいやつめ。


一月某日(木)

「もしもし、研磨?」
と電話をかけるのはなんでか大体木曜日。でも毎週絶対連絡するって決めている訳じゃない。互いに別の友達と遊びに行くこともあるし、とくに予定がなくとも一人でだらだら過ごすときもある。付かず離れずが俺たちの長続きの秘訣だ。でも今週は研磨と過ごしたい気分だったから素直に電話してみたわけ。
「なに?」
「土日どっちか空いてたりする? 会社の人から美術館の入館券もらったんだけどさ」
「美術館? 混んでそう」
「あー、ちょっと辺鄙なところだから、そんなでもないと思うよ」
あからさまに面倒くさい、という声を出した研磨だったが、俺が具体的な地名を述べると面倒くさいオーラがやわらいだ。なにか琴線にふれるものがあったのだろうか。
「ふーん。……また土曜でいいの?」
「研磨が良いなら」
「おれは、別に」
「じゃあ決まり! 八時に駅な」
「早……うん。わかった」
毎日会えなきゃ嫌! 一秒でも良いから話したい! なんてことは今更思わないけど、たとえ携帯越しだとしてもこうして会話をするとなんだかほっとする。不愛想で適当な話し方は昔っから変わらない。ときどき本当にしょうがねえなと呆れることもあるけど、結果的に癒されている。
呆れるといえば、研磨も今は実家を出て俺の二駅隣の街で一人暮らしをしてる。自立すればあいつのずぼらなところも多少は改善するものと思っていたけど、そんなことは全くなかった。洗濯物は常に干しっぱなし、台所のシンクは“週に何回か”片付けるらしい。それでも研磨なりに元気そうにはしてるから人間ってのは頑丈にできてんだなと感心する。あ、でも一回だけヤバかったときがあったな。電話は出ないしメールも返ってこない、で心配になって仕事帰りに寄ってみたらの布団にくるまってぐったりしてた。風邪ひいてたんだ。そのときの研磨はまだ学生だったから、連絡がなくてもサボりで片付けられて誰ひとり心配してくれなかったらしい。
一人暮らしで体調が悪くなると、たとえただの風邪であろうとも実家にいたときの数倍心細くなる。そのときの研磨はめちゃくちゃ素直で、ずっと風邪ひいてりゃいいのになんてちょっとだけ思ってしまうくらいだった。もちろん口には出さなかったけど、罰が当たったのか俺もその数日後にばっちり寝込みまして。けど研磨がレトルトのおかゆをチンしてさらにフーフーまでしてくれたからプラマイゼロってやつ。
冗談っぽくルームシェアでもするかーなんて話したことはあるけど今のところ実現には至らない。やっぱ俺たちは今くらいの距離感がベストな気がする。あんまり会えないほうがちょっとした時間にもわーってなれてお得だ。今だって土曜のことを考えて、遠足前の小学生みたいにわくわくしてるんだから。


一月某日(金)

金曜の朝ってのはやっぱり気分が良い。今日を乗り切れば休みだーっていう開放感。すし詰めの電車もすがすがしい土日を想えばまあ我慢できなくもない。
「……ぐっ」
満員電車のなか、知らないお姉さんのヒールが俺の足へ盛大に乗り上げた。
「あっごめんなさい!」
「いえ、大丈夫ですよ」
引き攣る顔をひっこめて、営業スマイルで会釈する。でけえし頑丈にできてんだ。割り箸かってくらいのほっそいヒールで踏まれるくらいどうってことない。こんな、刺すような痛みだって、べつに、じきにやってくる休日を想えば、このくらい、研磨と過ごす時間を想えば、こんなの屁でも──やっぱり痛い。無機質な天井を見上げてにじむ涙をどうにか遣り過ごした。

足の甲にじわじわした痛みを感じながら、仕事を黙々と片付けていく。とみせかけてちょいちょい明日のことを考える。こんなに長く一緒にいるくせに、研磨とふたりきりでおでかけ的なおでかけをしたことはまったくと言っていいほどない。せいぜい繁華街で映画を観たり俺にはサイズの合わない洋服を眺めるくらいだ。それでも満足だけど、正月に久しぶりのときめきを味わってからはなんだか無性に遠出がしたい。賑やかな観光地でげっそりする研磨をなだめるのも良いし、静かな公園かなにかでただただのんびり過ごすのも良い。ちょっとだけ、いつもと違うところへ行ってみたい。
明日行く予定の美術館は、研磨に伝えたとおり辺鄙な場所にある。片道三時間弱。二時間ちょっと電車を乗り継いだあと、一時間に三本くらいしかないごくごく普通の路線バスに揺られてやっと辿り着く。海を見渡す近代的な建物はまだ新しくて、併設されたカフェの料理が美味そうで、美術自体にさして興味はなくともわくわくしている。というか、俺はきっと研磨がいればなんでもいいんだ。なんて。
自然とゆるみかける顔面にきっと力を入れてパソコンのキーを叩いていると、向かいに座る同僚に「なんかあった?」と心配そうに尋ねられた。般若の面みたいな顔をしていたそうだ。「いや、なんもないけど」と研磨みたいな返事をしたけどその実、明日のおでかけのことを話したくて話したくてたまらなかった。
終業後は呑みの誘いも断ってまっすぐ家に帰った。適当な夕飯をつつき、ノートパソコンを広げる。インターネットの検索バーに明日訪れる地名を打ち込み、なにかほかに面白そうな場所がないかをあらためて調べた。なかなか予約のとれない隠れ家食堂、女子に人気のパワースポット、職人技のひかる伝統工芸品……ウェブページを方々飛び回っていると、まったく関係のない大きなバナー広告が目についた。旅行会社の、春のうんたらツアーみたいなやつだ。
「旅行かー」
齢を重ねるごとにでかくなっていくひとりごとを漏らしながら、ぐぐっと伸びをした。昼間のようになんとなくいいなあと思ったことはあったけど、具体的にどうこう考えるところまではいかなかった。今さらふたりで旅行に行かないか? なんて照れくさいし。まあとりあえず、見てみるだけ。かち、と軽い気持ちでバナーをクリックした結果、時間も忘れて机上旅行を繰り広げることとなった。


一月某日(土)

「うわああああああああ!」
九時だ。寝過ごした。 研磨と約束したのは八時。夜ではなく朝の八時。今は、朝の九時。つまり約束の一時間後。最悪だ。夜更かしのせいかアラームも聞こえなくなるほど気持ちよく眠ってしまっていたらしい。わなわなふるえる手で携帯を開くと、研磨からは着信が三件とメールが一通届いていた。
『ねてる?』──ご明察、寝てました。朝起きてからでいいやとベッドに突っ伏してしまったためまだ風呂にも入っておらず、寝ぐせ頭にさらに寝ぐせがついて随分面白いことになっている。とりあえず電話して、謝って、あああ……ここまでひどい寝坊は初めてだ。半端にひっかかっているシャツを脱いだり着たりしながら携帯の発信ボタンを連打する。つながりはするものの呼び出し音が鳴るばかりだ。怒ってんのかなどうしよう。
とひとりでバタバタしているとインターホンが鳴った。このタイミングで? うちは留守です! 耳元からは呼び出し音が鳴り続けている。ピンポーンとふたたびインターホンが鳴る。研磨はまだ電話に出ない。絡みつくシャツをぶんぶん振り回していたら壁に肘打ちをかました。「あー、もう」そして今度は、がちゃりと鍵の開く音。合鍵を持っているのは親と大家と、それから──
「──あ、やっぱり寝てたんだ」
呆れ顔で入ってきたのはやっぱり研磨だった。瞬時にその場にひれ伏し、謝罪と言い訳を全力で並べる。
「ああーっ悪い! いつの間にか寝てて、起きたら朝で……ごめんな、外寒かったよな?」
「べつに。おれも遅刻したし。何回か電話したけど出ないから、あーって思って、店入ってお茶飲んでた」
「あ、そ、そうなの……」
なんだ、全然怒ってないじゃん。へなへな脱力する俺を研磨はいつも通りの無表情で見下ろしていた。
「それで、どうする? これから出かける? おれここまで来たし、このままクロん家でだらだらするのでも良いけど」
「あー……」
ちゃちゃっとシャワーを浴びて着替えれば一時間もかからずに出かけられる。だけど正直な話、今日は見送りたい気持ちが強かった。いかんせん便が悪い。これからばたばたと出掛けても目的地へ着くのは良くて昼過ぎだ。
「……じゃあ、それで。ごめん」
「べつにいいよ。そしたらおれちょっと寝てるね」
「え? お、おう。おやすみ」
研磨はちいさな口をめいっぱい開けてあくびをし、ベッドにもぐりこんだ。なんだよこいつ、自分が眠かっただけかよ。

俺が風呂から戻ると研磨はぐっすり熟睡していた。せっかく俺がいるのに寝すぎだろうと思いつつも、早起きさせておいて肝心の予定をおじゃんにした申し訳なさからなにも言えない。それにわざわざ起こしてまですることもなかった。
こたつにもぐり、小声でテレビに相槌を打ちながらときどきベッドにも目をやる。こんもり丸くなった布団が呼吸に合わせて上下している。布団のすき間からちらりとのぞく寝顔はごくごく真剣で、一所懸命エネルギーを補充しているみたいでかわいいなと思う。一応言っておくがかわいいってのは犬とか猫とかそういう意味。
こんな感じで、俺たちのおうちデート(はあと)は大体、適当にメシ食って昼寝して、気が向いたら駅前のレンタルショップまで散歩して、流行りの映画を借りてきて観る──そしてたいていどちらかが途中でまた寝る──みたいな、ゆっるい時間を過ごして終わる。
結局研磨は昼飯の焼きそばを作り始めるまで起きなかった。俺のベッドは広くて落ち着くらしい。ベッドの上に洗濯物やら雑誌やらをごちゃごちゃ置くから狭いんじゃないのか? とも思うが言わないことにしている。研磨が昼寝をしていったあとは俺のまくらから研磨のシャンプーのにおいがするから、俺のベッドで眠るのをやめられてしまったらちょっとだけ困る。
昼飯を食ってお茶を飲みながらだらだら喋って、夕飯の買い出しに出かけたらあっという間に夜がきた。やっぱり今日はおうちデートに切り替えて正解だったように思う。それでも、研磨との遠出を惜しむ気持ちはまだまだ残っていた。

「今朝はごめんな」
こたつに入ってぐつぐつとあぶくを立てる鍋をつつきながら、ふたたび謝った。今日の鍋はちゃんと土鍋に具材がきっかり並んでいるタイプのやつ。ほこほこと立ちのぼる湯気で部屋がいっぱいになる。研磨はもさもさ食んでいた白菜を飲み込むと、ちいさくため息をついた。
「べつに、もういいって。ちょっと調べてみたけど、春までやってる展示なんでしょ? また行ったらいいじゃん」
「遠いの面倒じゃねえの?」
「ううん。いいよ、予定立て直してさ、行こ。今度は前の日にちゃんと寝て、寝坊しないようにして」
研磨がいつもよりちょっとだけ優しいのは、ふたりで半分ずつ飲んだ缶チューハイで心持ち酔っている証拠だ。俺がふへへと不気味な笑みを浮かべても眉をひそめたりしない。それどころか「クロ、うれしいの?」といたずらっぽく問うてくる。そんなの嬉しいに決まってるだろ。
「……研磨」
ずず、と座ったまま移動して薄い肩にしなだれた。いつもより優しい研磨は、重いと言いながらもしっかり受け止めてくれる。俺みたいないかついのがこうして恥ずかしげもなく甘えられるのも、酔っているせい。
「クロ、鍋、冷めちゃうよ」
「そんなの、そんなのべつにまたあっため直せばいいだろ」
「はあ? なに怒ってんの」
 変なの、と笑われたことに口をとがらせた。
「今日、やっぱり出かけたかった」
「だからいま、また今度行こうって言ったじゃん」
「約束、」
変わらずへそを曲げたままの俺に、研磨は
「するよ、約束」
とやさしいキスをくれた。しょうがないなあ、みたいな顔をしてぽんぽんと頭を撫でてくる。これでは一体どちらが年上なのかわからない。
「研磨、」
面倒くさくてごめんなと心のなかで謝りながら、頼りない胸板に耳をくっつける。かち、とカセットコンロの火を止める音が遠くから聞こえた。


一月某日(日)

湯たんぽも電気毛布も、ぽかぽか添い寝研磨のぬくもりにはかなうまい。
まだすやすや眠っている研磨を起こさないようにベッドから抜け出ると、ちょうど足元に置いてあった研磨のリュックを蹴飛ばしてしまった。
「ん?」
ファスナーが開けっ放しになった口から、なにか冊子のようなものが飛び出した。
「『列車で行く名湯の旅』……」
拾い上げてみると、それは旅行のパンフレットだった。ぺらぺらのちらしではなくて結構厚みのある、立派なパンフレット。その場に座り込み、ぱらぱらとページを捲っていく。載っている宿はどこも落ち着いていて、パンフレット全体からただよう雰囲気からも対象年齢は俺らよりも高めであるように思われる。たっけえな、などとぶつぶつ言いながら眺めるうちに、ちらほらと端の折られたページがあることに気付いた。もしや、と勝手に都合のいい解釈をしてしまう。
「ちょっと、なに見てんの」
ひとりでぽわぽわしていると、慌てた声とともに背後からパンフレットを奪われた。もう起きちゃったか。
「なあ研磨、それなに」
「なにってべつに、ただのパンフレットだけど」
「そんなの見りゃわかるよ」
研磨は寝起きでぼさぼさの髪をかき、はあと肩をすくめた。
「駅に置いてあったから、昨日クロ待ってる間に見てた。たまには甲斐性あるところ見せたら、って言われて、それで、だから、でもべつに、おれは……」
え? 今なんて言った?「え?」と言いながらへどもどする研磨を遮る。
「ちょ、ちょっと待った、甲斐性って、誰に言われたんだよそんなこと」
「母さんだけど。普通に」
「……は?」
一体なにが普通に、なのか。おばさんは、俺たちのことを知っているのか? ばくばくと鼓動が速くなっていく。
「研磨お前、は、話してたのか?」
「ああ……言ってはないよ。でもなんか、正月どうしてたのか聞かれて、またクロとだらだらしてたって答えたら、そう言われた」
きちんとふたりで話したことはないが、研磨は俺がひとりでもやもやと悩んでいることを知っている。研磨はやわらかい声で、俺を落ち着けるように続ける。
「冗談、だったのかもしれないよ。よくわかんないけど。でも……まあおばさんたちもさ、おれだったら間違いないって言うんじゃない」
「……」
「なんでそこで黙るの」
「痛ってえ」
俺のわき腹に肘鉄をかまし、研磨は俯いてしまった。今のはこいつなりのジョークだったらしい。でも、ものすごくぐっときた。楽にもなった。ひとり深刻になっていた自分がばかみたいだ。へらへら笑って研磨の頬を突っつくと、「やめて」と手を振り払われる。照れてやんの。
「……で、どこ行く? いつ行く?」
「切り替え早……もう行くの決定なの? おれはどこでもいいし、日にちもクロに合わせられると思う」
「えー! 研磨もちゃんと考えろよ! 言い出しっぺなんだしさ」
「だから、おれはクロの行きたいところでいいって……」
「それはナシ! 俺だって研磨の行きたいところに行きたいの!」
甲高い声できゃぴきゃぴはしゃいでみせると、研磨は心底面倒くさそうな顔をした。俺はこの顔を見るたび、少々わかりづらい愛情を実感する。
「うーん、まあ、とりあえず朝ごはん食うか!」
「うん」
「今日はもう旅行の話以外しないからなー」
「えー……」
目覚めてから十分足らずで俺のテンションは最高潮に達していた。鼻歌では飽き足らず、最近よく耳にする流行りの歌をフンフン歌いながら軽快なステップで台所へ行く。下の階のひとから苦情がくるかも、とかそんなことはもうまったく考えられないほど舞い上がっていた。
「けんまー」
「なに?」
「食パン何枚焼く?」
「……一枚」
「けんまー」
「なに?」
「スープは?」
「……いる」
居間から聞こえる呆れたような声が、俺を更に浮かれさせる。クロうざいー面倒くさいーって言いながらも相手をしてくれるところ、本当に好き。嬉しすぎて、真面目な悩みはあっさり吹き飛んでしまった。どうやったってなるようにしかならないし、研磨と一緒ならきっと大丈夫だろ! と子どものころのように根拠もなく思えている。
「けんまっ」
「今度はなに? ゆでたまごはいらないよ」
いやあ、幸せだなあ。少なくとも旅行に連れて行ってあげようと思うくらいには好かれているんだなあ。俺は研磨が好きだし、研磨も俺のことが好き。それで充分じゃあないか。
「呼んでみただけー」
浮かれた声を出しつつ、台所からひょっこり顔をのぞかせた。研磨は渋い顔をしているが、その実満更でもないと思っているのがばればれだ。なにかを隠しているときは、かわいい口がつんととがるから。
「そういうのいいよ。おなか空いたから、早くして」
「はーい」

研磨とふたりでどこまで行こうか。どんな話をして、なにをしようか。一緒に行きたいところも見てみたいところもどんどん思い浮かんできて、一日二日じゃ到底まわりきれそうにない。ひと月に一か所訪れるようにすれば、じいさんになるころには制覇できるかも。そうする間にもどんどん増えるんだろうけど、研磨ならきっと文句を言いながらも付き合ってくれることだろう。そして一番初めに行くのは、ふたりでバレーの練習を始めた河川敷がいい。

「けんま」
「なに」
「けーんまっ」
「もうなんなの、うるさいよ」
部活をしていたころを思い返して、目一杯息を吸い込んだ。
「──好きだ!」
「はいはい、おれも好きだよ」
研磨はうるさいとは言わず、やさしく笑った。
お前らいくつだよって感じだけど、仲良きことはなんとやら。今俺は、すんごい満たされてる。いやあ、わかってはいたけど、全然わかってはいたけど、愛されてるなあとあらためて思うわけだよ。
俺はしあわせ者だなあ、うんうん。



2016/01/24
2016/01/29



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