小説 | ナノ
練馬大根憂歌

 山本猛虎は震えていた。据え膳を目の前にしてただただ震えていた。件の据え膳、もとい研磨は普段通りの何を考えているのかよく分からない表情で猛虎を見上げている。
「ねえ」と呼びかけられる声も今の猛虎の耳には入らない。
 なにせ初めてなのだ。頭は爆発寸前である。そんな猛虎は研磨のやる気のない顔が蕩けるところを想像し、ごくりと喉を鳴らした。数え切れないほどのイメージトレーニングで手順は完璧過ぎる程に分かっている。筈だ。あとは心を決めるだけ。落ち着け、落ち着け猛虎…。すうはあと深呼吸を繰り返す。
「ねえ、しないの?」尻の下の据え膳もとい研磨は焦れ、部屋着のTシャツを自分で脱ごうとした。何をしやがる!と猛虎は血走った目を見開く。
「待て待て待て!ムードってもんがあんだろうが!」
 突然耳元で出された大声に研磨は顔をしかめた。
「だって虎、もうずっと座ってるだけじゃん。重い…」
「うるせえ!俺にだって心の準備というものがだな!!」
「ちょっ…唾とぶ。分かったから、そんなに大声出さないでよ。下に母さんいるんだってば」
「ああ、お、お母様…」
 そうだ、玄関を上がった時に全身をガチガチにして挨拶したのだ。あらゆる緊張のせいで猛虎はたった10分前の出来事すら忘れてしまっていた。

 音駒高校二年、山本猛虎はごくごく普通の男子高校生である。部活の遠征で宮城へ訪れた折に出会った相手チームの美人マネージャーをただただ遠巻きに眺め、同じクラスの女子とも満足に会話出来ないという純情な一面も持ち合わせている。
 こんな自分もいつかは花のような乙女と映画のような甘酸っぱい恋をするのだ。そう信じて疑わなかった彼が初めてお付き合いすることになったのは、性別は自分と同じ男、部活のチームメイトである孤爪研磨だった。女子とコミュニケーションが取れなさ過ぎて同性に走ったのか?と随分悩んだが、答えは未だ出ていない。
 相手のどこが好きなのか?と尋ねられてもきっとまともに返せないだろう。宮城の美人マネージャーのような、猛虎が理想とする女性像から研磨はあまりにもかけ離れている。凛とした美しさもふわりと漂う女性らしい香りもない。研磨も髪は長めだし華奢ではあるが、どちらにも“男にしては”という言葉が頭につく。女には到底見えない。顔だってずば抜けて綺麗だとか中性的というわけでもないし、性格だって穏やかとは言えない。人見知りが激しいために物静かだと思われがちだが、慣れてしまえばずけずけと物を言うし、そういう時の研磨はやけに迫力があって少し怖いと猛虎は思う。だからどこが良くて好きになったのか今も分からない。でも惹かれているのは確かなのだ。
 その気持ちを言葉にして伝えた記憶は全くない。何が切っ掛けだったのか今となってはさっぱり思い出せないのだが、夕陽でオレンジ色に染まった部室でどちらともなくキスをして、そして多分、世間一般でいう恋人のような関係になった。勿論研磨からも何も言われていない。
 そんな二人だが、キスは何度もした。部室に誰もいなくなった時とか、休憩時間の水飲み場とか、合宿中、皆が寝静まった後に示し合わせて外に出たりとか。「面倒くさい」が口癖でそういうことにもあまり関心がなさそうな研磨だが、猛虎の誘いは基本的に拒まないし、時折猛虎の腕をひいて急かすような素振りも見せるため、案外乗り気であるように思われる。研磨の小さな唇に噛みつき狭い口内をかき回す度、猛虎は何を考えているのか分かりづらい研磨の全てを理解した気になった。
 その先は未だだった。お年頃の猛虎は今すぐにでも致したいと常々思っているが、ゆっくり二人きりになれる機会は部活だなんだで忙しい彼らには殆どない。

 悶々と熱を持て余す少年の前にぼたもちが落ちてきたのは、テスト前の部活休止期間、その初日のことだった。
 前日に約束していた通り、昼休みが始まると適当な場所で研磨と落ち合い、「歩くの遅えよ」「虎がはやすぎる」と軽口を叩きながら仲良く並んで屋上へ行った。広々した空間に先客はおらず、二人が一番乗りであった。それを確認するとどちらともなく搭屋の裏手にまわりこみ、お互い弁当を手に持ったまま唇を合わせる。始めは触れるだけだったそれが深く深くなっていくのに、さして時間はかからない。
「研磨…」
「虎、ん…っ」
 よく晴れた空は雲のひとつもなく、真っ青だ。二人は太陽から逃げるように、塔屋の裏のじめっとした日陰で互いを貪り合う。これだけで満たされないのは分かりきっているが、それでも猛虎は全力でぶつかるのをやめられない。
 しばらくそうしているうちに、がちゃ、と音を立てて猛虎の弁当袋がコンクリートに落ちた。ああ、今日は寄り弁だ。研磨はぼんやりしてきた頭で自分の唇を食む男の手弁当を哀れんだが、持ち主は全く気付いていないのか、気付いているがどうでもいいのか、研磨の酸素を奪うのをやめない。洗い呼吸音は誰かが屋上へやって来るまで止まなかった。
 どんなに顔を火照らせ、瞳を潤ませていても、研磨はそれが終わって少し経てばいつもの無表情に戻る。出会った頃はいけ好かなかったこの顔を、猛虎は今では愛おしく思う。長い金髪が太陽に照らされ、傷みの激しい部分が金属のようにギラギラと光っている。だけど見た目に反して柔らかな手触りをしているのを猛虎は知っている。崩れてしまった弁当を食べ終えたら、くしゃくしゃに撫でてやろうと思った。うざいと言いながらもされるがままの研磨を見ていると、自分の所有物になったような気がする。
 そんな猛虎の気持ちは露知らず、研磨は紙パックのジュースを啜りながら爆弾を投下した。
「ねえ、今日、家くる?」
 それは、数日前に猛虎が一千のオブラートに包んで言った「一発やらせてくれ」という発言に対する答えだった。
「えっ…」
「母さんはいるけど、別に部屋まで来ないし。ごはんも、食べてっていいし」
 猛虎は生唾をのんだ。
「なあ、それって、」続きが言えずもごもごする猛虎に、研磨はそっぽを向いて頷いた。ずずっと紙パックを啜る音が、やけに大きく聞こえた。

 そして場面は冒頭に戻る。ベッドの上で鼻息を荒げた猛虎に組み敷かれ、研磨は焦れていた。
「はやくしてよ…」
「っ、分かってるよ」
 研磨はある理由からとにかく急いているのだが、猛虎はそれを研磨なりの煽りと受け取り一人盛り上がっていた。目の前の研磨はいつものようにすましているが、猛虎の脳内ではどえらいことになっている。雲のようにふわふわのベッドで揺られる生っちろい素肌は火照って桃色に染まり、所々が得体の知れない粘液で汚れている。必死に歯を食いしばって堪えても鼻にかかった声が唇のあわいから漏れてしまう。湿った髪を揺らして波打つ身体を捩るごとに方々から濡れた音が鳴る。それを羞じらう色素の薄い瞳は涙の膜で覆われて、今にも溢れてしまいそうだ。猛虎はそんな、今まで見てきたどんな女(ただし実物ではない)よりも猥褻な研磨をあらゆる角度から穴の開くほど見つめているのだが、どうした訳か肝心の部分は靄がかかっていて見えない。…いやいや、今からソコをどうにかするんだろ?猛虎は自分にツッコミを入れる。しかし他人のどころか自分のものだってまともに見たことがないし、果たして上手く出来るのかどうか。先日、風呂場で試しに自分の尻をまさぐり出入り口を突いてみたが、小指の先だって入らなかった。
「て、うお!」
 妄想世界に旅立つ猛虎に焦れた研磨にぐいと身体を引き寄せられ、軽く口付けられた。研磨は猛虎の唇をぺろりと舐め、ちいさく笑った。
「夜になっちゃうよ」
「ぐ…」悪戯っぽい顔が、少しだけ脳内の乱れた研磨と重なる。目の毒だ。
 研磨はいつもより積極的に唇に吸い付き、膝で猛虎の猛虎をぐりぐり刺激する。こいつ、こんなに俺を…!猛虎はみみっちく悩んでいた自分が馬鹿らしくなった。最悪、最後まで出来なかったとしても良いではないか。男女だって上手い具合にいかないこともあるらしいのだから。腹を括るとがばりと研磨を抱き締め、熱い口内をいつもよりずっと優しく愛撫した。

 そろそろ、という段になり、猛虎は改めて問うた。
「なあ、本当に良いのかよ」
「いいって言ってるじゃん」
「あー、可愛くねえな」
 などと言いつつも、猛虎はそういうツンケンしたところに図らずもキュンとさせられてしまうのだ。面倒くさそうにしつつも自分と懇ろになることはやぶさかでないと思ってくれているのだ。
 ふーっと長い息を吐きながら研磨のTシャツをゆっくりまくり上げれば、小さなへそ、うっすら浮かぶ肋骨、筋肉もあまりついていない貧相な胸がじりじり露わになっていく。猛虎は研磨以外の男には興味がない。女が好きだ。小柄で、出来れば顔の良い子がいい。そして胸はなるべく大きな方を好む。大きければ大きい程いいのではないかと思う。重量感のある球体を思い浮かべながら、研磨の胸板をちらりと見やる。ああ、自分的にベストなGカップが100点だとしたら研磨は0点、いやマイナス30点だ。これは乳ではない。だってなんだか物凄く平面だし。しかし脳内乳評論家の評価に反し、猛虎はかつてない程に興奮していた。
「う、うおおおおおおおおお!!!!」
 触れられない非実在Gカップよりも断然目の前のまな板である。そしてただのまな板ではない、愛しの研磨のナマ乳なのだ。マイラブ!凹凸もくそもないが、ぷつりと尖った淡い色の突起はマイナス30点を十分にカバーして更にお釣りが来るくらいには愛らしい。そしてなんだか見ているこっちが恥ずかしくなるくらいいやらしいのだ。そんな、皮しかないような胸をそっと揉むようにすると、研磨の頬がすっと桃色に染まった。視線を泳がせ困惑している。羞じらっているのだと理解するや否や、猛虎の欲望がむくむくと首をもたげる。
「おお…おお…!やべ、なんか、はあっ、はあっ、研磨、け、研磨っ…!」
「っあ、ちょっ、虎、だめだよ」
 危険を察知した研磨が猛虎を押し返すが、一度スイッチが入ればもうやめられない止まらない。そのまま平たい胸板にむしゃぶりつき、小さな突起を舌で転がし、掃除機よろしく吸う、吸う、吸う。味はないが、時折柔らかい産毛の感触がする。鼻から息を吸えば研磨の匂いがする。
「はーっ、研磨っ!研磨っ…!」
「…やだ虎、だめ、だめだってば!」
 研磨はフンフン喧しい猛虎の頭を掴み、首を振って抵抗した。だめだって?いやいやご冗談を。こんなに激しく抵抗するのだからきっと好いに違いない。猛虎は調子に乗って舌での愛撫を激しくする。ぢゅうぢゅうと音を立てていると柔らかかった突起がぷつんと硬くなり、更に興奮した。乳だけでこれだ。真打ち登場の暁には一体どうなってしまうのだろうか。
「ぅあ、虎、やめて…」
「ちゅっ、んっ、研磨…!」
 そろそろと、猛虎が片手を研磨の下半身に伸ばした時だった。
「本当に、もうだめだって…!」
「んぶっ!」
 研磨の切迫した声と共に顔面に衝撃が走り、視界が真っ暗になる。うっすら香る研磨のシャンプーのにおいに、枕を投げつけられたのだとすぐに分かった。
「おい!何なんだよ研磨!」
 乳首は舐められたくなかったのか!?でもだめとやめろはマジで止めろって意味じゃないって聞いたぞ!!?女と男ではまた違うのかもしれないが…。猛虎は混乱したが、正解はすぐに分かった。その数秒後に部屋のドアが勢いよく開き、先輩であり部活のキャプテンであり研磨の幼馴染でもある黒尾鉄朗が現れたからである。

「おお山本、珍しいな」黒尾はいつものにやけ面で言う。猛虎は「うわっ出た…!」と心中で毒づいた。
「ち、ちわっす黒尾さん!」心の声が完全に顔に出てしまっているが、黒尾は気付かないふりをしてどかっと腰を下ろした。
「なーんかドタバタ言ってたけど、二人で何してんの?」
「…勉強」研磨が面白くなさそうに吐き捨てる。平時には考えられない素早さで衣服の乱れを直し、ローテーブルの前に座り、テキストを広げて勉強をしていた風を装ってはいるが、肝心のテキストは逆さまだし、髪はぼさぼさに乱れている。顔はまだうっすら赤らんでいるし、呼吸も整いきってはいない。猛虎がぼんやり腰掛けているベッドの上もぐちゃぐちゃだ。決定的な場面は見られずに済んだものの、大多数の人間が見たら喧嘩かなにかかと判断するような状況である。しかし黒尾は一言も触れない。
「ほー、殊勝なこって。ほら、山本もサボってねーでこっち来いよ。俺が見てやるから」
 研磨の髪を優しく整えてやりながら、目だけは猛虎を見てほくそ笑んでいた。悪魔だ、と猛虎は思った。

 まさかこれから致そうとしている現場に踏み込まれるとは予想だにしなかったものの、二人が二人の時間を黒尾に邪魔されるのはこれが初めてではなかった。部室で見つめ合っているとき、合宿で夜中にこっそり抜け出そうとしているとき、「おーっす」と見計らったように現れるこの男のせいで大体六割程度は失敗している。
 二人は自分たちのことを誰にも話してはいないが、黒尾は気付いているのだろうと研磨は言っていた。
 黒尾がトイレに行くと席を立ったタイミングで、猛虎は思い切って前々からの疑問をぶつけた。
「なあ、黒尾さんは、研磨のこと好き、なのか…?」
 顔を引き攣らせる猛虎を、研磨は一蹴する。
「は?気持ち悪いこと言わないでよ…鳥肌立った。クロはあれだよ、あの、「娘はやらん」みたいなやつ…」
「はあ…」
 黒尾は研磨を友人というよりは兄弟のような目線で溺愛している。それがいきすぎて、寄りつく悪い虫を問答無用で殲滅したくなってしまうのだ。『俺が考えた最強の研磨の彼女』以外は許せないのである。
 研磨が中学に上がり、バレー部で少しずつ活躍するようになると、「研磨くんのことが気になる」と言う女子が現れるようになった。研磨はそういうことにさして関心がなかったが、黒尾は獣並みの嗅覚でそれを察知すると、ぱっと見は爽やかな笑顔を浮かべ、しかし背後には物々しいオーラを纏って牽制した。黒尾とて研磨の幸せを邪魔したい訳ではないのだが、どうにも研磨のこととなると脳の働きが正常でなくなってしまうのだ。 猛虎が研磨とここまで関係を深められたのは、さすがの黒尾もまさか研磨が同性に好かれるとは思っていなかったからであろう。
「自分は彼女だなんだって、好き勝手してるのに」
「あー。皆で過保護とか言って茶化してたけど、苦労してんだな…」
 猛虎から向けられる哀れみの目に研磨がため息を吐くと、ちょうど黒尾が戻ってきた。「どうしたー?」と聞かれたところで「今からしっぽりキメたいので席を外してくれないか」などと言う訳にもいかず、「べつに」と返すほかなかった。

 かりかりとシャーペンの滑る音だけがひびく。タイミングは最悪だったものの、それなりに勉強ができる黒尾の存在はテスト勉強には有難い。童貞の如何に関わらずテストはやってくる。こうなったら不得手なところを出来るだけ潰そうと猛虎は頭を切り替えた。研磨にバレー以外の良いところを見せたいという下心も作用し、普段の数十倍は集中することができた。ポケットの中では死ぬ思いで買ったコンドームが泣いているが、部活動の停止期間はまだ始まったばかりだ。研磨もそれなりに乗り気だし、チャンスはきっとある。
 と、いうのは建て前で。一応シャーペンを動かしてはいるものの頭の中は研磨研磨である。気を抜けば数式のなかに「けんま」と書いてしまうかもしれない。
 妄想の中のとろとろになった研磨も勿論良いが、現実の、すまし顔の裏に恥じらいと困惑の見え隠れする研磨の方がずっと色っぽくてどきどきした。
 隣ではその研磨がシャーペンを持つ手を静かに動かしている。罫線の上に上手いとも下手とも言い難い独特の文字が並べられていく。骨ばった指先からゆっくりと視線をずらす。今は衣服ですっかり覆われた生肌を、自分は先ほどまで自由にしていたのだ。全く見た事がない訳ではないが、部室で合宿の風呂でただ視界に入ってくるのとは訳が違う。それにしても、本当筋肉ねえよな。先に見た上体が脳裏を過る。小さいへそ、浮いた肋骨、ぺたんこな胸。もっぺん触りてえ…。
 唐突に、指の腹で触れ、口の中で弄んだ突起の感触が思い返される。いつもとは違う切羽詰まった研磨の声が、猛虎好みの安っぽい科白を都合よく読み上げる。腹の奥がじりじりしてくるのを感じ、これはいかんぞとモヒカン頭を小さく振った。ベッドでごろごろする黒尾さえいなければ筆記具を投げ捨て、今すぐこの場で押し倒してしまえるのに。
 研磨が瞳だけを動かし、悶々とする猛虎を見た。そして少々呆れた顔で猛虎のノートの端に「見すぎ」と走り書きする。そういう何気ない動作にいちいち心臓が跳ねてしまうのは、研磨に恋をしているなによりの証拠である。猛虎は慌ててテキストに向き直った。

「あー、もうこんな時間か」黒尾の呟きで、ぴんと張り詰めていた空気がゆるんだ。携帯の画面に表示された時計を見ると、いつもならとっくに帰りの電車に揺られているころだった。部活のあるときは、帰宅してから勉強することは殆どない。猛虎はシャーペンを放り出し、大きく伸びをした。
「くあー、こんなまともに勉強したの久しぶりっす」
「おお、頼れる先輩に感謝したまえ」にやにや笑う黒尾に、研磨が訝しげに尋ねる。
「…っていうかクロ、なにしに来たの」
 言われてみれば確かにそうだ。自分だって勉強があるはずなのに手ぶらでやって来て、二年生二人が集中して手が空いた時にはバレー雑誌を眺めてベッドでごろごろしていたのだ。
「ああ、おばさんに呼ばれた。秋刀魚もらったから鉄くんも食べにおいで〜?って」
 猛虎に向けてだろうか。嫌味っぽく裏声を出す黒尾に研磨はあからさまに機嫌を悪くした。
「なら夕飯の時間に来ればよかったじゃん」
「何だよ、俺が来ちゃ悪いのかよ」
「そんなこと言ってないし」
 研磨の物言いに鉄朗も少しだけむっとして、それっきり研磨の部屋は静まり返ってしまった。不穏な空気に頭を抱えるのは猛虎である。喧しく言い合いをしているなら割って入れるが、二人揃ってだんまりを決めてしまわれてはどうしようもない。何気ない風を装って適当な話題を振ったところで、頭のまわる黒尾と研磨にはその意図がすぐに見破られてしまうだろう。現に、以前研磨とちょっとした言い合いをして気まずくなった時に、話を逸らそうとして更に機嫌を悪くされたことがある。勢いで乗り切るタイプの猛虎のコミュニケーションは、こういう時にはあまり役立たない。
 なす術もなく立ちつくす猛虎に救いの手を差し伸べたのは、階下から聞こえる「ごはんできたよー」という研磨の母親の優しい声だった。涙が出そうだった。
 三人は無言のままぞろぞろと階段を下り、食卓につく。今日の孤爪家の夕食のメインは黒尾が言った通り秋刀魚の塩焼きであった。渋い皿に盛りつけられ、大根おろしもすだちも添えられている。声を揃えて「いただきます!」と言うなり、ぱくぱくと口に運んでいった。些細な苛立ちはお腹が膨れれば消えてしまう。研磨も黒尾もすっかり元通りだ。猛虎も猛虎で、黒尾の行動には納得し切れていないものの、自宅とも部活ともまた違った雰囲気の食卓を素直に楽しく思った。
「山本、お前案外まともに食うんだな」必死に身を外した秋刀魚を黒尾に褒められ、多少は自分の株も上がっただろうかと猛虎は考える。
 黒尾も好物に挙げるだけあって綺麗に食べている。研磨はあまり上手くない―というよりそもそも綺麗に食べようという気がない―が、あばたもえくぼというやつである。しかし猛虎の目は、綺麗に背骨だけになった秋刀魚よりも、節くれ立った指が動かす箸の方に向いた。猛虎に出された箸は客用と思しき綺麗な物だが、黒尾が使う箸は所々塗りの剥げた、年季の入ったものだ。長さも黒尾には足りなそうである。よくよく観察してみると、箸だけでなく茶碗も湯のみもそうだった。きっとこれらは黒尾専用のものなのだろう。
 食後に研磨の部屋に戻った時も、猛虎はそこかしこに黒尾の影を見留めた。黒尾と刺繍の入った中学のジャージ。黒尾がよく読んでいる漫画。バレー雑誌。自分のテリトリに互いの存在があることは、黒尾にとっても研磨にとってもごく当たり前のことなのだと猛虎は思い知った。だからといって、相手の恋路を邪魔していい理由にはならないけれど。

「おじゃましましたー」
 初めての交わり(未遂)、面倒な幼馴染の襲撃、美味しい夕食。なんだかジェットコースターに乗っているようなお宅訪問だった。自分たち以外のカップルも家デートの際にはこんな大変な思いをしているのだろうか。猛虎はぺこぺこと頭を下げて孤爪家を後にする。研磨はひらひら手を振りながら、声は出さずに「ごめん」と言った。今の猛虎にはそれで十分だった。
 猛虎に続いて外に出てきた黒尾は玄関のドアが完全に閉まった事を確認すると、きょろきょろと辺りを伺い「山本、分かるよな?」と潜めた声で言った。
「えっ?なんすか?朝練…」と言いかけたのを、物凄い勢いで遮る。
「分かるよな?」
 猛虎はがっしり肩を組まれ、顔を覗き込まれたところで黒尾の言わんとすることを理解した。顔は笑っているが、目は完全に据わっている。ぴったり密着し、脇腹を突きながら「ん?ん?」と楽しそうに猛虎の返事を促してくる。ヤクザかよ!と思うが、残念なことにそういう部分も込みで黒尾のことは尊敬している。ただ、自分にも譲れないものはある。猛虎は漢気を振り絞り、キッと黒尾を見返した。
「わく…分かんないっす。すんません。お疲れす!」
 噛んでしまったが上出来だ。重い腕をぐいと振り払い、小走りにその場を後にする。そして一つ目の角を曲がり、黒尾の視線を感じなくなったところでその場にへたり込んだ。
「あああああ、明日どうすんだ…」両手が少し震えていた。
 一方の黒尾もほんの数十秒の家路を辿りながら、高校生にもなって何をやっているんだと自分の大人げなさに頭を抱えていた。

 最寄駅から家までの道をがに股で歩き、猛虎は孤爪家での夕食を思い返した。炊き立ての新米はふっくら甘く、脂の乗った秋刀魚も美味かったが、添えられた大根おろしはぴりりと辛かった。
 首をこきこき鳴らし、思う。本当の難関はポーカーフェイスな研磨ではなく、その幼馴染だったのだと。しかし研磨ですら持て余すあの厄介な男に攻略方法などあるのだろうか。それこそ「娘さんを下さい」とでも言うべきなのだろうか。いや、娘はおかしい。黒尾と研磨はただのお友達だ。
 今後もあの男は二人の逢瀬を邪魔立てするのだろう。なけなしの小遣いを叩けば絶対不可侵の場所を手に入れることは出来る。だけどそれは逃げのような気がした。正攻法でぶつかり、自分を認めさせたい。…ああ、なぜただの幼馴染にここまで苦労しなければならないのだ。秋風が一人ごちる猛虎のモヒカンを揺らす。寒いな、とパンツのポケットに手を入れるとすっかり存在を忘れていたコンドームに指が触れ、やっぱり納得いかねえとか、飯が美味かったとか、研磨が好きだとか、様々な想いが頭の中を駆け巡る。「ちくしょう」と小さく叫び、ぺちんと両の頬を叩いて走り出した。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず。猛虎は自分の名前から連想される言葉の中でもこれが特に好きだ。例えこの身が滅びても必ず研磨を手に入れてみせる。生来のロマンチストな部分が猛虎の心を盛り立てる。しかしどんなに格好をつけたところで、本音はこうだ。
「あー、早くやりてえ」
 そんな、青い月の綺麗な夜であった。



2015/09/29
2015/09/30


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タイトルは『ねりまだいこんブルース』です。伊勢佐木町ブルース、ろくでなしBLUES、そんなノリでお願いします(どっちも古い)
虎氏がスーハーしている裏側では研磨と黒尾の高度な心理戦というかチキンレースが繰り広げられている。今回は研磨の負け
黒尾も人の子なので、こりゃいかんと判断したらそっと自分の家に帰りますので大丈夫です


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