小説 | ナノ
恋いろ急行


 学生だらけの時間帯はどこかのほほんとしている音駒高校の最寄り駅も、社会人がメインの今は少々殺伐としている。綺麗に化粧をした女性が、靴の踵を忌々しげに鳴らして二人の後ろを通りすぎて行った。

 まだ練習着のままの鉄朗と海が部室に戻ったのは、下校時間である七時、その五分前のことだった。
 徐々に近付いてくる足音に反応し、部室の片隅でゲームをしていた研磨が猫のように顔を上げる。研磨の他には、部室にはもう誰もいない。皆、早々と着替えて帰ってしまったのだ。家の近い者ならもう風呂に入るなり夕飯を食べるなりしているのだろう。
「おお、研磨。黒尾のこと待ってたの?」
 引き戸を開けるなり言う海の言葉に研磨はどきっとした。なんと返したものか分からず、ただただ目を泳がせる。
 すると練習着を半端に脱いだ鉄朗が、スポーツバッグを漁りながら呆れたように笑う。
「研磨がそんなことする訳ないって。大方ぼけーっとゲームしてたらこんな時間だったんだろ」
「はは、本当に好きだなあ」
 違う。先に帰ってろって言われなかったし、こんなに遅くなると思わなかった。などという研磨の子供じみた反論は、慌ただしく帰り支度をする二人には全く聞こえていなかった。

 今日は鉄朗にとってなかなか気疲れする一日だった。休み時間は数週間後に行われる文化祭の準備で軒並み潰れた。授業終了後にはその文化祭について、委員会ごとの集まりがあった。
 学年の混ざった集団をまとめるのは鉄朗の役目だ。しかし、気心の知れた面々と接するのとは勝手が違う。「おかしなことを言ったら怒られるのではないか?」と委縮している後輩には安心して発言出来るよう逃げ道を作ってやり、そもそも協力する気がない奴には最低ラインを提示して、どうにか守らせるように策を練る。
 鉄朗は場の空気を読んだり、他人の考えていることを推量するのが得意だ。それを元にして相手をひたすら良い気分にさせることも、意地の悪いことを言って闘争心に火を付けることだってできる。しかし決して常に自分の思い通りに物事が進むようにしたり、場を面白おかしく引っかき回していたい訳ではない。寧ろ誰か一人が我儘を言ったり、そのせいで損をする人がでるのは好きではなかった。他人の考えていることが分かるぶんだけ、余計な情報も入ってくる。胡散臭いだの気が許せないだのと評されるが、要は気い遣いなのだ。
 鉄朗の所属する委員会の集まりは長引き、部活には遅れて参加した。切り替えたつもりでいても、ふと気が抜けるとバレー以外のことが頭の片隅にちらつく。学校行事だけでない。受験だってある。そして手のかかる幼馴染のことも。かぶりを振り、雑念を打ち払う。
 部活終了後に顧問とコーチ、それから海と四人でだらだら長話をしたのは、頭の疲労を忘れたかったのと、いつも並んで下校する幼馴染に一人で帰ってほしかったからであった。

 突然ノックもなく引き戸が開き、上下揃いのジャージに身を包んだ国語教師が現れた。
「男バレまだいんのか。もう電気消すぞー」最終下校時間の見回りにやって来たのだ。
 三年生ふたりは決してのろのろしていた訳ではないのだが、急かされて大わらわである。鉄朗が中身の飛び出たエナメルバッグを背負い、シャツの裾を乱雑にしまいながら、愛想笑いを浮かべる。
「今、今出るんで!ほら研磨も、帰るぞ」
「うん」
「そんな焦んなくてもいいよ。俺は緩いからまあ良いけどさ、次から気を付けろよ」
「はい、すんません」
 国語教師にへこへこ頭を下げながら、逃げるように学校を出た。事情があるとはいえ、事前の許可なしに下校時間を過ぎてしまうのはルール違反である。今回は大目に見てもらえたが、目をつけられれば部活動停止のペナルティを喰らうことだってあるのだ。
「じゃ、また明日」
「おう。明日なー」
 海は、研磨と鉄朗とは違うルートで下校をする。途中で別れるときも、三人とも歩みを止めなかった。皆早く帰りたいのだ。
 
 
 青白い蛍光灯が爛々と光るプラットホーム。人々のざわめきの中に聞き慣れたメロディが割って入り、見飽きた電車が滑り込んでくる。
「座れっかなあ」
「…どうだろ」
 ラッシュ帯の電車は、いつもよりも混んでいる。それでも運良く、二つ並んだ空席を見つけた。
「ふあ〜」硬い椅子を軋ませ、鉄朗はばかでかいあくびをした。それにつられて、研磨も控えめなあくびをひとつ。乾いたくちびるがわずかに痛んだ。
「…おつかれ」
「なめんな、そんなに疲れてねえよ。ただちょっと眠いだけ」
「そう」
 十分疲れてるんじゃん。というツッコミを飲み込み、研磨はリュックからゲーム機を取り出した。それを見て、ふたたびあくび交じりに鉄朗が言う。
「まだやんの?ほんっと好きねえ」
「…うん」
 何気ない一言に焦ったものの、研磨はそれを気取られないように液晶へ視線を落とした。硬いボディは人工皮革のボールと同じくらい指に馴染む。何千回と触れてきたボタンとキイを数度操作すれば、すぐに別の世界へトリップすることができる。

 心地よい振動のなかで、鉄朗は猛烈な眠気に襲われていた。長らくスポーツに打ち込んできたのだ、一週間続く合宿にだって耐えうる体力を持っている。疲労は精神的なものだった。
 教室が受験ムード一色に染まり、鉄朗は将来について真面目に考えるようになった。つらくも楽しい大学生活。それを経ての就職。初めてのひとり暮らし。まだまだ漠然としたものだし、テレビドラマで見た光景に影響されてややきらめき過ぎていたりもするのだが、一つだけはっきりと像を結んでいるものがあった。今も隣にいる研磨である。スーツを着た鉄朗のかたわらに、今と同じように研磨がいる。
 中学から高校へ上がるのとは違い、大学へいけば今までと同じ関わり方はなくなるだろう。鉄朗には、なぜそこで幼馴染が出てくるのかよく分からなかった。いや、薄らと分かってはいるのだが、確信を持てないでいた。はじめは一緒に過ごした時間が長すぎて、ごく親しい人へ感じる愛情を別のものと勘違いしているのだと思っていた。当たり前になっていたふたりでの時間がなくなることがたださみしいのだと思っていた。しかし考えれば考えるほど勘違いではなくなっていく。研磨のいない日常というのは、まだ想像することしかできない大学生活よりも、社会人生活よりもぴんとこなかった。
 もし、十に一つ、いや万が一、これが鉄朗の勘違いではなかったとして、ならば研磨の方はどうなのか?と大きな瞳を覗き込んでみても、いつもの嫌そうな顔でふっと逸らされるだけで、なにを考えているのかはちっともわからない。
 研磨は自分をただの幼馴染としか思っていない。自分だってそうだ。そう言い聞かせるたび、胸の奥はちりちりと痛んだ。そんな決定的な証拠があっても、鉄朗はまだ自分の気持ちがよく分からないとひとりでもやもやしている。顔がいいとか足が速いとか優しいとか、そういった至極真っ当で分かりやすい理由があればさほど悩まずに済んだのかもしれない。他人の気持ちに敏感な人間は、往々にして自分の気持ちには鈍いものである。
 そんなことから、近頃は研磨を少々重荷に感じるようになっていた。勿論、鉄朗が勝手に気まずくなっているだけなのだが。研磨がゲームをしていようがお構いなしに言葉が出てくる口も、今はおとなしく閉じられている。目の前をぼんやり眺めながら、幼馴染が自分の隣からいなくなってしまったときのことを考えてみた。が、やはり想像なんてできなかった。いまだって、研磨の存在そのものになぜだか安心している。
 自分はいったい研磨をどうしたいのだろう。どうなりたいのだろう。よくわからない。もやもやする。眠ってしまえば、その間だけは研磨のことを考えずに済む。電車が隣の駅を発車した辺りで、手招く睡魔に意識を委ねることにした。ふたりの最寄駅につけば、きっと研磨が不機嫌な声で起こしてくれるはずだ。

 幼馴染の大男がぐらぐら揺れている。研磨は困ってしまった。前後に揺れるだけならまだいいが、左右にも揺れているのである。鉄朗の右隣は研磨。左隣には小柄な女性だ。なにか特殊な訓練を受けているならばともかく、一般女性に190近い巨体が倒れ込んでくるのはなかなか恐ろしいことだろう。恐ろしいというか、危険である。
 きりの良いところまでゲームを進め、手になじむボディを膝の上に置いた。視界の端でひらひら揺れるシャツの袖をつまんでぐいっと引っ張ると、190の巨体が170の研磨めがけて大きく揺れ、頭と頭がぶつかり、ごつんと鈍い音が鳴った。
「痛っ…!」
 この石頭め、と研磨は心の中で舌打ちをした。鉄朗は衝撃ではっと目を覚ましたが、頭突きの被害者が研磨であることを確認すると「悪い」とだけ言って何事もなかったかのように再び睡魔と戯れ始めた。今度は研磨の肩に寄りかかりながら。
 一部始終を見ていたのであろう、くすくす笑うおばさんと目が合い、研磨は恥ずかしくなった。目を伏せて、再び液晶に視線を落とす。鉄朗はもう眠りに落ちて静かに寝息を立てている。呼吸に合わせて身体が上下するのが伝わる。鉄朗が電車で居眠りするのは部活の試合帰りでもそうそうない。なにか疲れることがあったのだなと研磨は思った。
 確かに鉄朗は、ここ最近はなにかと忙しそうだった。まず受験生である。夏休みも終わり、受験ムードの三年生たちが心なしかぴりぴりしているのを感じる。彼にはそれに加えて部活もある。また月末に行われる文化祭でも、気前の良い性格ゆえに仕事をたくさん抱えているらしい。
 研磨は、春からのことを考えた。
 まだ、次の部長、副部長を誰がやるかは決まっていない。しかしなんとなく予想はついていた。もし自分が長のつかない立場になったとしても、人数が少ない分、部長たちに全て任せっきりにする訳にはいかないだろう。
 自分には、今の三年生のように皆を引っ張ったり、励ましたり、スムーズに仕事をこなせる自信がない。まだ決まってもいないことでうだうだ悩むのは無意味だと分かってはいるのだけれど。
 それにしても、この男は重い。遠慮なく寄りかかられているのを、三分の一くらい押し戻そうと思った。首をひねって直接顔を見ると、ひとの気も知らずに随分幸せそうな顔をしている。研磨の部屋にやって来て眠っていることはあるが、いつもうつ伏せであるから寝顔は数えるほどしか見たことがない。閉じられた目の下にはうすく隈ができていた。指先でなぞりたい衝動にかられて、打ち消した。ここは、自分の部屋ではない。電車の中だ。
 そう考えたら恋人のようにくっつかれていることだって死ぬほど恥ずかしいのだけど、研磨はもうしばらくの間、鉄朗のまくらでいることにした。少々重いのが難点ではあるものの、ぬくぬくと温かく、空調でひんやりした車内ではどうしてなかなか悪くないかもしれない。などと考えていると、人間湯たんぽのせいだろうか、研磨の元にも睡魔がやってきた。あくびを噛み殺したが、カラフルな液晶画面は少々滲んでいた。自分まで眠ってしまってはいけない。と、まぶたを二、三度ぎゅっと瞬かせた。

「二人ともお昼寝したら?」
 と研磨の母親が言ったのは、研磨が小学校に上がってすぐの、まだ鉄朗とはそこまで打ち解けていないころのことだった。
 学校のない休日だった。午前中は鉄朗に連れられて外で遊び、昼食は揃って研磨の家で食べた。コップに注がれたジュースを飲み、午後からは何して遊ぶ?とはしゃぐ鉄朗は、ペース配分を間違えたのか若干眠たそうでもあった。研磨の母親はそれを察したのだろう。
 そのころの研磨は、元気いっぱいで兄貴肌の鉄朗が苦手だった。自分のように暗い子供ではなく、もっと明るい友達と仲良くしたら良いのに。と密かに思っていた。しかし邪険にする勇気もなかったから、誘われるままにつるんでいた。
 母親に持たされたタオルケット片手にリビングから畳の部屋に移動し、適当に座布団を敷いて横になる。元気に遊びまわり、胃袋も満たされた鉄朗はすぐに眠ってしまったようで、ケットのなかで何度か身じろぎするとぴたりと動かなくなった。
 その一方で、昔の研磨は神経質で、どんなに眠たくても同じ空間に家族以外の人間がいると寝付けなかった。保育園の昼寝の時間、皆と同じように眠れたことは殆どなく、だけど起きているのが見つかると先生に叱られるのはわかっていたため、頭のてっぺんまですっぽり布団のなかに入り、暗闇のなかでひたすら息を殺してやり過ごしていた。ただ退屈なだけの時間だった。
 自分の家にいるのに眠れない。それは研磨にとってさして不思議なことではなかった。あわい緑のタオルケットの中であくびをする。隣にいるのが父や母ならば問題なく眠れるのにと一人ごちる。
 ころりと寝返りを打つとタオルケットがずれて、すき間から鉄朗の顔が見えた。身体はうつ伏せで、幸せそうな顔だけをこちらに向けている。彼がいなければ、と思っていた手前、ばつが悪かった。それと同時に、元気に遊び、疲れたらたっぷり眠るという、“普通”のことができる鉄朗を羨ましくも思った。保育園でも小学校でも、教室の隅で俯いて本を読むのが日常だった研磨は、大人達から幾度となく「研磨くんもみんなと一緒に遊ぼう?」と言われてきた。それが上手くできないから隅っこにいるのに、どうしてそんな風に言うんだろうと思っていた。そしてなにより、研磨は“みんな”と仲良くできない自分が嫌いだった。
 彼にはきっと困ることなんてないんだろうな。と考えながらなんとなく寝顔を眺めていると、閉じられていたうすい瞼がぱっと開いた。慌てて目を逸らそうとしても、もう遅い。うろたえる研磨を見て、鉄朗がにっと笑った。
「寝たふり。びっくりした?」
「…う、うん」
「研磨ねむれねーの?」
「…うん」
 屈託なく向けられた質問に、研磨の胸は切なく締め付けられた。「目を閉じていれば眠れるよ」とか、「羊を数えるといいよ」とか、何百回も聞いたアドバイスを言われるのだと思ったからだ。しかし鉄朗だけは違っていた。
「俺も」と言って、困ったように笑ったのだった。
 自分の嫌いな自分を、許されたような気がした。少なくとも、鉄朗は自分が眠れないことを咎めないのだと知った。嬉しかった。何気ない一言で、鉄朗に対して抱いていた苦手意識は氷がとけるみたいに消えてなくなってしまった。
 母親に聞こえないように声をひそめて話をして、気が付けば二人とも、夕方に研磨の母親が起こしに来るまでぐっすり眠っていた。すっと目を覚ました研磨の隣では鉄朗がまだ眠いとぐずぐずしていて、彼にもこんな子供みたいなところがあるんだと意外に感じたのを研磨は今でも覚えている。
 今考えれば、鉄朗が眠れなかったのはこの時だけで、研磨が勝手に勘違いをしていただけなのだろう。それでも、あの一言で張り詰めていたものが緩んだのは変わらない事実だった。
 そんな鉄朗のことが好きなのだと気付いたのはごく最近になってからである。しかし、きっとこの頃から鉄朗は研磨にとって特別な存在だった。


 目の前に広がるのは、星の瞬く広い空、大きな山、人っ子ひとりいないプラットホーム。草のにおいが混じった風は身体にすこぶる良さそうだ。何もかもが、見慣れた景色からは程遠い。
「――ここどこ?」
「えっと…」眠たげに目を擦る鉄朗に尋ねられ、車内の表示で見た駅名を研磨が呟く。寝起きでおかしなテンションの鉄朗は「知らねえ」と言いながらぶひゃひゃと笑った。
 不覚にも、研磨も鉄朗と同じく居眠りをしてしまっていたのだった。なつかしい夢にあたたかい気持ちになり、そして目を覚ましたのは、全く聞き覚えのない、今二人が呆然と立っている隣県の駅に列車が停まったほんの数十秒前のことだ。研磨は慌てて鉄朗を叩き起こし、随分乗客の減ってしまった列車を飛び降りた。
「ごめん。なんで寝ちゃったんだろう、おれ」
「いや、俺が寝てたのが悪いし。研磨が起こしてくれなかったら終点まで行ってたかもしれない」
 気にすんなと言って、鉄朗は研磨の頭をぽんぽん撫でた。ついさっきまでは鉄朗の方が子供みたいだったのに、もういつもの感じに戻っている。研磨は唇を尖らせた。
「…で、今何時?」
「八時過ぎ」鉄朗に尋ねられ、スマートフォンに視線を落として言う。本来ならば十五分程度で下車するところを、一時間以上揺られていたことになる。
「んー、じゃあ九時過ぎには帰れるんだろ?大丈夫だって。とりあえずあっちのホームに行くぞ」
 この駅は、二本並んだ線路をそれぞれの外側からプラットホームが挟む、相対式ホームの駅だ。向かいにある上りホームへ行くには、ホームの端にある跨線橋を上り下りしなければない。
「うん」
 すると、噂をすればなんとやら。件の上りホームに列車が入ってきた。
「あ」
「…あれ?」
「あれだね…」
 ふたりはホームの中ほどにいる。研磨は移動距離と、自分たちの走る速さを照らし合わせてみた。どう足掻いても間に合いそうにはなかった。
 誰も降ろさず、誰も乗せずに、まばらな乗客を乗せたまま列車は走り去っていく。年季のついた薄暗い駅に、数分間隔で次の電車がやってくるとは到底思えない。二人は顔を見合わせて、同時に肩を落とした。

 さびついた跨線橋を行く足取りは重かった。
 上りホームに掲示された時刻表を見てみると、次の電車がくるまであと三十分。突っ立っていればほいほい電車がやってくるのが当たり前な彼らにとっては、なかなかの待ち時間だ。
「三十分なんてすぐだろ?」
「うん、そうだね」
 たまにはこういうのも悪くない。…かもしれない。と研磨は自分に言い聞かせ、いつになくポジティブな返事をし、どちらともなくホームに置かれた木製ベンチへ向かった。ギイと音を立てて腰掛けるなり、鉄朗は鞄から取り出した参考書を読み始める。研磨も懲りずにゲーム機を取り出したが、三十分の空き時間を潰すにはバッテリーの残量が心もとない。スマートフォンの方も普段通りのペースで使っていれば家に着く前に電池切れしてしまうだろう。まだ頭は寝起きのぼんやりとした感じを残しており、鉄朗のように勉強をする気にもなれなかった。仕方なくゲームもスマートフォンもしまって、駅の向こうの山々をぼんやり眺める。視力がよくなりそうだ、と研磨は思う。
 駅前には何軒かの民家と、既に店仕舞いをした商店、それらを照らす街灯がぽつぽつ並んでいる。民家の窓からは明かりが漏れているものの、外に人影はない。鈴虫と鳥の鳴き声ばかりが賑やかで、田舎と言われて真っ先にイメージするような風景だ。遠征で訪れた宮城、烏野を思い出した。
 ふくろうかなにかの不思議な鳴き声を頭の中で反芻していると、鉄朗がぱた、と参考書を閉じた。
「なんだお前、ゲームしないの?」
「電池ない」
「へえ」
 東京生まれ東京育ちの二人は、常になんらかの雑音に囲まれて生活している。そしてどこにいても誰かの目がある(ような気がする)。しかし今は、風で草木が揺れる音と、生き物の鳴き声しかない。そしてチームの皆と宮城に行った時とは違って、今この場所には鉄朗と自分しかいない。
 研磨はそこに思い至ると、先程の鉄朗の寝顔や、肩から伝わってくる温かさや、それを受けて密かに緊張していたことなどが一気に頭を駆け巡り、普段通りにできなくなった。俗に言う、意識している状態になったのだ。
 なんとも言えない、妙な沈黙が流れる。無理にお喋りをしなければ間が持たない関係ではない。鉄朗だって特に話題がなければ、家へ来ても殆ど喋らずに帰る時だってあるのだ。
 なのに研磨は、この沈黙をどうにかしなければ、と珍しく焦っていた。
「…クロ、勉強しなくていいの?」
「母ちゃんかよ、勘弁してくれ」
 焦れば焦るほど、言葉が出てこなくなる。「へー」という簡単な相槌を打つことすらできず、再び変な気まずさが流れる。こういうとき、周りがざわざわしていれば少しは気も紛れるのに。どうしようか、と両の指先を付けたり離したりして紛れていることにする。隣からも気まずさが伝わってくる。
 こんどは、鉄朗が口を開いた。
「…あー、待たせてごめんな」
「なにが?」
「帰り。あんな風に言ったけど、待っててくれたんだろ?俺一人だったら多分寝なかったし、それなら研磨も普通に帰れてた。悪いな」
 部室で「大方ゲームしてたらこんな時間だったんだろ」と言った鉄朗を思い出した。研磨は、鉄朗が本当は分かっていてくれたことを嬉しく思った。
「…分かんない」しかし、口から出たのは可愛気のない答え。
「分かんないかー」鉄朗は少しだけ寂しそうに笑った。
 嘘だ。研磨にはわかっている。片道一時間もかからない通学路を、帰宅を遅らせてでも一緒に歩きたい理由も、自分に寄りかかる寝顔を微笑ましく感じていた理由も、今こうしてよく知らない土地に二人でいることをどこか嬉しく感じている理由も、全部全部わかっている。
「じゃあ俺は都合よく解釈しておくわ。ありがとな」
 俯く研磨の頭を、鉄朗が優しく撫でた。普段通りの余裕がこそばゆくて、だけど悔しくもあった。離れていこうとする腕をぎゅっと掴んだのは、なかば無意識的な行動だった。
「…嘘、ついた。ごめん。本当は、待ってた」
「ああ…えっ?」
 自分でも驚くくらい、言葉がすらすら出た。鉄朗が何事かとぎょっとするくらい、研磨は強腰になっていた。
「クロと帰りたかったから。一緒に」
「へ、へえー」
 目を合わせるのが苦手な研磨を面白がって鬱陶しいくらい顔を覗き込んでくるくせに、いざ研磨がじっと見つめればおろおろする。もどかしい。言いたいことはお互い大体分かっているはずなのに、どちらが言いだすのかをじりじり探りあっている。
 研磨は、自分たちの関係が変わっていくことを確信していた。そして行動を起こすのは鉄朗なのだと思っていた。いつも余裕があるように振る舞っているのは鉄朗の方だからだ。しかし、今の動揺具合を見て研磨は決心した。鉄朗は研磨の思う以上に鈍いようで、この様子では果たしてあと何年かかるか分からない。大人しく口を開けている間に鉄朗の何かが変わることだって、逆に研磨の方が待てなくなってしまうことだって、絶対にないとは言い切れない。この膠着状態を破るのは鉄朗ではなく、自分の役目だったのだ。小さな黒目が揺れるのを見ながら、研磨はごくりと唾をのんだ。
「あのさ、」
 意を決して口を開いたところで、ぴんと張り詰めた空気がガラガラと音を立てて崩れた。
『間もなく、2番ホームに、各駅停車……行きが――』あまりにも丁度良すぎるタイミングで自動音声が流れる。漫画であればオーバーな動きで転ぶところだが、これは小説であるし、研磨は至って冷静だった。掴んでいた鉄朗の手をそっと離し、何事もなかったかのように「電車くるね」と立ち上がる。すると鉄朗が背後で「電車くるな」と呆けた声で言った。ボケボケな台詞に「なにそれ」と笑い、鉄朗も「なんだろう」と笑う。そうしてすぐに、いつもののほほんとした空気が戻ってきた。

 やっと来た上り電車には、先ほど乗りそびれた列車と同様に殆ど乗客がおらず、二人の乗った一両に至っては貸切状態だった。
「今度は寝れねえなあ」と言いながらも、鉄朗はさっそくあくびをしている。
「べつに、疲れてるなら寝てていいよ。おれもう眠くないし」
「だから俺は疲れてないって」
「ふーん」
 鉄朗は参考書を捲り、研磨は向いの窓にうつる鉄朗を眺める。窓の外を流れる景色は相変わらず暗い。駅と駅の間がやけに離れていて、不便ではないのかと純粋に疑問に思った。
 ふたつかみっつ、駅を過ぎたころに
「なあ」
 と、鉄朗の指が研磨の手の甲をトントン叩いた。
「ん?」
「…何言おうとした、さっき」
 首を傾げ、直接鉄朗を見る。参考書に目を落としたままだが、頬はうっすら桃色に染まっていた。研磨はこれが鉄朗の限界なのだと察したが、バレーをするときはあんなに堂々としているのだからもう少し頑張ってほしいとも思った。
「べつに。なんでもない」
「あ、そう」
 ぶっきらぼうに返すと、鉄朗はあっさり引き下がる。しかし、少しの間をおいて、また手の甲が叩かれた。普段ならば「しつこい」と一蹴するところだが、ここにはもう普段の研磨はいない。
「そんなに知りたい?」
「…知りたい」
 鉄朗が参考書から顔を上げ、研磨を見る。目が合うと、息を詰め、一気に耳まで赤くして、うすい唇を引き結んだ。鉄朗の緊張が伝染して、研磨の丸い背筋がぐっと伸びる。とくとくと、鼓動が早くなる。
「さっきおれが言いたかったのは、おれは、クロのこと――」
 あとに続く一番大切な言葉は、また言えなかった。
 ダン!という衝撃と共に、二人の肩と窓ガラスが跳ねる。下り列車とのすれ違いだ。ガタゴトと喧しく鳴る線路の音は、初々しい少年たちの一大決心を嗤うようでも、また激励するようでもあった。がっくり項垂れる研磨の隣で、鉄朗はくつくつ笑っている。顔は赤いくせに表情は余裕ぶっていて、研磨は少しだけいらっとした。
「もういいよ。ちょっと耳、貸して」
「ん」
 ちょいちょいと手招きをすれば、鉄朗は何の疑いもなく頭を近づけてくる。耳元で鉄朗にだけ聞こえるように言えば、邪魔は入らないと思ったのだ。しかし、僅かににやける横顔を見て心変わりした。
「えっと、」
 耳打ちすると見せかけて、肉のない頬っぺたに唇をくっ付ける。毎日運動しているだけあって肌はつるつるだ。だけど、こんなもんか、というのが研磨の率直な感想だった。本当である。
 すべらかな頬からかさかさした唇を離すと、何が起こったのかを察した鉄朗は鋭い目をまん丸にかっ開いて研磨を見た。
「な、け、研磨、な、な、」
 口をぱくぱくさせてかなり動揺しているが、平気だ。失敗した訳ではない。鉄朗だって研磨のことが好きなのだから。
「わかった?」
 おれだってやるときはやるのだ。研磨がふんと鼻をならすと、鉄朗は熟れたりんごのような顔を参考書に埋めて、何度も何度も頷いた。

 窓の外を眺めて素知らぬ顔で座り続ける研磨も、本当のところを言うと気を抜いたら隣で唸り続ける鉄朗のようになってしまうだろうし、唇には何分か経った今でもまだ燃えるような熱さが残っていた。ただ座っているだけなのに鼓動は全力でダッシュをしたときのように激しく、突然倒れてしまってもなんらおかしくない。
 研磨には今後も鉄朗と好き合っている限り、こういう瞬間が訪れるだろう。心臓がどきどきするたびに寿命が縮まるという話が本当ならば、研磨の寿命を一番縮めているのは鉄朗に違いない。脳で背骨で心臓、なんて言うのならば、もうちょっとどきどきさせないようにしてほしいと研磨は思う。だけどきっと研磨も研磨で鉄朗の寿命を縮めているから、おあいこなのだ。
 少しずつきらめきを増していく夜景を眺めながら、研磨はひとり考えていた。

 途中の少し大きな駅で、急行との待ち合わせをするとのアナウンスが入った。ぱらぱら降りていく乗客に続いて急行に乗り換えれば、今乗っている各駅停車にこのまま行くよりは早く家に辿り着くことができる。
「クロ、待ち合わせだって」かれこれ十五分は参考書の同じページをじっと睨み付けている鉄朗に、研磨は言った。
「急行だとどんくらい違うの?」
「…たぶん十分くらい」と答えたが、調べるのが面倒なので適当である。鉄朗はへーと気のない返事をした。
 鉄朗も自分も、帰ってからもやることが沢山ある。朝練だって休むわけにはいかないし、早くあたたかな布団に入りたい。研磨が迷わず立ち上がると、リュックがくいくいとひっぱられた。振り返れば、俯いて唇を尖らせた鉄朗が「十分ぽっちなら」とかなんとか、口の中でもごもご言っている。
 もうすこしの間、貸し切りの列車に揺られていようという腹だ。研磨は小さく肩を竦めると、何も言わず、ふたたび鉄朗の隣に腰掛けた。硬い椅子が軋む音も、冷たい風を吐き出す空調の音も、やけに大きく聞こえる。
 指先で手の甲を叩かれて、目が合う。女子のようないじらしい仕草をわらっている余裕はない。
 今度は頬ではなく、うすい唇に口付けたら、鉄朗も自分も一体どうなってしまうのだろう。先ほどの感触を想いながら、密かに計略をめぐらせる。鉄朗と同じく自分の耳が赤く染まっていることを、研磨は知らない。


2015/09/16
2015/09/22


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タイトルに反して急行に乗っていない


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