小説 | ナノ
不実の君、浮気な僕


 そこは海だった。
 穏やかに波をたて、きらきらと輝く海だった。

 海と空と同じように際限なくひろがる砂浜の果てはわからない。
 サンダル越しに砂の熱さを感じながら、透きとおる青をぼんやり眺めて、鉄朗はただただ立っていた。少し視線をずらせば、おとな2、3人分ほどの距離をおいて、波打ち際に研磨がしゃがんでいる。泡を立てる波を見つめる横顔に表情はなく、感情を読み取ることはできない。
「研磨」
 遠慮を含む声で呼びかければ、鉄朗を見、かるく首を傾げてみせる。つかみどころのない、いつもとかわらぬ様子にほっとする。
「きれいだね」
 かわいた潮風で、彼の長めの金髪が舞う。一本一本が夏の太陽を浴びて、海と同じく、きらきらと眩しい。
「おう。すげえ綺麗だ」

 海岸には、ふたりの他にはだれもいなかった。人間だけではない。水中を自由に泳ぐ魚も、浜を闊歩する蟹やらも、海鳥の一羽も見当たらず、生き物の息づかいがみじんも感じられない。音を立てるのは、ひろい海と、時折それをなでるやさしい風だけだった。静かな場所でじっとしているのも悪くはない。だけど。
「なあ、散歩しねえ?」
「いいよ」
 砂の海を、ならんであるく。
 重い荷物も、野暮な電子機器も、ここには存在しない。やわらかい地面を踏み踏み、すこし大きさのちがう二つの足あとを、ゆっくり刻んでいく。

「覚えてる?」
 ふいに、研磨が口を開いた。唐突なはじまりも、鉄朗には慣れたものだった。なにも言わずに待っていれば、ぽつりぽつりと、言葉を並べていく。
「小学生のころ、急に海に行こうって、クロが」
「んー…ああ、そんなこともあったかもな」
「母さんたちには内緒で、公園に行くって嘘ついて…電車乗り継いで、行ったよね」
 長い砂浜のずっと向こうに、何年も前にみた海を見つけたのか、研磨は懐かしそうに目を細める。
「…やっと着いたら、海はもうくらげがいっぱいで、とても泳げなくて。おれたち以外に人なんていなかった」
「ああ、そうだ、思い出した。結局、どっかでかき氷かなんか食って帰ったんだっけ」
「うん」
「懐かしいな」
「今日は、くらげいないね」
 久しぶりに見る、心底嬉しそうな顔だった。鉄朗は返事をする代わりに、そっと研磨の手を取った。
 まだなにも知らなかったあの日も、鉄朗は研磨の手を引いて、人のいない砂浜を歩いた。じりじり照りつける太陽よりも、潮のかおりよりも、おいでと手招きする海よりも、自分よりちいさく、やわらかな手のひらに、ひたすらこころを躍らせていた。
 鉄朗は、昔から面倒見のいい性格をしており、よく年下の子どもの手を引いてあるいた。危ない目に合わせてはいけない、年上の自分がしっかり見ていなければ。という義務感からくる行動だったが、研磨に対してだけは違っていた。そして、今でも。
 研磨には悪いが、あのとき目指す先は別に、海でなくても良かった。山でも川でも、鉄朗はとにかく研磨とふたりきりで、どこか遠くへ行きたかったのだ。
 もう、鉄朗に手をひかれなければ動けない研磨はいない。女の子との違いがあいまいなやわらかさはない。それでも、自分と同じ硬い手のひらを、骨ばった指を、ただただ恋しいと感じている。すこしかさつく皮膚の感触も、つたわる低めの体温も、全て独り占めにできたらどんなに幸せだろう、と思っている。しかしそれは、今の鉄朗にはなかなか難しいことだった。こころはとっくの昔に決まっているが、押し切る直前でいつも、だれかが決めた常識と、いつの間にか身についてしまった、変に冷静な部分が邪魔をする。ぶれない強さがほしい。
 ここには、鉄朗と研磨しかいない。ならばせめて、今だけは。と、指と指とをからませ、決して離れないようにした。
 研磨は黙って、足元に目をやったまま歩いている。うすい瞼をかざるまつ毛が、目元にやわらかな影を落としていた。それがやけに大人びて見えて、自分の子どもじみた行いが照れくさくなる。
「あの、危ないから…」
「うん?」
「いや、手」
 家族や友人、部活で接する他校の生徒。あらゆる人から達者だと言われる鉄朗の口から出たのは、自分でも笑いそうになるくらいの、つたない言い訳だった。なにを今更、白々しい。言わなければよかった。ひとり苦虫を噛む鉄朗を見上げ、研磨は「ありがと」と指にちからを込めることで応える。きゅっと、胸が痛んだ。それは途方もなく、しあわせな痛みだった。水に垂らしたインクのようにやさしく滲んで、全身に広がっていく。
「入るか、海」
「うん」
 サンダルを履いたまま、透きとおる青へ足を踏み入れる。「荷物が増えるから」というのは嘘で、一瞬でも手が離れるのがいやだった。研磨も、なにも言わずに鉄朗にならう。ちょうど良い温度の海水と、ぶわっと舞う砂の感触に、ふたりとも自然に笑みがこぼれる。
「きもちー!うりゃ」
 鉄朗が長い脚を振り上げれば、大きなしぶきが上がる。目の前の研磨がかがやく粒で飾られ、目がくらむ。
「びっくりさせないでよ」
 あきれた顔に気を良くし、そのまま海面を蹴って、海水をぱしゃぱしゃと辺りへちらす。研磨は「ねえ、つめたいってば」と鉄朗から距離を取ろうとするのに、つないだ手は離れることがなかった。

「何年越しか分かんねえけど、リベンジ完了だな」
「うん」
 満足するまでふざけあって、そのまま、ここちよい音を立て、砂浜と平行に浅瀬をすすむ。くすぐったさでゆるむ頬を見られないように、鉄朗は不自然にそっぽを向いていた。
あー、とかうー、とか意味のない声をもらし、繋いだ方の手を、こどものようにぶんぶん大きく振る。そうして、浮かれた気持ちをどうにか発散させようとした。そうしないと、胸に詰まったものがあふれそうだった。ひょっとしたらもう、あふれているのかもしれない。指先を通して、研磨へ伝わっているのかもしれない。そうであってほしいとも、そうだったらすこし恥ずかしいとも、鉄朗は思っている。

 しばらくあるいていると、突然、視界が薄暗くなった。
 ぽたり。肩に、いやな感触。空を見上げれば、どんよりと暗い雲が、ふたりに覆い被さらんとしているところだった。
 ぽたり。こんどは鼻の頭に、もう一粒。
「夕立だ」
 鉄朗が言うや否や、雨粒が、海面を、乾いた砂を、ふたりをぱらぱらと叩き始める。
「やばいな」
「クロ、あっち、屋根」
 研磨が指差す方に目をやると、おあつらえ向きに、砂浜の上に細いトンネルをつくる、大きな岩があった。全速力で走れば、きっと何秒もかからない。他に、雨をしのげそうな場所はない。
「走るぞ!」
「うん」
 浅瀬を抜け出し、やわい砂を蹴り上げ、ひたすら走る。雨粒は徐々に大きくなり、ぱたぱたと肩を叩かれる間隔は短くなっていく。

 鉄朗が岩肌に手をついたところで、雨はバケツをひっくり返したように、ひときわ強くなった。ごうごうと鳴る風が、雨粒に波のような曲線を描かせている。
「ひー、間一髪。危なかったな」
 繋いだ手をようやく離し、黒いTシャツをつまんで風をおくる。そこまで暑くはないが、三人入ればぎゅうぎゅうになってしまうくらいの空間では、なんとも言えない気まずさがあった。
「うん。でも、ちょっと濡れた」
 研磨のシャツは、ぽつぽつとまだらに濡れていた。生地が白いために、肌がうっすら透けて見えて、鉄朗は目をそらす。気まずさをごまかすため、口を尖らせる研磨をなだめるため、空を指差して言う。
「ほら、あっちの方、雨雲がなくなってるだろ? すぐ止む。そうしたら乾く」
 濡れたサンダルを脱ぎ、適当なところに立てかける。砂の上にならんで座り、つめたい岩にもたれて灰色の雲をやりすごした。鉄朗の言った通り、雨はものの十分程度で上がり、ふたたび真っ青な空が現れた。
「止んだね」
「言ったろ?…もう行く?」
「ううん。もうちょっと休憩」
 今度は研磨のほうから腕を、指を絡ませてきた。かさついていた肌は、雨に濡れて、いくらかしっとりしていた。
「今日、くらげ、いなくてよかったね」
「そうだな」
 会話が途切れ、空気がずしりと重くなる。この重みがおとずれる状況を、鉄朗は知っている。体育館の裏、屋上、だれもいない教室。静まりきった空間で執り行われる、ふたりきりの儀式。
 波音が、やけに遠く感じられた。

「クロ、おれが今なに考えてるかわかる?」
「いきなり何だよ。わっかんねえ。足についた砂がうざい!とか?」
 いつもと同じ、唐突なはじまり。しかし、いつものように返すことはできなかった。鉄朗は空いた方の手で、縋るように砂を握った。
「おれは、クロの考えてること、わかるよ」
 じっとり手汗がにじんでいる。指をひらけばきっと、砂まみれだろう。と頭の片隅で、もうひとりの自分が呑気に考えていた。
「…なんだよ」
「おれとおんなじこと」
「同じって、」
 鉄朗の後頭部に、研磨の空いた腕が伸びる。そのままぐいと引き寄せられ、額と額がぴったり触れた。
「研磨、何、やってんの。こんなくっついたら服乾かねえぞ」
「ちがうの?」
 大きな研磨の目は、彼の言うとおり全てを見透かしているようで、まっすぐ見つめ返すことができない。目を伏せれば、絡みあった腕が、砂のなかへ沈んでいた。からだを離そうとしても、研磨はみじんも動じない。ゆっくり問いかける大きな目には、迷いなどなかった。
「違わない、けど」

 海岸には、ふたりの他には、だれもいない。研磨をやわらかい地面へゆっくり寝かせる。金色の髪が散らばり、甘濡れた素肌に、荒い砂粒が模様を描いた。鉄朗はそれを取り去るように、首筋をやさしく撫でる。剥がれた砂が、元いた所へ還っていく。
「くすぐったい」
「だってお前、砂まみれ…」
 視線がかちあう。
 ふうと息を吐き、ふるえる指先を、もう少し鍛えろと言いたくなる肩へ滑らせた。浮き出た鎖骨を、外側からなぞっていく。研磨は時折からだをよじるばかりで、何も言わない。
くっきり浮かぶ鎖骨の下は、やけにやわらかかった。
 ――なんだろう。鉄朗は不思議に思って、視線を手元へずらす。そして反射的に出そうになった叫びを、すんでのところで堪えた。見まちがいだろうときつめにまばたきをしても、状況は変わらない。目の前にあるのは紛れもなく、ゆったりとしたまるみを描く、女の肢体だった。
「けんま…これ、」
 ふたたび顔に目をやれば、研磨はもう、鉄朗がながらく焦がれている研磨ではなかった。大きな目も、つんとした鼻も、確かに研磨のものなのだが、どこか全体にやわらかい。
「研磨、だよな?」
「うん」ゆっくり首を振り、愛らしい声で、研磨がこたえる。それは鉄朗とはちがう、女の顔をした研磨だった。
 顔にかかる髪をどけてやり、頬をなでた。ふっくらとしたやわらかさに、胸が苦しくなる。そこで鉄朗は初めて、自分がこの不可思議な状況に安堵していることに気付いた。



 鉄朗が「そろそろ行くか」と言うころ、すでに陽は沈みきっていた。濃藍に染まった空と海との境界は、もうわからない。研磨は黙って頷き、気怠げに腰を上げる。白いシャツはすっかり、乾いていた。
 海岸線をゆっくりあるく。点々とならぶ二つの足跡の、続きを描いていく。
 足元を照らすのは、ぼんやりした月明かりしかない。それでも、鉄朗も研磨も、決して手を繋ごうとはしなかった。重い荷物も、野暮な電子機器もここにはない。しかし、蔦のようにからむ、一番のしがらみをとり去ることは、鉄朗にはできなかった。
 ちいさな感傷には目もくれず、海は日々の営みを変わらず繰り返す。時折訪れる大きな波が、つけたばかりの足跡をかき消していく。
 ひろい砂浜の果ては、今のふたりにはまだ、わからない。



2015/08/18
2015/08/30


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