小説 | ナノ
寂滅為楽は匣中に在り


僕が君を見初めたのは、私鉄電車の車両の中でした。
通勤ラッシュの時間帯なので車内はそこそこ混み合いますが、僕は毎日座席に座ったまま目的の駅まで辿り着くことができていました。これは、都心から離れていて不便だとか田舎だとか言われる土地に住む唯一の利点だと思います。
途中のある駅では、他の駅よりも一際多くの人が乗り込んできて、向かい合う長椅子の間の空間は直ぐにいっぱいになります。目の前に人が立ったことに気付いてふと文庫本から顔を上げると、おろしたてと思しき紺色のスラックスが目に入りました。ああ、もうそんな季節か、としみじみした気持ちになりました。僕にはもう、新たな春を迎えたところで何かが変わるなんてことがないからです。ルーティンワークをこなすように毎日をただ淡々と過ごしているのです。毎日変わらない食事、毎日変わらない仕事、毎日変わらない満員電車。上等な暮らしは望めないけれど、衣食住に困ることもない。ただただ平凡。これといった目標もなく、何故生きるのだろうと考えることもありましたが、そんな風に考えられることこそが幸福なのだと思っていました。そんな考えを自身で疑い、覆すことになったのは、僕の目の前に立ったのが君だったからです。
僕は座り直すふりをして、君の顔をちらと盗み見ました。君はおろしたての制服に些か窮屈そうに身を包み、スマートフォンの画面をタップしていました。まだ春も始まったばかりだというのに、とても気だるげな表情をしています。これから新しく、希望に溢れた生活が始まるというのに…。その時の僕は、今の政治経済、雇用や社会福祉などの状況を思い浮かべて、このような具合では夢や希望を抱くのも容易なことではないだろう。僕のような普通の生活を送るのも一苦労だというのだから。と甚だ筋違いなことを考えていました。まだ君のことを何ひとつ知らなかったのです。だからこのことは、忘れて下さい。
君は黒い髪を、顎の下で切り揃えていました。否、切り揃えるというのは少々違いますね。おかっぱではないのですから。しかしあれは、一体なんと表現したら良いのでしょう。美容室で注文するときに、何と言ったら君のような髪型になるのでしょうか。僕は生まれてこの方美容室に行ったことがありません。ずっと床屋です。そういうことには疎いのです。ああ、話が反れてしまいました。
君の黒髪は、窓から入る陽と、それから車内を照らす蛍光灯の光を受けて黒をより黒くし、はちの辺りに天使の輪と呼ばれるものをふわりと浮かべていました。僕はそれまで、人の髪というものに感慨を受けたことがありませんでした。くるくるとカールする女性の髪も、手間のかかっていることや、それが綺麗であることは確かに理解できるのですが、実際に「綺麗だ」と感じはしませんでした。だけど君の黒髪だけは違っていました。なにが違うのかと問われたら、うまく答えられる自信がありません。理屈ではありません。心なのです。ただただ僕は、君の髪を美しいと感じたのです。
耳にかけていた髪が一筋、顔の前に落ちました。そんな些細なことでも僕の心は揺れ動きます。その時の僕はきっと、ひどく呆けた顔で君のことを見ていたでしょう。落ちた髪を直す君と目が合うまで、君をじっと見つめていたのです。
はっとなって再び文庫本に目を落としても、活字は全く頭に入ってきませんでした。君の黒髪の美しさで支配され、小さな脳髄の容量がいっぱいになってしまったのです。今まで読んだ内容さえもすっかり分からなくなってしまいました。
君はやがて、同じ制服を着た沢山の高校生と一緒に電車を下りていきました。白いリュックサックの上で、柔らかい黒がさらりと揺れました。

僕は翌日もまた、同じ時間の電車、同じ車両の同じ座席に腰掛けました。しかし決して、君にまた会えるかもしれないなどと期待をしていた訳ではありません。長年の変化のない生活のなかで習慣になっていることなのです。ただ、全く期待していなかったかと問われれば、ノーと答えなくてはなりません。固い椅子に腰掛け、君が乗車してきた駅に近付くごとに、僕はそわそわしていました。また君の黒髪を眺めたかったのです。あんなに衝撃を受けたのにも関わらず、一日経てばディテールは薄れてしまっていました。最後にはもう、「昔、綺麗な髪の人を見たな」というくらいの曖昧な記憶に変わってしまうのかもしれません。それでも、もしそうなっていたとしても、僕はそれを受け入れられていたと思います。名前も知らない人に一目惚れをして、それを一生美しい思い出として保存しておけるなんて、それはそれで空想的で素敵ではありませんか。だから僕は君に会えても会えなくても、どちらでも良かったのです。

君は、昨日の駅からまた電車に乗ってきて、僕の前に立ちました。足元しか見ていませんでしたが、君であるとすぐに分かりました。何故でしょうか。その訳は今でも分からないのです。君に恋をした理由も、何故君のことがすぐに分かるのかも、僕には今でも分からないままです。
僕はまた、全く内容の入らない活字に目を落として、目だけは時々君の靴を見ていました。まだ傷もない、綺麗な新品の革靴。本当はまた、君の髪が見たい。しかし昨日失態を晒してしまった手前、慎重にならざるを得ませんでした。君が下車する駅までずっと文庫本を眺め、君の靴を眺め、ということを繰り返します。そうして電車が停車し、君がドアの方へ身体を向けた時になってやっと、顔を上げることが出来ました。君の黒髪と、横顔が目に入ります。髪にはやはり、天使の輪がかかっています。初めて見た時と同じくらい綺麗だと思いました。当たり前です、君の黒髪の美しさは不変のものなのですから、僕の感性がおかしくならない限りはそう感じるのが当然です。三日で飽きる美人は本当の美人ではないのです。

僕はその翌日もまた、同じ時間の電車、同じ車両の同じ座席に腰掛けました。二度あることは三度あると言います。そんな諺を真に受けて、昨日よりは君がまた僕の前に立つことへの期待が大きくなっていました。
広げた文庫本に目を落としていると、やっぱり君は同じ駅から電車に乗ってきて、僕の前に立ちました。僕はまた、活字と君の靴に目を行き来させるささやかな眼球運動を始めました。ああ、靴などではなく髪が見たい。君の真っ黒な髪が見たい。砂漠のオアシスを目前に、檻に閉じ込められている気分でした。眼と脳と心の渇きに悶えながら、君が下車する駅までの十数分を遣り過ごしました。体感時間は十数分程度ではききません。腕時計は恐ろしいくらいの低速で針を進め、時計店へ修理に出すことを真剣に検討するほどでした。やっと顔を上げることを許されて見上げた君の美しい黒髪は、途方もない十数分を耐えた自分へのご褒美であるとも言えます。君は天使の輪を浮かべて、人の波へ吸い込まれていきました。時計はもう、普通の速度で時を刻んでいました。

僕はその翌日もまた、同じ時間の電車、同じ車両の同じ座席に腰掛けました。君は恐らく僕の前に立つだろうとほぼ断定するような心持でした。たった三度で決めつけてしまうなんて、せっかちだと嗤われてしまうかも知れませんね。
広げた文庫本に目を落としていると、やっぱり君は同じ駅から電車に乗ってきて、僕の前に立ちます。また、活字と君の靴に目を行き来させるささやかな眼球運動を始めて、中断しました。イレギュラーが発生したからです。君が声を発したからです。
「ねむい。帰りたい」
僕は戸惑いました。その声が独り言にしては少々大きかったからです。かといって、それが僕に向けられているとは到底思えませんでした。僕と君は他人です。なにか事故があったり、用事のある時以外に話すきっかけはありません。また向けられた言葉も、コミュニケーションをとる準備のためのもの―例えば、挨拶や呼び掛け―ではありませんでした。しかし僕の戸惑いは、すぐに解決に至りました。
「まだ出てきたばっかじゃねえか」
君の隣に立つ人間が、それに応えたからです。それをきっかけに、君とその隣にいる人物は会話を始めました。それは他愛のない、いわゆる雑談というものでした。しかしこの文章には直接関係のない内容ですし、またプライバシー等の問題もありますからここでは割愛します。
耳を傾けていると、君とその隣にいる人物はどうやら同じ高校に通う友達同士であるようでした。君とその隣人は、やはりいつもの駅で下車します。電車が停車するのを合図にそっと顔を上げ、君の美しい髪と横顔を見ました。君の髪はこの日もやはり美しかったです。昨日も、一昨日も、ずっと美しいままです。僕の語彙が貧困なばかりに、忠実に再現することが叶わないのが悔しくてなりません。何かに例えるのは簡単ですが、君の髪はこの世のどんな物より美しいのです。烏の羽?射干玉?それとも絹の糸でしょうか?否定している訳ではありません。それらもきっと美しいのでしょう。しかしどんな言葉も、物も、君の黒髪を前にすれば霞んでしまいます。それ以上の、いえ、肩を並べるものすらも有りはしないのです。

その次の日も、休日を跨いだ次の日も、僕はいつもの車両のいつもの座席に座り、君はその前に立ちました。そして隣にはいつも、同じ友人が居ます。僕は君たちの会話から、君について幾つか知ることが出来ました。
隣の友人が度々口に出す単語が君の名前だと気付いた時、とても驚いたのを覚えています。人の名前には珍しいというのもありましたが、あまりにも君にぴったりだったからです。君は名前の通り美しさを、いえ、それ以外の部分も全て磨き上げ、どんどんと洗練されていくのでしょう。輝かしい未来を予感させる名前です。
僕の中で名前を手に入れた君に、少しだけ距離が縮まったような気がしました。もちろん知ったのは名前だけではありません。好きな教科、嫌いな教科、部活動のこと。それらの話をする口ぶりや態度から、君の人間性や思考パターンもある程度推察できるようになっていきました。
僕は君たちの会話から得た情報を全て頭に焼き付け、君たちが電車を降りて行った瞬間に手帳に書き付けるようになりました。僕は美しい髪を持つ君を構成する要素を知りたかったのです。美術館に行けば、作品の脇にはタイトルと使用した画材が表記されていますよね。厳密に言えば違っていますが―言葉通りのことをするのなら、元素記号をただ只管並べるだけで良いのです―あれと同じようなものだと思ってください。僕は君の美しさを端的に、そして的確に表現する言葉を見付けたかったのです。馬鹿の一つ覚えのようにただただ美しいと繰り返し続けるのは嫌でした。考えることをやめれば、その瞬間から人は糞尿製造機になってしまうからです。その為にはまず、君の事を徹底的に知らなければなりません。
次第に君たちの会話を隠れて録音し、会社や家で一字一句違わぬように書き起こすようになりました。勿論、音声データは全てコンピュータにバックアップを取ってあります。次第に手帳では不便になってきたので、専用のノートを作りました。それも勿論、データ化してバックアップを取ります。君についての細切れの情報の、そのたったひとかけらでも失くしてしまえば、僕の中の君も消えてしまうような気がしたからです。
一年間それを続けて、データは膨大な量になっていました。出会った頃は名前も知らなかったのですから、本当に君の友人には感謝しなくてはなりません。好きな食べ物やゲームソフトのことくらいなら頭の中に入っていますし、いつの朝食に何を食べたか、部活動のいつの遠征でどこへ行ったか、なんてこともデータの海を少し検索すればすぐに分かってしまいます。

僕はもう大分、君の事を理解したつもりでいました。まだ君の美しさを表す言葉は見付かっていませんでしたが…。だけどそれは、僕の驕りだったのです。よく考えなくても分かります。僕は朝のたった数十分の間しか君と同じ空間に居ることが出来ないのですから。
僕が会社で仕事をしている間、君は学校で勉強や部活動に励んでいます。僕が休日を怠惰に過ごす間、君は若い肉体に鞭を打って黒い髪を汗で濡らしています。その様子の一部しか僕は知らないのです。隣の友人と話すことしか、僕には知り得ないのです。それに気付いてしまった瞬間の僕の絶望は、君の黒髪の美しさと同じくらい舌筆に尽くしがたいものでした。
暫く打ちひしがれた後、考えました。そもそも何故僕は、君の美しさにラベルを付けたくなったのでしょうか。まだ付けられていないからでしょうか。ラベルを付けることによって、君がもっと大勢の人から注目されればいいとでも思ったのでしょうか。
どう足掻いても完璧な情報には成り得ないと分かった瞬間、僕の作ったノートはただの紙屑に変わりました。雑巾のようにねじって、屑籠へ放り投げました。コピュータ上に作成したデータファイルも、ごみ箱へ移動してしまいました。苦心して作り上げているものは、所詮は砂の城でしかありませんでした。傍から見れば大層ご立派ですが、砂の一粒一粒がきちんと結びあっている訳ではありません。ぶつぎれなのです。てんでばらばらなのです。だからそのことに気付かれれば一瞬で崩れ落ちてしまうのです。
崩れて散らばった砂の城の跡を見、その場に頽れてただただ泣きました。城が崩れてしまったのも勿論ありますが、なにより城からただの砂粒に変わってしまっても、一粒一粒がどんな宝石よりも煌めいていたからです。君を作るひとつひとつの要素が全て美しいのだと僕は漸く理解しました。一言でラベルを付けてしまおうなんて、どんなに君のことを知っていても土台無理な話だったのです。散らばる砂を両手でそっと掬い上げると、掌に乗りきらなかった分がさらさらと零れ、穏やかな流れを描き、床に落ちて小さな円錐を作ります。その円錐すらもまた、美しかったのです。僕はその時初めて、君に恋をしているのだと気付きました。

自分の感情に気付いてから、幾分か気が楽になりました。ノートを作ることも、電車内での君と友人の会話を録音することもやめました。文庫本もまた普通に読めるようになりました。活字と君の靴を交互に眺め、君が電車を降りていく時にだけ黒髪を見つめるだけの憐れな男に戻ったのです。憐れでも、それでも充分幸福でした。毎朝の数十分間だけ、僕は世界で一番幸福な男でいられました。君は毎日少しずつ磨かれていき、その美しい輝きを増していきました。

君に出会って二年目の、春と夏との間くらいの時期でした。
その日も僕は電車のいつもの座席に座り、ささやかな眼球運動を繰り返していました。友人はおらず、それがいつもと違っていたのを覚えています。やがて電車が君の下車駅に到着し、僕はいつも通りに顔を上げます。そして酷く、驚きました。そこに君の美しい黒髪がなかったからです。君の黒髪は、すっかり色を変え、金色になっていました。色素の薄い人種特有のそれではありません。薬品で傷めつけられた髪にはもう濡れたような艶はなく、硬く、きしきしとしているのが触らずとも一目で分かりました。
その日は出社自体はいつも通りにしましたが、どうにも仕事が手に付かず早退をして帰りました。玄関で靴を脱いだ瞬間にどっと疲れが押し寄せて、その場で暫く眠ってしまいました。目を覚まして体温を計ると、発熱していました。僕はそれほどまでに、君の変化に衝撃を受けたのです。
翌日になっても体温は下がらず、頭もひどく痛んだため、僕は初めて会社を欠勤しました。そして家で、ただただ君のことを考えていました。黒髪の君のことを。
ふと思い立ってコンピュータを起動しごみ箱をダブルクリックすると、その中には君に関するデータファイルがそっくりそのまま残っていました。僕はごみ箱へ移動するだけで満足し、削除するのをすっかり忘れていたのです。
ファイルをデスクトップに移動し、開きました。黒髪の、完璧に美しかった頃の君が僕の前に現れます。僕は涙を零しながらそれを読み、そして記録をやめてから得た情報を、覚えている分だけ最後に書き加えました。君が髪を脱色して僕の前に現れる、その前日までの分です。ああ、君は変わってしまいました。


君を僕の家まで連れ帰るのはさして大変なことではありませんでした。神経質そうでいて案外とぼんやりしたところがあるのですね。
「誰…」
それが君が僕に初めてくれた言葉でした。両の手足を縛られた君は怯えていて、少々申し訳なく思いました。僕は僕の名前を名乗り、電車のなかでずっと君を見ていたと正直に告白しました。君はそれを黙って聞いていましたね。
「家、そんなにお金ないし。別に貧乏でもないけど…」
「違うんです。僕は身代金目当てなんかじゃない。お金なんてどうでもいいんです」
「じゃあ殴るの?殺すの…?」
「僕は君を傷付けるために君を連れてきたんじゃない。信じてください。僕はただ、君のことが――」
あとの言葉は、言えませんでした。まだ、その勇気がなかったのです。君は僕という存在を知ったばかりです。だから少しずつ僕がどういう人間かを理解していってもらってから伝えるのでも遅くはないと思ったのです。
その代わり、新品の座椅子の上に座らせた君をぎゅっと抱き締めました。連れてきた時は焦りで感触など覚えていませんでしたから、その時に漸く君の存在を実感しました。僕よりは小さいですが、人並みに身長のある身体は重量感もそこそこでした。そこそこと言っても、痩せてはいます。手首に触れて、骨の随分細いことに気が付きました。真っ白いワイシャツに鼻を寄せれば、ほんのり汗の混じった君だけの匂いがします。そうされる間も君は抵抗をしませんでしたが、傷んだ金色の髪は僕の頬をちくちくと掠めていきました。

食事を掬ったスプーンを口元に持って行っても、君は項垂れたまま首を振るだけでした。
「嫌いでしたか?」
「食べたくない」
この返答に少しだけほっとしました。僕が集めたデータに誤りがあった訳ではなかったのです。無理強いはしたくなかったので、君の分の食事はそのままにして自分の分を食べてしまいました。ずっと一人だった食卓に自分以外の人間がいて、そしてそれは僕の恋する人で…なんと幸せなのでしょう。
「食事はよくても、水分はとって下さい」
「いい、要らない」
麦茶入りのコップにさしたストローを口元に持って行っても、君はやはり拒みました。食事はある程度とらずにいても平気らしいですが、水分は生命に関わります。
「僕は君を傷付けたくはないのです」そう言うと、君はひどく怯えた顔をしました。きっと僕の言葉の意味を勘違いしてしまったのでしょう。言う通りにしないと傷付けるぞ、と。再びストローを差し出すと、今度は大人しく飲んでくれました。柔かい頬がちいさく窄み、喉仏が上下します。その様ですらも美しい。君は本当に、全てが美しいのですね。もっともっと、僕の知らない美しさも見せて下さい。
今すぐ全てを暴いてしまいたい。というのが本音ですが、美しいものに触れるのですから手指に限らず全身を清潔にしなければなりません。そうしてひとつひとつ、時間をかけて優しく丁寧に開いていかねばなりません。僕はまず風呂に入り、身体を清めることにしました。

「どうしたんですか?」
僕が風呂から戻ると、君はなんだか苦しそうな顔をしていました。縛られた手足を必死に動かし、もぞもぞとしています。僕の問いかけにもただ首を振るばかりです。
「君が決して逃げ出さないと誓うまで、僕はこの縄を解くつもりはありません。僕は君の名前も、住所も家族構成も知っています。部活動でどんなことをしているかだって。それに、君の友達の名前もね。だけどまだ、君の全てを知っている訳ではありません。本当は、こんなことだってしたくないのです」
僕の声が届いているのかいないのか、君は歯を食いしばり、瞼をぎゅっと瞑っていました。しかしある瞬間ぴたりと動きを止め、「もう嫌だ」とだけ言ってがっくり項垂れてしまいました。
小さな水の音と、独特のにおいが辺りに広がります。君は僕に抵抗していたのではなく、生理現象に耐えていただけだったのです。僕はあまりにも鈍感でした。
唇を噛み、溢れる涙を必死で堪える様子に、美しさは勿論のこと、可愛らしさも感じました。君を可愛らしいと感じたのはこの時が初めてでした。

両脚を拘束していた縄を解き、水分を含んで重くなったスラックスを脱がせます。君はこれにも抵抗はせず、ただただずっと、堪えていました。その下の下着も、お尻の部分まですっかり色を変えていました。手が汚れることには構わずに脱がしてやります。全てを脱がしたところで、ようやく座椅子から下ろして畳へ寝かせました。ぐっしょりと濡れた座椅子は排泄物のにおいをひたすらに放っていましたが、君のものだと思えば途端に甘美な香りに変わってしまうのですから、不思議なものです。
下半身を濡れたシートで拭かれ、成人用のおむつを穿かされたところで、君はついに泣き出してしまいました。静かにしゃくり上げ、肩を揺らしながら
「どうして」と何度も繰り返すので、
「君が美しいからです」と答えれば、君はそれっきりなにも言いませんでした。僕は君の涙をひとつ掬って、そっと自分の口に運びました。君の味がしました。

泣き疲れて眠る君を僕の布団に寝かせ、僕は並べた座布団の上に横になりました。着替えに穿かせたジャージはおむつのせいでお尻まわりがこんもりとしていて、それに庇護欲を煽られたのを覚えています。
立てていた計画よりも、事はずっと順調に進んでいました。君がもう少しは抵抗をするものだと考えていたのです。今のところ食事を拒否されたくらいで、暴れたり叫んだりはありません。この様子なら明日の朝食はきちんと食べてくれそうです。浮き浮きした気分で寝返りを打てば、君の美しい横顔が目に入ります。僕はそれを眺めるのに夢中になって、その日は一睡もすることが出来ませんでした。

「さあ、食べて下さい」
また一度は拒まれましたが、昨日のことを思い出したのでしょう。再び促せば、小さな口を小さく開けます。スプーンで掬った食事を運んでやれば、大人しく咀嚼し、飲み込んでくれました。その様子に僕はとてつもない達成感を感じていました。
「美味しいですか?」問いかければ、小さく頷きます。ああ、よかった。
「もう要らない」と言われるまで、それを繰り返しました。結局君が食べたのは一人前にも満たない量でしたが、君が小食なことは分かっているのでそれ以上に食べさせることはしません。食後の麦茶も、またストローから全て飲んでくれました。
朝食のあとは、僕はパソコンに向かって仕事を片付けました。本当は君を眺めたり、向かい合って話をしたかったのですが、まだ照れがあり出来なかったのです。なにせ、一年以上想いを寄せていたのですから。
君は手足を拘束され、僕の後ろで座布団の上に寝転んでいました。本当なら座椅子に座らせていたかったのですが、昨日の粗相の後始末のためにベランダで天日干しになっていたのです。

「あの」
君が口を開いたのは、正午に近くなった頃でした。
「なんですか?」僕が振り向けば、君はまた身体をもぞもぞと動かしていました。
「トイレ…」
「あっ、ごめんなさい。僕、おむつを替えるのをすっかり忘れていました」
「違う、トイレに行きたい」
「しかしそれは…」
「トイレが終わったらまた、縛っても良い。だから」
眉を寄せ、縋るような目をされれば僕は従うしかありませんでした。しかしまだ、全て解いてしまうのは不安です。脚の拘束だけを解いてやり、君の肩を抱いて手洗いへ向かいます。洋式便器の前に立たされ、ジャージとおむつを脱がせたところで漸く君は全てを悟ったようでした。じっと覗き込むように僕の顔を見てきます。大分切羽詰まった声をしていました。
「逃げない、逃げたりしないから」
「僕はまだ、不安なんです。君の全てを知らないから」
君は顔を背け、小さく鼻を啜りました。また泣いてしまうのでしょうか。でも誤解しないで下さい。決して僕は君を傷付けたり、悲しませたりしたい訳ではないのです。
「僕が手伝いますから、大丈夫です」
左手を君の腰に巻き付け、右手で君の性器を支えました。君は「出来ない」と頑なに首を振っていましたが、黙って暫くそうしていると身体の力がふっと抜けるのが分かりました。色のついた水が音を立てて便器に吸い込まれていきます。だいぶ我慢をしていたようで、水音はなかなか止まりませんでした。
「我慢は身体に良くありません」
「だって」
「土日ならばまだ良いですが、僕は平日の昼間は部屋を空けなくてはなりません」
君におむつとジャージを穿かせながら、僕は指に少しだけ付いた君の小水をそっと舐めました。

昼食も君はきちんと食べてくれました。横になっていただけなので、あまり食欲はないようでしたが…。食後の麦茶も、きちんと飲んでくれました。おやつには好物のアップルパイを用意しました。しかしそれも半分も食べずに満腹になってしまいました。
夕方になるとまた手洗いに行きたいと言われたので、先ほどと同様に両脚の拘束だけを解いて連れて行きます。また出始めるまでに間が空きましたが、出したくないというよりはただ緊張をしているだけという風に見受けられました。
「ちゃんと出来ましたね」と忌まわしい金髪を優しく撫でます。根元には美しい黒が少しだけ光っていました。

夕食も君はきちんと食べてくれました。相変わらず横になっていただけなので食欲はないようでしたが。
僕が風呂から戻ると、君が「身体がかゆい」と言うので身体を拭くことにしました。そういえば、昨日も風呂に入ったのは僕だけでした。どうも、君がいるということだけで頭がいっぱいになってしまっているようです。いまいち普通の事が出来ていません。
恐る恐る腕の拘束を解いても、君は抵抗を見せませんでした。僕が包丁を出しっぱなしにしているのを見てしまったからかもしれません。それでも油断は出来ないので、衣服を素早く脱がせ、また縄で縛ります。脚の拘束も同様に解いて、衣服を脱がせて直ぐにまた縛りました。
座布団の上に座らせ、濡らしたタオルで全身を隈なくゆっくり拭き清めます。きめの細かい肌は水分を受けてきらきらと光っていました。温かい湯で何度もタオルを絞り直し、じっくり一時間近くをかけて全身を磨き上げました。されども季節は夏。君は満足出来ていない様子です。
「もう少ししたら、お風呂にも入れるようになります」
再び拘束を解き、新しいおむつとジャージを穿かせ、ここに来てから着替えていなかったワイシャツもようやく揃いのジャージに着せ替えることが出来ました。君はまだ眠くないようでしたが、布団に寝かせれば大人しくしていました。
僕は一日目の分とまとめて君についての記録をコンピュターに書き加え、座布団に寝転びました。そうして君が僕の家で過ごす二度目の夜も無事に過ぎていきました。

三日目になると、君は大分大人しくなったように感じられました。
僕がスプーンで食事を掬おうとしただけで薄く口を開けるようになりましたし、手洗いもまあまあ出来るようになりました。それでもまだ、お通じの方は抵抗があるようでしたが。
「ねえ、あんたはおれを人形かなにかにしたいの?」
君の一言は僕にとって心外なものでした。君にそんな風に勘違いをされるなんて、哀しくてたまりません。
「違います。僕はただ、君と静かに暮らして、そうして君を完璧にしたいんです」
「完璧?」君は意味が分からない、と眉を顰めました。僕は改めて君の美しさについて話をし、僕の計画についても分かりやすく掻い摘んで説明しました。
「おれにはよく、分からない」
「でも、理屈は分かるでしょう?じきに理解出来ます。僕はこんなに美しい人間を見たことがないのです」
「そう思うなら、もっと丁重に扱ってほしい」
「僕は十分、丁重に扱っているつもりなのですが…」
「手、痛いし。不便。身体もべたべたしてきもちわるい」
「そこは、僕もどうにかしたいと思っています。だけどすべて君の言動次第なのです」
早く僕を解ってください。そう言ってきしむ髪を撫でました。君は溜息を吐き、されるがままです。
その日は昨日よりも更に時間をかけて身体を拭きました。「そういう事じゃない」と言われてしまいましたが、今はこうするしか手立てがないのです。君は少々口が悪いですが、それは君を電車の中で見ていた時から知っていたので腹は立ちませんでした。寧ろ、気取らない君の言葉を使ってもらえて嬉しかったです。
君は「かゆい、きもちわるい」と文句を言いながらも疲れて眠ってしまいました。眠った顔は起きている時よりも少しだけ幼く見えます。これで髪が黒ければ、計画も少し前倒しが出来ていたのかも知れません。
早く一緒に入浴をし、身体を清めてあげたいと思いながら僕も眠りました。

「良い子に待っていて下さいね」
四日目の朝、僕は不安な心持ちで玄関を出ました。両手足を縛り、口にタオルで猿轡をしているとはいえ、壁に体当たりをして自分の存在を知らしめることだって出来るからです。ペット用の小さな柵を用意しなかったことを後悔しました。
今日からまた、一週間が始まります。僕は普通の会社員として日々を送らなければなりません。出来ることなら四六時中君と一緒に居たいのですが、それは今の僕にはなかなか難しいことです。
電車に乗り、いつもの座席に座ります。君が乗ってくる駅に着いても、勿論君が乗ってくることはありません。その代わりに、その日は君の友人が僕の目の前に立ちました。彼は一体どのような気持ちをしているのでしょうか。想像してみましたが、あまり分かりませんでした。僕には友達と言えるような存在が皆目見当たらないからです。
君の存在にそわそわしなくて済むので、久しぶりに文庫本の内容に集中することが出来ました。僕はやっぱり、君を連れてきて良かったのだと感じました。

定時きっかりで退社し、逸る気持ちを抑えて帰宅すると、アパートの周りは特にざわめいたりはしていないようでした。君のことは露見していないようです。君を驚かせないようにゆっくりと玄関のドアを開けると、まず排泄物の臭いがつんと鼻をつきました。しかし君のものなので悪臭ではありません。靴を脱ぎ捨てて蒸し暑い部屋に入れば、君は畳の上でぐったりとしていました。
「平気ですか」
閉めきっていた窓を開けると、部屋は少しだけ涼しくなりました。力の入らない身体を抱き上げ、噛ませていた猿轡を外し、汗だくの顔を拭いながら問いかけると、君は鼻を一度だけ啜って答えました。喉が随分乾いているようだったので、コップから直接水を飲ませました。
「ああ、気持ち悪かったでしょう。今、取り替えますからね」
テープ式のおむつは大変便利です。脚を拘束したままでも交換が出来るからです。ジャージをずり下ろし、両脚を持ち上げます。一目見ただけでもおむつがずっしりと重くなっているのが分かりました。立体をつくる為のテープを剥がすと、中は酷い有様でした。窓を開けてもなお部屋に充満する臭いが一層濃くなります。きっと、一度では済まなかったのでしょう。最低でも三日は我慢していたのですから。小水も合わさり、あと少しで染み出てしまいそうな量です。古いおむつを丸め、腰の方まで汚れた下半身を濡れたシートで優しく拭い、そして新しいおむつを穿かせようとしたところで君が僕をじっと見ました。随分泣いていたようで、目は真っ赤になり、瞼も痛々しく腫れています。
「大丈夫です、気にしなくても」
君はぐったりとした首を弱弱しく振りました。
「逃げない。絶対逃げません。…だからもう、ゆるして下さい」
何度も何度も「逃げません」と繰り返しました。かすれた声で。僕に伝えているのは勿論のこと、自分に言い聞かせているようでもありました。
「絶対ですか?」
「絶対、です。やくそくします」

拘束を解かれた君の手の中には、いつも電車の中で弄っていたスマートフォンがありました。焦って奪い取ろうとする僕に
「もう電池、切れてるから」と君は言い、そのまま机の縁に力一杯叩き付けました。それを数度繰り返せば脆い強化ガラスはあっという間にヒビだらけになり、最先端の電子通信機器からただの不燃ゴミに変わります。
「良いんですか?」と問えば、君はまた鼻を啜りました。でももうその顔は泣いてなんかいませんでしたね。
僕は踊るような足取りでトイレへ向かいました。君のおむつの中身を便器に棄てる為です。ドアを閉めると、まずおむつに頬ずりをし、大きく息を吸い込みました。鼻腔を刺激するのはやはり途方もなく甘美な香りでした。
君はようやく入浴をすることができて、心持ちリラックスしたようでした。


拘束を解かれてからの君はただただ従順でした。解いて直ぐは柱と片方の足を鎖で繋いで玄関まで辿り着けない様にしたりもしましたが、そんな物は初めから必要なかったのですね。疑ってばかりいてすみませんでした。だけど僕は、せっかく手に入った君が消えてしまったらと考えると、気が狂いそうになってしまうのです。
君は大人しく朝から晩まで僕の、僕たちの部屋で過ごしていました。ここはもう、僕と君、二人だけの城です。
勿論、僕は君に命令をするなどという下卑た事はしません。暴力もふるいません。君を下僕や奴隷として手元に置いておきたい訳ではありません。ただただ美しさに浸っていたいだけなのです。
しかしそんな僕に時々芽生えてしまう浅ましい欲求を見透かして、君は自らそれを叶えてくれました。
食事中に、両手が使えるのにも関わらず「めんどくさいから食べさせて」とねだってきたり、パソコンに向かう僕にいきなり寄りかかって甘えてきたり。やたらと腕の中に入りたがる時もありました。文字にしてしまえばごくごく些細な事ですが、その度僕の心臓は跳ね上がり、密かに歓喜していました。
そんな、君が叶えてくれた欲の中で、特に嬉しかったことが二つあります。

君が僕の元に来てからふた月ほど経ち、君の金髪に混じる黒の割合が大分多くなった頃のことでした。
「金髪、嫌なんでしょ?」と唐突に君が言ったのです。
僕は君と過ごす時間のなかで、度々君の美しさについて熱く語ることがありました。君はよく分からないという顔をしながらも、それなりに耳を傾けてくれていました。特に力が入るのは、やはりたゆたう黒髪の魅力について話す時でした。決して金髪が嫌だと口に出した訳ではありませんが、やはり伝わってしまっていたようです。
「嫌、というか…」
「好きにしていいよ。おれも飽きてきたし」
君が手櫛で髪をすけば、根元の黒くなった金髪が一本だけ抜けて、指に引っ掛かりました。それを顔の前に持ってきて、言います。
「もう、大分伸びた」
髪を脱色した頃の事を思い出したのでしょう。その眼はうっすら潤んでいました。

しょき、しょき、と気持ちの良い音を立てて、鋏はその役割を果たしていきます。水色のタイルの上に散らばるのは君の金髪です。
「酷く傷んでる。中がすかすかだ」
「トリートメントにも、限界があるんだね」
金色を全て切り落として君は元の黒一色の頭に戻りました。長さがばらばらで、歪なスポーツ刈りといった感じです。勿論、これで終わりではありません。
「本当に、良いのですか?」
「好きにしていいって、言った」
「では…」
僕はカミソリを手に取り、石鹸で滑りを良くした頭をなぞっていきます。傷を付けてはいけないので、注意して少しずつ慎重になぞっていきます。黒い毛はぞり、ぞり、と音を立て、地肌のところですっぱりと切断され、タイルにぽとぽと散らばります。君は君を縛る様々のものから解き放たれていきます。あとに残るのは僕だけです。それで良いのです。
「出来ました」つるりとした頭を撫でて、僕は満足でした。計画の第一段階が完了した瞬間でした。
「あたまかるい」君は照れくさそうに自分の頭を撫でていました。軽やかに、だけど妖艶にゆらめく黒髪も美しかったですが、それを失ってもなお、君は美しかった。君自身が美しいということのなによりの証明です。僕がそう言葉にしても、やはり君は首を傾げるばかりでした。
すっかり露出した君のあたまの皮膚を眺めて、何故だかまた浅ましい欲求がむくむくと芽生え始めました。君はそれを瞬時に察知し、薄らと笑いました。いえ、嗤いました。どうしてか、知られたくないことばかり知られてしまいます。

―欲情は二つの皮膚の偶然の接触から生まれる―
誰かの言った言葉が思い出されました。僕と君の出会いは決して必然ではありません。そして僕が君を部屋に連れ帰ったのも、君が僕の部屋で暮らす事を受け入れたのも必然ではありません。全て数ある選択肢の一つを選んでいった結果に過ぎないのです。僕の性器を咥える君を見て、体温が更に上がった気がしました。
僕は君を見初めた時も、友人の些細な猥談に困惑している時も、君を初めて抱き締めた時も、色の白い肌を見た時も、身体を洗う時も、君に対してこれっぽっちも欲情したことはありませんでした。君はただひたすらに美しく、それでいて時々可愛らしさも見せてくれる、それだけの存在だったからです。美しさのあまりにそういう対象にならなかったのかもしれません。それが、俗な物を切り捨て、更に崇高さを増した途端に劣情を抱いてしまうなんて、皮肉な話ですね。けれどこれも、数ある選択肢を選んでいった結果の偶然でしかないのでしょう。
無毛の丸みを優しく撫でれば、君は擽ったそうに身を捩ります。切なげに寄せられる眉と、大きな眼を縁取る長い睫毛ばかりが黒々としていました。
君は手慣れた様子で僕の欲を吸い出すと、タイルの上にぺっと吐き出します。黒い髪と金の髪、それから汚れた白が混じりあい、不思議な模様を描いていました。

この出来事をきっかけに、僕は君に度々劣情を催すようになりました。どうにか隠し通そうとしてもすぐに見破られてしまい、君はそれを見る度僕を嗤いましたが、そうするのは表情だけで、身体はごく優しく慰めてくれました。君の指、掌、舌が僕を包み、巧みに蠢いて蹂躙する間はいつも、今死んでしまったとしても一向に構わない、むしろそれこそが幸福というものだろうという心持でした。
しかしそんなに好くしてもらっても、僕は君の肌に自ら触れることはしませんでした。君の性器が僕を慰める事でどうなっているのかを確かめることすら出来ませんでした。抱き締めたり、頭を撫でたり、その程度の子供じみた触れ合いが僕には限界だったのです。やはり君はどこか現実離れした、崇高な存在だったのです。

このように激情的になる時も時々はありますが、基本的に僕と君との暮らしは穏やかなものでした。朝は揃って同じ時間に起きて、揃って朝食をとり、二人並んで歯を磨きます。僕が「いってきます」と手を振れば、君は「いってらっしゃい」と言って小さく笑ってくれましたね。
僕は君のいない電車に乗って会社へ向かい、仕事をします。君の友人はある時から見かけなくなりました。高校を卒業してしまったのでしょう。もう、君を見初めてから二年が経っていたのです。一生名も知らぬ人への片思いで終わったかもしれないこの恋の顛末を、僕は幸福に思います。君と暮らし始めてから、僕の仕事の成績は目に見えて良くなりました。勿論、君のおかげです。人を一人余分に養わなければいけないというのもありますが、君と居ると心が洗われ、全ての事物に意欲的になれるのです。そんな風に僕が仕事に励んでいる間、君は家事をこなしてくれるようになりました。僕が頼んだのではありません。君が自主的に始めてくれたのです。家じゅうが常に清潔に保たれているというのは、精神衛生にも非常に良いのだと知りました。
仕事から帰れば、君は台所から良い匂いをさせながら「おかえり」と僕を迎え入れてくれます。僕は「ただいま」と返事をし、君をきゅっと抱き締めます。剃って直ぐはちくちくとした髪も随分伸びました。頬をすり寄せれば、柔らかな感触が僕の疲れを癒してくれます。この頃の僕は、君の美しさだけではなく、君そのものを一人の人間として愛おしく思う様になっていました。

先程、君が叶えてくれた欲の中で、特に嬉しかったものが二つあると言いました。一つは、君の痛んでしまった髪をリセットしたいと願ったことでした。もう一つは、今となっては少し話すのがつらいのですが…。でも、話したいと思います。僕は僕と君の暮らしの中で感じたこと、起こった出来事をなるべく包み隠さず君に伝えたいのです。

一度剃り落とした髪も大分伸び、出会った頃にはまだ足りませんが、同じように顔の真ん中で前髪を分け、耳にかけることも出来るようになっていました。
僕は艶めく黒を見る度、胸を高鳴らせていました。それにただ電車の中で眺めていた頃とは違い、今では自由に触れたり、においを嗅いだり、口付けたりすることが出来ます。ただ美しいと感じるだけだったそれに、欲深い僕は悪戯をしたくなってしまいました。一つ手に入ると、もう一つ欲しくなってしまう。人というのは難儀な生き物です。
半端に敷かれた布団に座る僕の脚の間で、君は卑しい性器を咥えて頭を上下させています。ちゅうちゅうと窄められる頬にふと、この部屋に来たばかりの頃の事を思い出して懐かしくなりました。ここに来てくれてありがとう。僕を受け入れてくれてありがとう。そんな純粋な想いで必死に悪戯心を塗り隠し、君の柔らかい黒髪に指を絡ませました。少し強く扱えばその瞬間に跡の付いてしまいそうな柔らかさです。浅く呼吸を繰り返しながら優しく撫でてやります。
「すごく好いですよ…」そう言えば、君はいつもほんの少しだけ嬉しそうにして、舌の動きを激しくしてくれるのです。しかし、その時は違っていました。私の性器の根元をきゅっと握りしめ、口を離してしまったのです。戸惑う僕に、君は言いました。
「かけたいんでしょ?良いよ、かけても。伸びたもんね、髪」
君はそれだけ言うと、茎を激しく扱きながら、舌では先端ばかりを責めてきました。僕はそうされるともう駄目なのです。あっと言う間に高みに昇りつめ、気付けば君の髪と、顔も少しだけ汚していました。
黒い髪をとろりと伝う白を見て、僕はまた興奮していました。いつもは一回で終わりでしたから、こんなことは今まで一度もありませんでした。僕自身は勿論、君も驚いていましたね。
君の名を呼び、白い液体を指で塗り広げれば、それだけで性器が硬くなります。君はそんな風に興奮する僕を見て少し不服そうでした。
「おれはこっちだよ…」頬に手を添えられ、無理矢理目を合わせられます。僕はこんな風にとろとろ濡れる君の眼を初めて見ました。熱っぽくて淫靡で、見てはいけないと思うのに、それでも見てしまう。吸い込まれるようです。

「綺麗です…君は世界で一番、美しい」
うわごとのように繰り返しながら、君の肌をゆっくり暴いていきました。もうどこもかしこも見てはいるのですが、こうして厭らしい目的で眺めるのは初めてです。全てを指で撫ぜ、舐り、時々は所有の印をつけました。君はそれらを全て受け入れてくれます。時には「もっと」と求めてくれます。
もうすぐ君は、今よりもっと完璧な君に成ります。それは僕にしかつくれない、僕だけの君です。それが僕の目的地です。もうすぐ、もうすぐ果たされるのです。そうしたらもう一生誰にも見せたくない、誰にも渡したくない。絶対に、僕だけの君でいてほしい。
「ずっとここにいて下さい、ずっと」
僕の頬をいつの間にか涙が伝っていました。君はそれを指で掬いとって、ぺろりと舐め「あんたの味がする」と言いました。君の性器は、僕と同じようにぴんと勃ち上がっていました。

繊細な君の中に入るのは、決して容易ではありませんでした。なるべく痛い思いをさせないように、ゆっくりゆっくり時間をかけて溶かしていきました。まだ少し苦しそうでしたが、「もう平気」と言われたタイミングで少しずつ挿しこんでいきます。君の中は熱くうねり、手や口とはまた違う締め付けで僕を歓迎してくれました。
「綺麗だよ。…すごく綺麗だ」
「そんなに何回も、言わなくていいよ」
「君がちゃんと自覚するまで、僕が代わりに何度でも言うんです」
君の額にかかる黒髪を指で掻き上げます。平気と言ってもやはり苦しいのでしょう。汗で湿っていました。
「もう動いて、いいよ」
「どうして君はいつも、そんなに僕に優しいのですか」
「わかんない…でも、そうしたくなる」
何も返せず、ゆっくりと腰を引き、また突き入れました。熱い吐息が漏れ、君はくぐもった声を上げます。それを数度繰り返し、そろそろ苦しいと感じたところで君が
「もっとしていいよ」と僕の腰に脚をぎゅっと巻き付けてきました。僕はごくりと唾を呑み、そこから先はもう滅茶苦茶でした。我武者羅に性器を抜き挿しし、君は髪を振り振り、甘い声を上げてそれに応えました。君の性器のすぐ裏側を擦り上げれば、悲鳴のような声をあげて上体を大きくしならせます。中は中で予測不可能な動きで僕を苛めてきます。
「もう、限界です…」君の顔の両脇に突いていた腕で君の華奢な身体ををぎゅっと抱き締めれば、君の細い腕もそっと、僕の身体にまわされました。僕の腹に当たる君の性器は、変わらず硬いままでした。貧弱な腹で擦ってやります。部屋の中は、荒い息づかいと熱で異様な空間へ変わっていました。
「あっ、もう…っ」
「いいよ、ぜんぶ、して、」
ずくりと性器の裏側を突き上げれば、君は前後からの刺激で飛沫を上げ達しました。僕もその瞬間の強烈な締め付けで君の中に全てを吐き出しました。あまりの衝撃に視界に星がちらつくくらいでした。
性器を抜くのでいっぱいいっぱいといった具合で、僕たちはそのまま疲れて眠ってしまいました。

はっと目を覚ますと、部屋の中はすっかり明るくなっていました。いつもの起床時間よりは早いですが、昨日の後始末をし、仕事へ行くための身支度を整えなければなりません。
暖かい布団から抜け出ると、君がまだ半分眠っているような声で何か言いました。
「まだ眠っていて大丈夫です」やさしく頬を撫でれば、君は安心したようにまた眠りにつきました。その顔を見て、僕の心は昨晩とはまた違う幸福感で満たされました。
しかし、それは長続きしませんでした。
玄関のドアが荒々しく叩かれ、外からは男の声がします。このアパートに住む住人と付き合いはありません。朝から家に訪ねてくるような知り合いもありません。かたぎでない人間との付き合いだってもちろんありません。
僕は、一つの可能性に辿り着きました。
急いで君を揺り起こすのと、玄関のドアが破られるのは殆ど同時だったように思います。穏やかで、そして甘く、幸せだった僕たちの城は、粗暴な空気に覆われました。
怒鳴る声といくつかの足音が城を覆い、僕は突然部屋に押し入った見知らぬ男たちに羽交い絞めにされていました。
「被疑者、確保しました」
野太い声が頭上から聞こえます。畳に顔をぐっと押し付けられ、顎や鼻先がジンジン痛みます。眼鏡は歪んでいるでしょう。握り締められた手首は折れてしまいそうでした。しかし僕は、僕自身や城ではなく君だけがただ気がかりでした。自由のきかない顔を必死の思いで動かして玄関に目をやると、君は僕を取り押さえたのとはまた別の、何人かの男達によって外へ連れ出されるところでした。僕は君に向かって必死に言葉にならない叫びを上げましたが、全て僕を取り押さえる男の怒鳴り声によって掻き消されてしまいます。君も何かを叫びながら、ドアの向こうへ消えて行きました。僕の位置からは君の顔を見る事が出来ませんでした。唯一見えたのは君の白く細い脹脛と、そこを伝っていく僕の精液だけでした。

ずっとここにいてくれ、と言った数時間後に、君と僕との暮らしは実にあっけなく終わってしまいました。あんなに幸福な夜の後にこんな苦しみが待っていたなんて、一体誰が想像出来るでしょうか。悶着が終わった部屋の中は、酷い荒れ様でした。僕たちが毎日を過ごした畳や布団は汚らしい靴跡で汚されてしまいました。君が使っていたコップも、机から落ちて割れてしまったようです。しかし布団やコップなんて、どうでもいいのです。僕は君がいればあとはなんだって構わないのですから。なのに君は、僕の前から突然いなくなってしまいました。



僕は今、薄暗く冷たい、無機質な箱の中でこの文章を書いています。
これは君への恋文です。初めの方で、君につけるラベルへ書くべき言葉が見つからないと言いました。だけど最近になって漸く、「僕の恋しい人」と書くべきなのだと気付きました。臆病な僕は君とすっかり打ち解けても「好き」というたったの二文字を伝えることが出来ませんでした。君の気持ちをはっきり聞くこともできませんでした。
身体の隅々まで見せあって、肌を重ねる事だってしたのに、愛らしい唇へ口付けることはできませんでした。
それでも僕は、僕がこの箱から出る事を許され、自由を手に入れたならば、きっと君は僕の元に来てくれる筈だと信じています。物々しい男たちに引き摺られていく君が玄関口で叫んだ「出たくない」という一言を僕は今もただただ信じています。
そうしたらまた、城を作りましょう。今度は君も手伝ってください。若く賢い君のアイデアを取り入れれば、僕が一人で作るよりもずっと良いものを作り上げられる筈です。たとえ傍から見てただの無機質な箱だとしても、それは僕たちにとっては立派な一つの城なのです。あの頃の僕たちの部屋がそうだったように。
ああ、君に会いたいです。君は今はどこで、何をしているのでしょう。再会の場所はどこにしましょう。僕たちが出会った私鉄の車内なんて、随分ロマンティックだと思いませんか?
君に会ったらまず、好きだと、愛していると言わせて下さい。ずっと言えなかった簡単で単純な言葉を、君が呆れるくらいに何度も言わせて下さい。華奢な身体をぎゅっと抱き締めさせて下さい。天使の輪の浮かぶ黒髪に何度も口付けさせてください。そして唇にも…。
どうかそれまで君は、気紛れに美しさを磨きながら待っていて下さいね。寂しい想いをさせてしまい申し訳ないと思っています。それでも僕は、きっと戻ります。ああ、早く君に会いたいです。愛しています。



「なにこれ、きもちわる」
「手紙?誰から?」
「知らない。ポストに入ってた。原稿用紙52枚って、もう正気の沙汰じゃない」
「やばいやつじゃね?気を付けろよ」
「うん…」

私鉄電車の中、そんな高校生二人のやりとりを聞き、密かに口の端を吊り上げる男が一人――


2015/06/28
2015/07/17


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マッドマックスを観てるときに思い付いた話です。ボリュームの割にエロが少なくフェチ先行のアレな感じになりました。お読みいただきありがとうございました。お疲れ様です。
当初は金髪にした研磨が学校の先生に剃髪される話にするつもりだったのですが、某都立高校に通っていた友人から「私の学校はゆるかった(その子も金髪だったそうです)」という話を聞いたのを思い出してやめました。
都会の学校はスゲーなあくらいの感じでしたが、まさかほも小説に役立つ日がくるとは。


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