小説 | ナノ
山猫冒険譚


※猫がお好きな方は少し不快に感じるかもしれません(猫に酷いことをする描写はありません)。



 ふいに、大きな風が吹きました。ざわざわと木々が揺れ、その音に、研磨はびくりと肩をゆらします。
「クロ、もう帰りたいよ」
「なにびびってんだよ、こんなの、ただの風だろ?」
 あっさりと却下されてしまった懇願に、研磨は唇をとがらせました。

 研磨と、彼にクロと呼ばれた少年―名前は鉄朗といいます―は、おなじ学校に通う友人です。ふたりの通う学校は全寮制で、寮ではちがう学年の生徒がふたりでひとつの部屋をつかうことになっています。研磨は初等科の四年生、鉄朗は一つ上の五年生です。毎日おなじ部屋で、寝起きを共にしています。
 ふたりが出会ったのは、おなじ部屋をつかうことになったこの春のことでした。なにか特別な事情がない限り、部屋割りは毎年かわるのが慣例です。いろいろなタイプのひとと、関われるようになるのが目的だそうです。
 研磨ははじめ、このルームメイトが苦手でした。研磨は、極めて引っ込み思案で、消極的な性格をしており、他人と関わるのが、あまり得意でありません。ひとりぽっちで、静かに過ごすのが好きです。一方の鉄朗は、研磨と真逆の、活発で社交的な、誰からも好かれる、ひとの輪の中心にいるタイプのこどもでした。きっと、もっと大きな声で話せとか、笑えとか、前に出ろとか、そういう、おおよそ教師の言うようなことを、この上級生もおれに言うのだ。と研磨は思い、これからの一年を憂いました。しかし、鉄朗は、研磨の予想を裏切ります。もちろん、活発で、積極的なことにかわりはなかったのですが、彼には、おもいやりというものが、しっかりと備わっていたのです。自分は活発で、研磨は静か。それぞれに、特性があると、理解していたのです。
 鉄朗は、研磨がいやにならない程度に、研磨を気づかい、苦手なことはコツややりかたを教え、また、得意なことはほめてくれました。それは、鉄朗にとっては、自然なことでした。一方の研磨も、初めこそうっとうしいと感じていたものの、徐々に、鉄朗の気づかい、とくにほめ言葉を嬉しく感じるようになり、そのうちに『自信』というものが、身についていくのが分かりました。どうやったって、自分は、自分なのです。そうして、研磨は、鉄朗にこころを開いてゆきました。部屋割りが、ずっと変わらなければいいのに、と思うほどでした。軽口だってたたくし、ちょっとくらい強いことばを使われても、平気です。そうして二人は、親友になりました。
 ふたりの通う学校はたいへんに厳しく、校舎も運動場も寮も、ひとつの敷地のなかに建てられ、その敷地の外へ出るのは、休暇や、なにか特別の行事以外では、決して許されません。規則を破れば、罰があります。はなれて暮らす家族の許にも手紙がゆき、そちらからもお目玉をもらうことになります。もっとも、学校のまわりには山しかなく、こどもが好きこのんで行くような場所はありません。街にでるのは、こどもの脚では不可能にちかいことです。遊具のある運動場や、絨毯敷きで、好きな場所に寝ころんで読書ができる図書室や、ちょっとした遊び道具の用意された談話室で過ごすほうが、よっぽど安全で、楽しいのでした。

 ふたりはいま、その、裏山のなか、随分奥まったところにいました。陽はとっくのむかしに落ち、まあるい月のぼんやりとした明かりが、木々の隙間から射しこむだけです。
きっかけは、鉄朗が「山に行ってみたい」と言いだしたことでした。おおよそ、冒険小説かなにかに影響されたんだろう。と研磨は思いました。鉄朗は、さきほど言ったように、やさしく、大人のような、すぐれた面もあるのですが、それと一緒に、年頃のこどもらしさみたいなものも、しっかり備えていました。いかんせん活発なので、いきすぎてしまう時もあり、そんな部分から、鉄朗は『良い子』にはいまいちなりきれないのでした。その点、研磨は、冷静で、用心深く、規則をやぶることは良しとしない、『良い子』でしたから、「それは、だめだよ」と言って、そのときはおわりました。
 それからも、鉄朗はなんどか「山に行きたい」と言いました。研磨を連れて行きたい。というのが、やっかいなところでした。研磨はそのたび、「あぶないよ」と言って、止めました。あんまりにしつこいので、なぜ行きたいのかを尋ねたところ、やはり鉄朗は、ある冒険小説のタイトルをぽつりと並べました。それは、研磨も大好きで、何度も何度も読み返している小説でした。

 主人公の少年が、ある夜、ふしぎな夢をみます。それは、家の裏山にある大きな大きな木の幹、そこに空いた穴が、こことは違う、不思議な世界へ通じている。というものでした。かくして翌朝、少年が実際に裏山へ行ってみると、不思議なことに脚がするする進み、気づけば夢でみたのと同じ木の前にいました。穴も、夢と同じように空いています。しかし、中には枯葉が散らばるのみで、別の世界などには、通じていませんでした。少年は肩をおとして、家に帰ります。
 ただの夢だったのだ、忘れようと決めて数日過ごしましたが、彼は毎夜、その夢をみました。諦めきれず、再び裏山へ行きます。こんどは、夢でみたのと同じ、真夜中に行きました。そうすると、なんと、夢と全くおなじ光景が、目の前にあったのです。木の穴はぼうと光り、その向こうには、みたこともない景色が広がっていました。
 それから少年は、その穴の向こうの世界へ行き、様々な人と出会いながら、数々の冒険をくり広げます。こどもたちに大人気の小説で、図書室では貸出の予約が大変なことになっています。鉄朗も、貸出し待ちをしたひとりだったのでしょう。研磨は幸運なことに、両親から本を買ってもらえたので、何度も読むことができていたのです。
「あれは、あくまで本のなかでの話だよ」
 研磨はゆっくりと、静かな声で、鉄朗に言い聞かせました。
「それは、分かってる。でも俺は、冒険がしてみたいの!」
 鉄朗は口をとがらせ、言います。仲良くなってからは、時々、どちらが年上なのか、分からなくなることがあります。
「だけど…」
「もういいよ、俺ひとりで行くから」
 ついに、鉄朗は拗ねてしまいました。研磨に背を向け、寝台に潜り込みます。こうなると、もう研磨にも、手のつけようがありません。機嫌がなおるまで、そっとしておくほかないのです。小さく、ため息をつきました。せっかく出来た親友なのですから、なるべく居心地のよいまま過ごしたいものです。
「クロ、ランプ消すね」
 ゆらゆらと室を照らしていた灯をそっと落とし、「おやすみ」と言っても、返事はありませんでした。以前の研磨にとって、それはなんともないことでしたが、鉄朗と仲良くなってからは、すっかりだめなのです。なんだか弱くなってしまったな、と思いながら、布団をかぶり、もこもこあたたかい毛布を、ぎゅっと握りました。

 ぱき、と木製の寝台が鳴る音と、布の擦れるごそ、という物音で、研磨は目を覚ましました。それは、研磨にとっては、ややあることでした。
 “それ”に初めて遭遇したのは、鉄朗と同室になって、彼の存在に多少は慣れてきたころです。今と同じように、寝台の鳴る音、布が擦れる音で、目を覚ましました。寝返りかとも思いましたが、どうやら違うようでした。ごそごそと布が擦れる音は、なかなか止むことがありません。寝台の下には、荷物や衣類をしまうための引出しがついています。寝台から降りずに、そこを開けて、なにか探しているのだろうか、と研磨は思いました。彼はいつも鉄朗に背を向けて眠るため、様子を盗み見ることはできません。ごそごそ、布が擦れる音は続きます。やがて、それに、鉄朗の吐息が混じるようになりました。はっ、はっ、という、短く、苦し気なそれは、眠っているときや、引出しのものを探すには、とうてい不釣り合いです。鉄朗とは、そこまで親しくなかったのですが、いやな予感がして、寝台から起き上がりました。
「あの、大丈夫?」
 切迫した声を漏らすと、鉄朗はひどくおどろいた顔で、研磨を見ました。顎のところまで布団をかぶって、顔を真っ赤にしています。窓から入る月明かりでも、はっきりと分かるほどです。これは、大変だ、と思いました。しかし、はあはあと荒かった呼吸は、すぐに落ち着きました。
「大丈夫だから、寝ろよ」
 鉄朗は、ぶっきらぼうに背を向けました。そうして、なにもなかったように、すうすう寝息をたてて、眠ってしまいました。研磨には、なにがなんだか、さっぱり分かりませんでした。ただ、見てはいけないものを見てしまった、ということには、なんとなく察しがつきました。
 “それ”がなんなのかは、すこし経ってから、偶然知りました。休み時間にひとり、図書室で本を読んでいたときでした。ちかくにいたふたり組の上級生が、ひそひそと、話をしています。図書室では、私語はしてはいけない決まりです。しかし、人の少ない場所や時間帯に、声をひそめて話をすることは、そう咎められることでは、ありませんでした。研磨は、こうした上級生の話をこっそり聞くのを、ひそかに楽しみにしていました。彼らは、研磨よりも長く生きているだけあって、研磨の知らないことを、たくさん知っています。研磨も、ふつうに生きてゆけば、順々に知っていくことです。でも、それを先取りすることができるのです。あまり行儀のよくない上級生の話は、特に研磨の興味を惹きます。彼らは、大人達が見聞きしてはいけないと言う映画、音楽、本、等々を、大人の言葉は無視して、こっそり、楽しんでいるようでした。そして、その話で、おおいに盛り上がっています。研磨は『良い子』ですから、そういうものに手を出すことはないのですが、彼らの話を聞く限り、悪いものには思えませんでした。そうして、そのうちに、研磨は彼らの話の中から、鉄朗がどうして、ときどき苦し気な呼吸で研磨を起こすのか(鉄朗とて、研磨を起こすためにしている訳ではないのですが)を知ったのです。
 “それ”の答を知ってから、研磨は“それ”に遭遇するたびに、もっと聴きたいような、聴きたくないような、表現しがたい気分になるのでした。
 だから、今の物音も、“それ”だと思ったのです。ですが、どうも、いつもとは違うようでした。布の擦れる音はすぐに止み、荒い息づかいも聞こえてきません。どうやら寝台から降り、着替えをしているようです。まだ、起床時間には、早すぎます。研磨は、眠る前のことを思い出し、心配になりました。鉄朗は本当にひとりで山に行く気なのかもしれない、と思ったのです。
 山は、整備されたふもとの、柵で区切られた部分には、入っても良いことになっていました。雑草は刈り取られ、花が植えられ、木もほどよく間引かれています。天気の良い日などは、切りかぶに座って読書をしたり、友人と語らう生徒の姿が、ぽつぽつと見られます。ただ、その柵で区切られた部分というのは、ごくわずかな面積しかありません。鉄朗はその柵を越えて、上へ上へ、山を登っていくつもりなのです。決して、大きくはない山ですが、柵の向こうが、どうなっているかは、分かりません。こんな夜中に出掛けて行って、帰ってこられなくなることだって、もしかしたらあるかも知れない。いつかに読んだ本に、『山は下りの方が、迷いやすい』と書いてあったのを思い出し、背筋がひんやりしました。
 眠る前の出来事から、気まずさを感じましたが、そんなものには、かまっていられません。意を決し、顔を鉄朗の方へ向けます。
「クロ」
 案の定、鉄朗は寝間着から制服に着かえているところでした。
「クロ、本当に行くの?」
 研磨の問いに、鉄朗は鼻を鳴らします。
「行くさ。弱虫は、ずっと寝てろよ」
 ひどい言い草に、かちんときましたが、研磨は落ち着いて、説得を試みます。
「山は、本当に危ないんだよ。帰ってこられないかも」
「あんな山、大したことないって」
「だって、ちゃんと道があるかも、わからない」
「だから、面白いんだろ」
 鉄朗の言っていることも、わかる気がして、うまく言い返せなくなってしまいました。そうこう話す間も、鉄朗はてきぱきと、制服を身につけてゆきます。紺色の、ウールの半ズボン、白いカッターシャツ、灰色の毛糸のベスト、ズボンとそろいのブレザー。黒い靴下を履き、きちんと磨かれた革靴に足をいれかけたところで、研磨は再び口を開きました。
「わかったよ、おれも行く」
 どうしても止められないならば、自分が一緒に行って、安全な場所で引き返すように、促すしかないと思ったのです。ほかの生徒や、先生に言いつけるのは嫌でした。万一、折檻部屋に入れられてしまえば、最低でも二日は、離ればなれです。

 ふたりは部屋の窓から外へ出て(幸いなことに、彼らの部屋は、一階にありました)、山へ足を踏み入れました。夜露にぬれた芝生はやさしく、四本の脚を受け止めます。柵までは、本当にすぐです。目の前にある、白い柵を見つめて、ふたりの表情には、不安が見えかくれしています。
「本当に、行くの?」
「今更、そんなこと言うのかよ。ほら」
 年上の自分がおびえるのは、格好わるいと思ったのでしょう。ぐずる研磨に、左手を差し出しました。研磨がおずおず右手を乗せれば、ぎゅっと力強く、握ってやります。鉄朗の手は、年上ということを差し置いても、研磨にとって、とても強く、頼りがいのある、大きな手でした。こうして腕をひいてもらったことは、これ以外にも何度かあります。柵は、子供でも簡単に越えられる高さです。ふたりは手を繋いで、先生の言いつけを破りました。
 柵の向こうには、辛うじてけもの道のようなものがありました。それに沿って、進んでゆきます。雑草や、時々落ちている小枝を踏みつけて、進んでゆきます。しかし、所詮はけものの道なのです。雑草が、ふたりの脚をちくちくかすり、うす暗いなかから突然現れる木の根に、けつまづくこともありました。そのたび、研磨は、もう帰りたいと、心の底から思いましたが、鉄朗には、研磨を気づかう余裕が、ありませんでした。ずんずん進む鉄朗に腕をひかれ、なかなか言いだすことができませんでした。
 山に入ってすぐは、興奮した様子だった鉄朗も、口数が少しずつ減っていき、ついにふたりの足音しか、聞こえなくなりました。研磨がブレザーのポケットから、懐中時計をそっと取り出すと、時計の針は、部屋を出てから、もう一時間ちかくが経っていることを示していました。その間、ろくに水ものまず、歩きっぱなしです。ただでさえ体力のない研磨は、すっかり疲れて、ふらふらと、頼りない足どりで、もはや歩いているのか、鉄朗に引きずられているのか、といった具合です。ついに、輪っかをつくった木の根にひっかかり、転んでしまいました。手を繋いでいた鉄朗も、つられて尻もちをつきます。
「痛い」
「大丈夫か?」
 鉄朗は、尻についた土を払いながら、地べたに座ったままの研磨に、手を差し出します。研磨のまっしろな膝には、あかい擦り傷が出来ていました。
「血が、血がでてる」研磨は、半べそで言いました。
「もう、こんなので泣くなよ」
「泣いてないよ」
 鉄朗は、持ってきた水筒の水で手巾を濡らし、傷口を拭いてやりました。痛々しい傷ですが、そこまで深くはなさそうです。
「ほら、もう大丈夫だから」
「うん…」
 再び差し出された手を取り、研磨は立ち上がりました。その時、大きな風が吹き、ざわざわと木々が揺れたのです。これまで、風はひとつもありませんでした。まるで、これ以上奥に入るなと言われたように、研磨には感じられました。疲れや不安もつのり、帰りたくてたまりません。
「クロ、やっぱりもう帰りたいよ」
「なにびびってんだよ、こんなの、ただの風だろ?」
 あっさりと却下されてしまった懇願に、研磨は唇をとがらせます。
「もう、だいぶ歩いたよ。クロだって疲れたでしょう?」
 鉄朗は、一瞬迷って、反論しました。
「まだなにも、面白いもの見つけてねえじゃん」
 言い返せずに俯いていると、ぐるるるる、と鉄朗のおなかが鳴りました。ぴん、とはりつめた空気を壊す間抜けな音に、研磨はぷっと噴き出します。
「ほら、やっぱりおなかが空いてる。ね、もう、帰ろう?」
「こんなのがまん、出来るし」
 鉄朗は、おなかをおさえてそっぽを向きますが、またぐるぐると鳴り、本心を、すっかり開けひろげにしてしまいます。からだは正直、ということです。
「今朝、母さんから送られてきた焼き菓子が、机の引き出しに、まだ残ってる」
 駄目押しにそう言うと、鉄朗は目を泳がせ、ようやく、「わかった」と言いました。予定よりも大分、かかってしまいましたが、無事に、部屋まで帰ることが、できそうです。
 明日の授業は、寝不足でまともに受けられないでしょうが、それくらいのことでは、折檻部屋に入れられることは、ありません。せいぜい、手洗いの掃除を、させられるくらいでしょう。
 ふたりは身体を、くるりと真後ろへ向けました。
「あれ」
 ふたりの素っ頓狂な声が、重なります。先程まで確かに歩いてきたけもの道が、ないのです。分からなくなってしまったのではなく、あきらかに、なくなっていました。雑草と、木々の生い茂る森が、ただただ、広がっているだけです。
 もう一度、身体を後ろへ向けます。先程までの、進行方向です。そちらには、きちんと道が続いていました。
「おかしいよな、こんなの」
「うん。たしかに、こっちから来たのに」
 さすがの鉄朗も、普段の勇敢さは、発揮することができません。真っ青な顔で、辺りを見回しています。一方の研磨は、意外なことに、冷静でした。
「もし迷ったら、とりあえず山頂をめざすと良いって、本には書いてあったよ」
 研磨は、大変な読書家です。小説も、伝記も、図鑑も、種類を問わず、あらゆる本を読みます。彼にとっては、ただの暇つぶしでしかないそうなのですが。
「山頂を? …でも、」
「こんな、ただの森を歩くのは、危ないと思う」
「確かに。そうだな、歩いてみるか」
 研磨の提案により、ふたりは帰るべきふもとの方向ではなく、山頂を目指すことにしました。けもの道を、再び歩きます。鉄朗は、自分の行動を悔いていましたが、なにも、言えませんでした。研磨はいつも通りの無表情で、なにを考えているのか、分かりません。
 道が、左右にぐねぐね振れるからでしょうか。三十分ほど歩いても、山頂は見えてきません。変わらず、森があるばかりです。ぐううと、また鉄朗のおなかが鳴ります。空腹で、ちょっと痛むくらいでしたが、今のふたりには、歩く以外の選択肢が、ありません。弱音は吐かず、黙々と、脚を動かします。
「…かえりたい」
 しかし、彼らも所詮は、こどもです。大人びてはいても、十年とそこらしか、生きていないのです。大人がなんでも、世話をしてくれた時期を引いてしまえば、もっと短いのです。研磨がついに、脚を止めました。鉄朗が、腕を引いて促しますが、まるで根が生えたように、動きません。
「もう帰りたいよクロ、こわいし、つかれた」
 そうして、堰を切ったように、泣き出してしまいました。研磨がこんな風に、感情を露わにするのは初めてで、さすがの鉄朗も、おろおろしてしまいます。しばらく呆然とし、ようやくハッとなって、そっと柔らかい黒髪を、撫でます。絹糸のようなそれは、ひたすらなだめてやっても、哀しく揺れるばかりです。
「な、泣くなよ研磨、俺だってお腹空いたし、つかれたよ。帰りたいよ…」
 帰りたい。ともう一度繰り返したところで、鉄朗もつられて、泣き出しました。辺りは真っ暗で、どれだけ進めばいいのかも、分かりません。研磨をなかば、無理矢理連れてきてしまったこともあり、不安と、罪悪感でいっぱいだったのです。研磨の落ち着きだけが、心のよりどころだったのでした。その場にしゃがみこむと、更にぽろぽろ、涙があふれてきます。
「ごめん、けんま、ごめん…おれが…」
 ふたりは、気のすむまで泣いていました。時計はそろそろ、空が白んできてもおかしくない時刻を、示していましたが、一向に明るくなる気配は、ありませんでした。泣き疲れて、ふたりはそのまま、木の根元に座り、眠ってしまいました。

「クロ、起きて、」
 鉄朗は、研磨に揺さぶられて、目を覚ましました。起きたら、寮の寝台の上だった、なんて都合のいいことが起こる訳もなく、ふたりは変わらず、山のなかにいました。
 朝になれば、寮の皆が、自分たちのいないことに気付く。そうしたらおそらく、山のほうだって、探してくれるはずだ。それまで、ここでじっとしているのも、ありかもしれない。鉄朗はうっすら、そんな風にも考えていたので、まだ寝ていたい、と思いました。なにより、眠っていれば、全て、忘れられるのですから。
「まだ、寝る」研磨の手を、振り払います。
「もう、何言ってるの、ほら、向こうから食べ物のにおいがするんだって」
 研磨の言葉がひっかかって、鉄朗は、片目をうっすら開けました。
「嘘だ」
 こんなところに、民家があるとは、到底思えませんし、寮で出される質素な朝食のにおいだって、きっと届かないでしょう。
「うそじゃないって、ほら、」
 騙されたつもりで、すんすんと、鼻を鳴らしてみます。そして、目を見開きました。確かに、進行方向のほうから、なにか、食べ物のにおいがします。
「わかった?」
 研磨は、心なしか、明るい表情をしていました。たくさん泣いて、いくらかすっきりしたようです。
「…わかった」
「たぶん、家か、なにかがあるんだよ」
「こんな場所に?」
「それは…分からないけど。とにかく、行ってみよう? 帰り道だって、教えてもらえるかも」
「そうだな」
 少し、心の強くなったのが、分かりました。
 自分たち以外にも、人がいるのが、分かったのです。ただじっとしているよりは、そちらへ、向かってみるべきでしょう。ふたりはうなづきあって、手を繋いで、ふたたび歩きだしました。相変わらず、おなかはぺこぺこでしたが、眠ったおかげで、からだの疲れは、大分とれていました。時計の針は、ふたりが眠ってから、ほとんど動いていませんでしたが、鉄朗も研磨も、それには全く、気が付いていないようでした。

 においの元には、すぐに辿りつきました。白い煉瓦でできた、立派な建物が、目の前に突然あらわれたのです。
 二階建ての建物に、赤い、三角の屋根がかかり、煙突のついた、西洋的な建築です。大きさは、少し小ぶりのお屋敷、くらいでしょうか。特別大きくはありません。そこまで新しくもありません。ですが、ずい分洒落たつくりで、モダンだなんだともてはやされるふたりの学校と比べても、決して、見劣りはしないでしょう。
 大きな窓にかかった、緋色のカーテンは、ぴったりと閉じていますが、その向こうでは、ぼうっとランプの光っているのが、分かります。
「ほら、やっぱり、家だよ」
「こんなへんぴなところにも、住む人はあるんだな」
「うん。灯りもついているし、きっと誰か、起きてるはずだよ」
「そうだな。よかった」ふたりは安心して、笑いあいました。
 建物に近づくと、玄関に、看板のかかっていることに、気付きました。鉄朗がゆっくりと、読み上げます。
「『西洋料理、山猫』?」
「家じゃなくて、レストランなの?」
「そうみたいだ」
 ふたりは、ドアを開けることが、できなくなってしまいました。民家ならば、いざ知らず、こんなこどもは、入ったところで、門前払いされてしまうだろう。そう、思ったからです。
「でも、道をきくくらいなら、」
「そうだな、それくらいなら…」
 ひそひそ話し合っていると、玄関のドアがギイと音をたて、ゆっくり開きました。ふたりは手を取りあい、じりじり後ずさりします。
「どうしよう」
「もう、わけを話すしかない」
 鉄朗が、研磨を、そして自分を励ますよう、繋いだ手を、きゅっと握りました。

「おや、どうなさいました」
 建物から出てきたのは、灰色の髪を斜めに分けた、おじいさんとおじさんの、中間くらいの男のひとでした。真っ黒のタキシードを、ぴしりと着こなしています。レストランの、給仕のひとだろうと、鉄朗は思いました。
 手を繋いだまま、研磨の一歩前に出て、これまでのいきさつを話し、できたら、明るくなるまで休ませてくれないか、と交渉をしました。大人に向かって、堂々と話をする鉄朗を、研磨は物語のなかの勇者みたいだ、と感じました。繋いだ手が、小さく震えているのには、気付かないふりをしました。
 話をひと通り聞くと、給仕は、「それは大変でしたね」とこころよく、ふたりを中へ、招き入れてくれました。
 ドアを入ると、そこにはまず、ロビーがありました。左手が、客席のある広間で、右手には細い廊下が、続いています。給仕が、廊下へ進むので、ふたりもそれに、ついてゆきます。
「疲れたでしょう。おやすみと食事の用意は、これからします。まずは、こちらへどうぞ」給仕はそう言って、ひとつのドアの前で、立ち止まりました。ゆっくり引かれたドアの中は、バスルームでした。
「おふたりとも、随分疲れたことでしょう。一度お湯を浴びた方が、ゆっくりできます」
 そうして、ふたりは有無を言わさず部屋に入れられ、給仕の手により、あっという間に、丸はだかにされてしまいました。衣服を脱がす間、給仕は鉄朗のからだをじろじろと、あらためるように眺めてきて、その目は鉄朗を、ひどく嫌な気分にさせました。また、暗い、山のなかでは全く分かりませんでしたが、盗み見た研磨の白い脚には、擦りむいた傷以外にも、草負けの跡などがつき、随分痛々しげでした。給仕はそれを見とめると、「お湯から出たら、綺麗にしてあげます」と言って、そこをしつこいくらいに、撫でまわすのでした。

 ふたりは、給仕に見守られながら、お湯を浴びました。どうにも、居心地が悪いですが、せっかく良くしてもらっているのに、文句を言う訳には、ゆきません。極めて作業的に、身体を清めると、給仕は、タオルでぐるぐる巻きにした研磨だけをうながして、なかば強引に、部屋を出ていこうとしました。研磨はすっかり、引っ込み思案を発揮してしまい、良いともだめとも言えず、されるがままです。
「あの、」
 焦る鉄朗に、給仕はそっけなく言いました。先程までの優しさは、みじんも感じられません。
「ああ、きみは、そちらのドアの方へ、行きなさい。彼は、ちょっと…薬を、塗らなければいけない」
 そちら、と指差された方を見ると、確かに、入ってきたのとは、別のドアがありました。服を脱がされている時も、身体を拭いているときも、全く気が付きませんでした。そうして、鉄朗が止める間もなく、給仕と研磨は、ドアの向こうへ、消えてしまいました。
 急に、心細くなりました。ですが、とにかく、言われた通りにするしかないのです。ずっと、バスルームでぼんやり待っていても、仕方がないのです。たどりつく先は、きっと同じなのですから。
 からだを拭き、ふたたび制服に袖を通そうとしましたが、どういうわけか、制服が見当たりません。脱いだ時は、用意されていたかごの中に、きちんとたたんで入れました。寮のきまりで、そうするのが癖になっているのです。そもそも、そのかごすらも、見当たりません。他に衣服があるのかとも思いましたが、なにも、ありませんでした。
「どういうことだ?」
 給仕は、ずっとバスルームのなかにいました。出ていくときだって、あんなに大きなかごは、持っていませんでした。よく分からないけれど、仕方がない、タオルを巻いて、それで出て行こう。そう思って、さきほど、タオルを置いた小さな台を振り返ります。しかし、そのタオルも、台も、すっかり、姿を消していました。
 鉄朗は、混乱しました。なにがなんだか、さっぱりわかりません。小さな台とはいえ、氷のように溶けてなくなるなんて、ありえないのです。
「なんだ、なんだこれ」
 丸はだかのまま、先ほどふたりが入ってきた方のドアへ向かい、ノブをまわしました。木製のドアは、大して頑丈そうにも見えないのに、びくともしません。もう半狂乱になって、押したり引いたり、蹴ったりしましたが、てんでだめでした。やはり、給仕の言うとおりに、もう一枚のドアを、開けるしかないのでしょう。
 祈るような気持ちで、もう一枚のドアに、手をかけました。それは、気持ちがいいくらい、すっと開きました。用心して、ドアは半開きのまま、中に入ります。そこは、手洗いの個室に毛が生えたような、小さな部屋でした。しかし、狭いですが、部屋自体は、豪奢な雰囲気です。見るからに質の良い絨毯が敷かれ、柱には、緻密な細工が、施されています。壁はうつくしい光沢をたたえ、天井に吊られた、小ぶりのシャンデリアが、それらを照らしています。部屋の真ん中には、小さなテーブルが置かれ、その奥の壁には、また、ドアがあります。ふと、振り返ると、たった今、バスルームから入ってきたドアが、ひとりでに、バタンと閉じてしまいました。
 テーブルの上には、小さな硝子製の壺とメモが置かれており、そのメモには『壺の中身を、全身にすっかり塗るように』と書かれていました。恐る恐る、壺の中を覗き込みます。それは、乳白色の、とろりとした液体でした。ほのかに、牛乳のような、バタのようなかおりがします。鉄朗は、母親が風呂上りに、顔やからだへ、乳白色の液体を塗っているのを、思い出しました。かおりは、少し違っていたような気もしますが、きっと、様々な種類のものがあるのだ。鉄朗はそう思い、壺の中身を、からだへ塗ってゆきました。
 壺の中身は、ちょうど鉄朗が全身に塗り終わったところで、空になりました。少し、ぺたぺたとしますが、そこまで不便ではありません。母さんは、いつも大変だな、と思いました。しかし、なんだか、おしりの上が、むずむずします。さわってみると、親指の先くらいの出来物が、ありました。それがなんだか、気になってしまい、鉄朗の心配は、すっかり消えていました。
 ぺたぺたする手で、部屋の奥のドアノブに手をかけます。今度もやっぱり、すっと開きました。
 先程と同じように、そこは小さな部屋でした。豪奢な雰囲気も、テーブルがあるのも、向こうにまたドアがあるのも、一緒です。ただ、テーブルの上にあるのは、壺ではなく、香水瓶でした。薄い水色の、硝子で出来たそれには、ブロンズの金具が、ついています。彼は家で、母親の真似をして、何度か吹きかけてみたことがあります。とても、良いにおいがしたのを、覚えています。瓶の横にあるメモには、『香水瓶の中身を、あたまの上からすっかり、吹きかけるように』と書かれていました。鉄朗は指示のとおりに、香水瓶を頭上にかかげ、金具を押しました。
 ぷしゅっと、瓶の中身が、辺りに広がります。お菓子のような、甘ったるいかおりです。あたまが、くらくらしました。学校では、家族などから送ってもらわない限り、お菓子を食べることができません。鉄朗の両親は厳しく、学校に、そういうものを送ることは、ありませんでした。そんな鉄朗にとっては、かおりですらも、貴重なのです。瓶の中身がなくなるまで、金具を何度も何度も、押しました。このにおいをかいでいると、なんだか胸がどきどきして、楽しくなってしまいます。研磨が待っているとか、そんなことはすっかり、頭のどこかへ、いってしまいました。
 甘ったるいかおりで、もうすっかり、めろめろになってしまいました。おしりの上のむずむずも、増しています。また、手をやってみると、それは親指の一本くらいの、出来物いうよりは、尻尾のような形になっていました。きゅっと触ると、ぞくぞく、気持ちがいいです。そうして、なんだか耳も、むずむずするような…。
 あちこちから襲うむずむずに、よろめきつつ、部屋の奥のドアノブに、手をかけます。今度もやっぱり、すっと開きました。次は、どんな指示があるのだろう? と、期待すらしていた、鉄朗でしたが、やってきたのは、食事用のテーブルが並ぶ、ホールの左手にあった、広間でした。
 きょろきょろしていると、どこからともなく、先程の給仕が、やってきました。
「さあ、どうぞ」
 と鉄朗をむかえる笑顔には、素っ気なさなど、微塵も感じられませんでした。めろめろと、むずむずによろめきながら、長いテーブルの、一席につきます。テーブルには、純白のクロスが敷かれ、うつくしく活けられた花々が、それをいろどり、ぴかぴかの食器たちが、料理を待ちわびています。ぐうとお腹が鳴ったので、そっと手でおさえて、びっくりしました。いつの間にか、鉄朗は、タキシードを着ていたのです。それは、仕立て屋で誂えたように、彼のからだに、ぴったりでした。

「よく、いらっしゃいましたね」
 突然、声をかけられ、驚いて振りむくと、鉄朗のとなりの席には、白髪を撫でつけた老人が、座っていました。口ぶりからして、このレストランの支配人か、なにかのように思われました。なぜ、お店の人間が、客席にいるのだろう。ぼんやりとした頭で、考えました。
 しかし、そこにいたのは、支配人だけでは、ありません。鉄朗がついたテーブルは、いつの間にか、人でいっぱいになっていました。大抵が、年配者ですが、ときおり、若い男性の姿も、みえます。ひとつの空席も、ないようです。ここでようやく、鉄朗は、研磨のことを、思いだしました。香水のめろめろと、からだのむずむずで、あたまがうまく、まわらないのです。
「あの、研磨…ぼくと一緒にきた、友達は」
「ああ、あの子なら、今、支度をしていますよ。なにせ、今日の主役ですから、ずい分念入りにしなければ、ならないのです」
 支配人は、にこりと笑いました。鉄朗も、曖昧な笑みで、返しました。
 主役、と言われた割には、研磨の座る席は、どこにも無いようでした。ほかのテーブルも見回してみますが、クロスは敷かれておらず、当然、食器もありません。
「ぼくの友達の席が、ないようなのですが」
 恐る恐る、支配人に話しかけます。支配人は、またにこりと笑って、答えてくれました。
「あの子の席は、ここですよ」
 そうして指差したのは、鉄朗と支配人の目の前、つまり、テーブルの上でした。花もなく、ぽっかりと、空間があいています。大人にしか分からない、ジョークかなにかかしら。鉄朗には、そう考えることしか、できませんでした。

 研磨のいないまま、食事が始まりました。それ以上、なにか尋ねることは、できませんでした。しかし、空腹には、勝てません。前菜、スープ、次々やってくるそれを、ひたすら口に、運びます。魚料理は、鉄朗の好物である秋刀魚をつかった、ポワレでした。学校で出される食事とは、見た目からして、全く違っています。味だって、比べたら失礼なくらいの、まさに月とすっぽん、なのでしょう。料理が出るたび、隣の支配人は鉄朗に、感想を求めました。しかし、あたまがくらくらした今、料理の味なんてものは、皆目分かりません。かおりも、さきほどの香水のおかげで、ほとんど、かき消されてしまいます。
 かくして、ポワレの皿が下げられ、老人が、嬉しそうに声を張りあげました。
「さあ、皆さん、今日のメインは、とっておきですよ」

 大の大人が、ふたりがかりで抱えなければならないほどの、大きな楕円の銀皿が、運ばれてきました。後ろには、シェフも、ひかえています。大きな大きな銀皿は、さきほど老人が示した、『主役』の席に、そっと置かれました。皿の上の料理をみて、鉄朗は、ギャッと悲鳴を上げました。
 皿の上には、丸はだかの研磨が、横たわっていたのです。静かにまぶたを閉じて、身うごきの一つもしません。殺されてしまったのかと、鉄朗は恐怖にかられましたが、よく見ると、やせぎすの身体がちいさく上下に動き、呼吸をしているのが、わかりました。
「本日の肉料理は、子ねこのフルーツソースです」
 ほうぼうから、小さな歓声が起こりました。こんなにきれいな子ねこは初めてだとか、痩せだけどそれがいいとか、そんな、無責任なことばばかりが飛び交い、鉄朗はいやな気持になりました。研磨は、子ねこではありません。食べるための肉でも、もちろんありません。
 ざわめきを咳払いで制し、シェフが淡々と、説明をしてゆきます。
 この子ねこは捕れたてで、すこぶる新鮮、まだ生きている、ということ。眠り薬で眠らせているが、その肉を食べても、われわれに害はない、ということ。外側も、内側も、念入りに洗浄し、塩で軽く、下味をつけ、はらわたには、サイコロ状に切った果実を、たっぷり詰めたこと。食材の味を楽しんでほしいので、生で食べるのをすすめるが、希望があれば、その場で火を通すこと。など、なんでもないように、並べる話を、テーブルについた客の全員が、熱心に聞いていました。うなづきながら、メモを取るものなどもいます。
 もちろん、鉄朗の耳には、ほとんど入ってきません。再び、皿の上を見やります。付け合わせの野菜でまわりを飾られた研磨は、胸の上で、ちいさな手を組み、ただただすやすやと、眠っています。ただ、ぽこぽこと、いびつに膨らんだお腹だけが、異常でした。そこにはシェフが言ったように、賽の目に切られた様々の果実が、ぎっしりと、詰まっているのでしょう。
 ああ、俺は、取り返しのつかないことをしてしまった。あたまがめろめろで、歩くのもおぼつかない今、人ひとりをかついで、ここから逃げ出すなんて、とうてい不可能です。鉄朗は、心のなかで、謝りました。研磨と、研磨の両親、研磨のクラスメイトに、謝りました。なんど謝っても、心は晴れません。晴れる訳が、ありません。研磨はこれから食べられて、ひとびとの胃袋の中へ、消えてしまうのですから。ああ、せめて、食べられるのが、研磨ではなく、自分だったら、よかったのに。
「どうして、僕は料理されなかったのですか」
 そっと、鉄朗は隣の支配人に、たずねました。彼は、またにこりと笑います。
「ここでは、子ねこしか、食べないのです」
「僕は、子ねこじゃないのですか?」
 鉄朗はまた、たずねました。
「何を言っているんだ。きみはもう、大人のねこだろう?」
 支配人は、周りの二、三人の客と、顔を見合わせ、くすくす笑いました。なにも分かっていない様子の鉄朗に、支配人は
「きみが夜中に、なにをしているのか、知っているよ」
 と、そっと耳打ちしました。その意味を、すぐに理解した鉄朗は、顔を真っ赤にして、俯きました。“それ”が羞ずべきことだと分かっていても、鉄朗は、やめられないのです。また、おしりの上がむずむずしました。

「さあ、どこから食べたいか、言いなさい。君が、連れてきた子ねこだ。一番にリクエストする権利が、あるんだよ」
 支配人は、鉄朗の肩をたたき、研磨の乗った皿を、指しました。皿の向こうにいるシェフは、自信満々といった顔で、両手を組んでいます。手元には、調理をするための、するどいナイフがあります。研磨は、変わらず、眠っています。
 ああ、かわいそうな研磨。初めて会った時は、どうしようかと思うくらい、暗かった。一年間、こんな陰気なやつと過ごすのは、うんざりだと思った。だけど、じっくり心を開かせて、そうしたら、ちゃんと笑うようになった。まだまだ、無表情がおおいけれど、ときどき見せる、怒った顔、笑った顔の、かわいい研磨。俺は、研磨がそういう、人間らしい顔をするのが、大好きだった。だけど、それはもう、見られない。動かない。俺の、つまらない意地なんかに、付き合ったばかりに、羞ずかしい、つらい思いをして、塩を塗られて、果実を詰め込まれて、切り刻まれ、食べられるんだ。しかも、親友の俺に、初めに食べろと言うなんて!
 シェフのナイフが、突きたてられたそこから、真っ赤な血が噴き出して、そうしたら研磨は、ただの食べもの、肉になってしまう。新鮮な血液は、果実と絡みあい、最高のソースに変わる。それを、まだ生きている新鮮な肉に、垂らすのだ。ああ…どんなにおいしいだろう。
 ―いや、おかしいだろう。おいしいだなんて、そんなの、どうかしている。何故そんな風に、思ったのだ。
 気付けば、鉄朗の口からは、たらたらとよだれが、垂れていました。はっとして、膝の上のナプキンを見ると、そこはずい分と、色を変えていました。
「さあ、どこが良いかな?」
 老人が再び、うながします。鉄朗は必死に、首を振ります。ですが、もう目の前の研磨が、とびきりのごちそうにしか、見えなくなっているのも、事実です。先ほどまで、ぼんやりとしていた嗅覚は、研磨のにおいにだけ、敏感に反応しているようで、それは、今までおいしそうだと感じた、どんな食べもののにおいよりも、食欲を、そそりました。
「ああ、初めてだから、どこが美味しいのだか、分からないのかもしれないね。きみ、適当にとってあげて」
「はい。かしこまりました」
 シェフは、老人の指示を受けて、ナイフを手に取りました。鏡のように磨かれ、するどくとがった、いかにもよくきれます、と言いたげなナイフです。
「ああ、あ、やだ、やめてください、殺さないで、食べたくない、」
 シェフの手を、振り払おうとする鉄朗を、老人がおさえつけます。めろめろで、すっかりひ弱になった彼をおさえるのは、赤子であろうとも、簡単にできてしまうことでした。また、言葉とは裏腹に、鉄朗のよだれは、止まりません。次から次へとあふれて、ナプキンを汚してゆきます。きっと、子ねこ――研磨を、自分とおなじ人間を、口にするまで、止まらないのです。そんな、けだものの自分に、涙が出ました。
 ついに、ぷつ。とナイフの先が、研磨の腹に突き刺さり、するどい刃の通り道をたどって、真っ赤な血が、噴き出しました。鉄朗は、ぼんやりと、それを眺めていました。もう、叫ぶことも、忘れてしまったのです。
 四方八方へ飛び散る血液で、シェフの白い衣服は、どんどん赤く、染まってゆきます。そんなことは、全く気にならない様子で、さく、さく、と小気味よく、ナイフを進めてゆき、八センチ四方くらいの塊が、鉄朗に供されました。濃いピンク色の肉に、血液と、ところどころつぶれた果実とが絡んだソースが、かかっています。かかっているというよりは、浸っているというほうが、正しい表現かもしれません。
「おなかが、一番食べやすいのです」
 シェフは鉄朗に、優しく言いました。
「あ…」
 今度は皿の上に、ぽたりとよだれが落ちました。ナイフが入れられたことにより、一層濃くなったかおりが、鉄朗の嗅覚、視覚を、刺激します。おしりの上も、また、むずむずします。
 ふっと皿の上の研磨を見ると、やはり、お腹の部分には、ぽっかり穴が開いていて、ちらちらと、果実のかけらが、のぞいていました。まだ、命はあるようで、身体は上下しています。しかし、赤い血が、水のようにどくどく溢れているため、それも、時間の問題でしょう。
「さあ、新鮮なうちに、お食べなさい」
 支配人に、ナイフとフォークを握らされ、いつの間にか、背後に立っていた給仕に、腕を掴まれました。テーブルにいる全員が、鉄朗をじっと、見守っています。
「いいですか、こうして、左端から食べていくのです」
 給仕に両腕を操られ、八センチ四方に切り取られた研磨の肉は、更に幅1.5センチくらいの、食べやすい大きさに、切り分けられました。そうなるともう、鉄朗にとっても、ただの肉でしか、ありませんでした。
 躊躇なく口に入れ、一度噛んでみて、びっくりしました。とてもやわらかく、なめらか。あぶらののりかたも丁度よく、うすくついた塩味と、フルーツソースとの相性も、最高です。子ねこの肉は、想像よりずっとずっと、素晴らしいものでした。こんなにおいしい肉を、鉄朗は、生まれて初めて食べました。これより素晴らしいたべものが、果たしてこの世に、あるのでしょうか。
「おいしい…」
 口の周りを、真っ赤にそめ上げた鉄朗が言うと、歓声が、飛び交いました。支配人も、シェフも、給仕も、すっかり安心して、うなづいています。支配人の合図により、シェフが、皿の上の研磨を忙しなく、切り分けましたが、もう、鉄朗は止めませんでした。
「おいしい、すごく、おいしいです」
「それは、なによりです」

 鉄朗は、図々しくもおかわりをし、そして鉄朗以外の客も、子ねこをむしゃむしゃ食べますから、研磨はどんどん小さくなって、ついにはどす黒い赤の池のなかに、白い骨と、まったく手のつけられていない頭しか、残りませんでした。まぶたを閉じ、穏やかな表情をしています。一見、眠っているようでもありますが、もう、生きてはいません。当たり前です。
 骨はスープのダシにつかい、頭ははく製にして、レストランの装飾に、なるそうです。そのはく製をつくる職人も、テーブルのなかの、ひとりでした。「こんなにおいしい肉の、子ねこです。普段よりもずっと、一生懸命、やらなければ」と、彼は意気ごんでいました。よく見れば、広間の壁面には、研磨や、鉄朗と同じ年頃の少年の首が、いくつも掲げられています。かれらは皆、穏やかな顔をしています。鉄朗の家のリビングにも、鹿の首が飾られています。それと、同じなのでしょう。首のなかには、見おぼえがあるような顔も、ありました。おそらく皆、ふたりと同じ学校の、生徒だったのかもしれません。彼らはずっと、子ねこのままです。鉄朗も、少し“遅れていれば”、こうなっていたのです。
 もう、食べるところは、なくなってしまいましたが、鉄朗のおなか、というより舌は、満たされては、いませんでした。彼の舌はもう、子ねこの肉の味しか分からない、ばかになってしまったのです。それくらい、子ねこの肉は、刺激的なのです。行儀が悪いのは承知で、とろんとした顔で、椅子から立ち上がり、研磨のいない銀皿を、のぞき込みます。どす黒い血液を、一口でも多く、舐め取ろうと思ったのです。
 そうして、紅い水面にうつった自分の姿に、あっと驚きました。そこにうつったのは、見慣れた自分ではなく、毛がぼさぼさに生えた、山猫だったのです。テーブルについた手のひらに目をやっても、それは肌色の、人間の手では、ありませんでした。茶色に黒のぶちがはいった、長い毛で覆われた、まぎれもない、猫の手です。
 どういうことか、と問おうとして出した声は、にゃあという鳴き声となって、消えました。
 気付けば、支配人も、シェフも、給仕も、他の客も、もう見当たりません。立派な建物も、子ねこのはく製も、ありません。みんなみんな、消えてしまいました。草むらのなかで、何匹かの山猫が、なにかの骨のまわりで、ただにゃあにゃあと、鳴いているばかりでした。



「クロ、起きて、」
 研磨が身体を揺すると、鉄朗はかっと目を開けました。あまりに力強く、ひらくものですから、研磨は笑ってしまいます。一方の鉄朗は、怯えたように辺りを見回し、自分の手のひらを見、研磨の顔を見、そんなことを、なんどか繰り返し、大きなため息を吐きました。
「ああ、夢かあ」
 そこは、寮の、ふたりの部屋の、鉄朗の寝台の上でした。部屋は明るく照らされていますが、それはランプではなく、太陽の光です。引き締まった空気と、小鳥のさえずりが、朝であることを、知らせています。
「夢かあ、じゃないよ。おれ、びっくりしたんだから」
 研磨も、少し、くたびれた顔をしていますが、ちゃんと生きています。五体も、満足です。
 研磨の話によれば、鉄朗は「山へ行く」と研磨の制止も聞かずに、部屋の窓から飛び出し、地面に足をついたところでよろめいて転び、落ちていた石に頭をぶつけて、失神してしまったのだそうです。そうして、夢の世界に行っている間に、次の朝を迎えていました。
「覚えてるような、覚えてないような…」
 ぼんやりした鉄朗に、研磨は目をこすりながら続けます。
「隣の部屋の子に手伝ってもらって、寝台に寝かせてからも、急に叫んだり、うなされたり、すっごくうるさくて、おれは全然眠れなかったんだよ。寮母さんや、風紀委員のひとに知れないか、すごく不安だった!」
「いやあ、ごめん。ちょっと、大冒険してたんだよ、研磨と」
「…おれと?」
 研磨のいら立ちは、鉄朗のひとことで、すっかり消えてしまいました。やはり研磨は、鉄朗のことが、大好きなのです。きっと、夢とはいえ、鉄朗といられたのが、嬉しかったのでしょう。
「ああ、お前と」
「どんなの?」
 鉄朗は、先ほどまでの不思議な冒険を思い返し、口を開きかけて、やめました。さすがの研磨も、自分が骨になってしまう話は、楽しく聞けないでしょうから。
「ひみつ」
 鉄朗は、研磨のやわい髪を、くしゃくしゃ撫でて、誤魔化しました。ひとの気も知らず、研磨は小さな唇を、とがらせます。鉄朗がそれを、おいしそうだなあと思っているのは、今の研磨には、まだ分からないことです。


15/06/15
15/06/22


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三島由紀夫の「仮面の告白」のなかで、男の主人公が同性の同級生を食べる(カニバ的な意味で)という妄想をするシーンがあります。ごく短いシーンなのですが、とてつもなく綺麗で、物凄い衝撃を受けました。それを読んだ時から、いつかこれにホモを更に上乗せした感じのものを書きたいッッ!とずっと思っていました。ついに念願叶った訳ですが、ホモよりも血なまぐささが上乗せされる結果となりました。どうも、予定通りにいきません。
また、『ヒトを食べる』、『音駒=ネコ』という二つのキーワードから注文の多い料理店を持ってきて、結果なんだか引用祭りな話になりました。が、気に入ってはいます。


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