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- ナノ -
07


それから程なくして私たちは、江戸の外れにある綱道さんの診療所へと辿り着く。


「……ここが、綱道さんの診療所ですか。長らく、人の出入りはない様子ですが。」


庭には枯れた雑草が生い茂っており、まるで廃墟のような佇まいとなってしまっている。


『……ごめんね、平助。付き合わせちゃって。』

「気にすんなって。羅刹に関することを調べるんなら、オレも無関係ってわけじゃねえしな。それに……」


平助は声を落とした後、鋭い眼差しを山南さんへと向けた。
……やはり平助も、山南さんのことを警戒しているらしい。

人体図が描かれた蘭学書にギヤマンの瓶、私にも正体がわからない雑草や丸薬……。
綱道さんの部屋には、様々な品が雑然と並べられていた。


「……何から調べりゃいいんだ?前に来た時も、この家ん中は一通り調べてみたけど……今回は、目的が違うしな。」

「一通り、って……」

「ん?どうした?」

「……平助君、もしかしてその時、私の部屋も入った?」

「い、いや、入ってねえよ!つうかあの時は、おまえの部屋の場所なんて知らなかったし!」


なんだその慌て様は。

私はニヤリと笑みを浮かべて平助を横目で見た。


『え〜?本当に〜?』

「本当だって!……オレだって、女の部屋に勝手に入ったりしねえよ。」

「三人共、ふざけている場合ではありませんよ。もし、羅刹に関する資料を見つけたら、そこに置いておいてください。私が目を通します。」

「おう、わかった!」

『はーい。』


私たちは手分けして、羅刹や変若水に関する資料を探し出すことにした。
静まり返った部屋の中に、紙をめくる音だけがこだまする。


「父様……」


隣にいた千鶴がそう呟くのが聞こえて私は目を向けた。


『千鶴、どうしたの?』

「あっ、千華ちゃん……ごめんなさい、何でもないの。それより、羅刹か変若水の手がかりは見つかった?」

『いや、それが全然。何せここ、本が多いからねえ。』

「……そっか、そうだよね。ところで、山南さんは……?」

「……あっちだ。」


私の隣にいた平助が声をひそめて、山南さんの方へと顎をしゃくる。
平助の視線の先には、無言のまま書類の内容を確かめる山南さんの姿があった。


『山南さん、何か手がかりになりそうな物を見つけたのかしら。』

「……わからねえ。そもそもあの人が何の目的で、ここに来るって言い出したのかもわからねえしな。」

「何の目的、って……屯所で言ってたように、羅刹や変若水に関する資料を探す為じゃないの?」

「……表向きはな。だけど、あの人がどこまで本当のことを言ってるかはわからねえ。……山南さんは、同じように羅刹になったぐらいで本音を明かしてくれるような人じゃねえし。」

『…………』


言いようもない不安に駆られ、私は思わず平助の着物の裾をつかむ。


「千華……?」


平助は少し驚いた様子で、私を見つめてくる。
やがて、私の様子から内心の不安を読み取ってくれたのかーー。


「……平気だよ。何があっても、おまえのことはオレが守ってやるからさ。」

『……うん。』


平助の言葉で、胸の内の不安が少しだけ軽くなる。

どうしてだろう。
こうして彼と一緒にいると、ほっとしたような気持ちになるのだ。
この気持ちは、もしかすると……。

そう思った時だった。
不意に戸の向こうから、足音が聞こえてくる。


「何だ、誰の足音だ?ーーまさか、綱道さんか?」

「物盗りかもしれません。藤堂君、汐見君、戦いの支度を。」

「おう、わかってる!」

『ええ!』


千鶴を背に庇った私と平助と山南さんは腰の刀に手をかけ、足音の主が部屋に入ってくるその時を待つ。
やがて入り口の戸が、音を立てて開いた。
そして、中に入ってきたのはーー。


「あら?おかしいわね。皆がここに来てるって、お菊は言ってたんだけど……もしかして、見間違いだったのかしら?それとも入れ違い?」


この声は……!


『千姫?どうしてここにーー』

「あっ、千華ちゃん!千鶴ちゃん!やっぱりここにいたのね。そっちは確か、藤堂さんと……山南さんだったかしら。」

「……ああ。あの時は世話になったな。」

「君は確か、鬼の姫と名乗っていた少女でしたか。ここに、一体何の用です?」

「あなた方に伝えなきゃいけないことがあるのよ。だけど、その前に……千華ちゃん、あの後どうだった?風間に変なちょっかい出されてない?」

『あっ、うん。江戸に来てからは全然。』

「そう、それなら良かったわ。意外と物分かりがいいのね、あいつ。」

『それで、今日はどうしてここに?』

「……あっ、そうそう。実はね、お菊に調べてもらったのよ。西洋から渡ってきた、あの忌まわしい薬ーー変若水や羅刹のことをね。」


千姫がそう切り出した瞬間、場の雰囲気が一変する。


「……なかなか、興味深いお話を伺えそうですね。聞かせてもらいましょう。あの薬は、一体何なのです?」

「変若水は元々、私たちこの国の鬼とは似て非なる生き物ーー遠くフランスの地より渡来した、西洋の鬼の生き血と言われているわ。」

「ってことは異国にも、あんたらと同じ鬼の一族がいるってことか?」

「厳密には、同じじゃないけどね。負った傷がすぐ治ったり、人をしのぐ体力や素早さを持っているのは日本の鬼と同じだけど……私たち鬼は、日の光を忌み嫌ったり、人の血を求めたりしないもの。」


確かに。


「そして西洋の鬼は、自分の血を人間に飲ませることで仲間を増やすことができるみたいね。」

「つまり、羅刹が日の光に弱くて、血に狂ったりするのは、変若水が失敗作だったからじゃなく……西洋の鬼が元々、そういう生き物だからなのか?」

「そういうことになるわ。」

『…………』


まるでおとぎ話みたいで、うつつの出来事だと信じきることができずにいる。
でも……、私は何度も羅刹となった人を目にしているのだ。
血に飢えて狂気を帯びた、あの赤い瞳をーー。


「……なるほど、実に興味深い。つまり、我々羅刹となった者の血を人間に飲ませれば、その者を羅刹へと変えられるというわけですか。ある意味、あなた方鬼の一族よりも、優れた生き物といえるかもしれませんね。」

「馬鹿なことを言わないで。人間の身体を無理矢理、私たち鬼と同等の生き物の身体へと変えてしまっているのにーー心だけ、人のままでいられるはずがないでしょう?……身の丈に合わない力の代償は、高くつくわよ。」

「吸血衝動のことでしょう?それは無論、存じていますよ。」

「それだけじゃないわ。あなた方もよく知っている通り、羅刹と化した者は、鬼とほぼ同等の力、そして治癒力を得る……だけどその土台は、あくまでも人間の身体のままなのよ。」

「……何が言いたいのです?回りくどい物言いは、感心しませんね。」

「生来の鬼と違い、人の脆弱な身体では、鬼が持つ強大な力に耐えられない。その代償は、あなた方自身の寿命で払うことになる。羅刹として力を振るうたび、あるいは傷を治癒するたびーーあなた方の命はどんどん削られていくわ。」

「え……?」


私は思わず千鶴と顔を見合わせた。


「命を?ってことは、まさか……」


頭の中で、耳鳴りがする。
寿命を削ってしまうということは、まさかーー。


『じゃあ、平助や山南さんは……!?』


その問いに答えるのをためらってか、千姫は小さく声を呑んだ。
やがて……。


「……幕府が行った実験では、力を使い切った羅刹は一人の例外もなく、灰のように崩れて消えてしまったそうよ。」

『…………』


千姫の言葉が、虚ろになった頭の中に響き渡った。

ーー灰のようになって、崩れてしまう。
誰が?
ーー平助が。山南さんが。


「そんな……」


冷えた身体が、小刻みに震えた。


「何だよそれ……!オレも山南さんも、もうじき死んじまうってことか……!?しかも、ただ死ぬんじゃなく、灰になって消えちまうって……」

「……信じられないのも無理はないけど、忠告はしておこうと思ったの。少しでも長く生きたいなら、羅刹の力なんて使うべきじゃないわ。」

「……ご忠告、痛み入りますよ。」


山南さんは平静を装っているそぶりではあったけれどーー。
おそらく、信じてはいないのだろう。
瞳には疑念が満ちている。
やがて千姫は、私の方に向き直って告げた。


「このことについては、お菊に頼んでもう少し詳しく調べてもらうつもりだけど……皆は今、どこを拠点にしてるの?」

『今は、とある旗本の方の屋敷を屯所として借りてるの。新選組の屯所って聞けば、すぐにわかると思うけど……』

「そう、それじゃ何かわかったら、そっちに知らせるわね。あなたも千鶴ちゃんも、もし私に何か用事があれば松本先生を通じて知らせてちょうだい。」

「松本先生?お千ちゃん、先生と知り合いなの?」

「綱道さんの行方を捜している時に、知り合ったのよ。幕府や諸藩の高い位についている人は、私たちの存在を知ってるって言ったでしょ?松本先生は将軍公の御典医を務めていらっしゃった方だし、知り合う伝手はいくらでもあるわ。」

「そうなの……」


少し、意外な気はしたけど……。
頼れる人がこうして近くにいてくれるというのは、とても心強く思えた。


「……それじゃ、私はこれで。また会いましょうね、千華ちゃん、千鶴ちゃん。」


千姫はそう言い残し、私たちの前から姿を消した。
後に残された山南さんや平助の顔は、青ざめている。
……それほど、千姫の話に衝撃を受けたに違いない。


「決め手となる資料を見つけることはできませんでしたが、ある意味、価値のある情報を得ることができましたね……」


底冷えするような声音で言った後、山南さんも私たちに背を向ける。


「あの、山南さん。どちらに……?」

「……先に帰らせてもらいます。これ以上得られる物はなさそうですし、少し、考えをまとめたいですからね。」


山南さんはそう言い置いて、建物を出て行った。


「千華ちゃん、私も先に行くね。ちょっと山南さんのことが気になるし……」

『ええ。気を付けてね。』


千鶴も山南さんの後を追うように出て行った。
後には、私と平助だけが残される。
……先程の千姫の言葉が、耳の奥から離れない。


───「羅刹として力を振るうたび、あるいは傷を治癒するたびーーあなた方の命はどんどん削られていくわ。」


羅刹の力を振るえば振るうほど、死に近づいてしまう……。
平助はあの言葉を、どんな思いで受け止めたのだろう。
彼の顔を見るのが怖くて、俯いていると……。
不意に、平助の手が肩へと載せられた。


「……そんな顔すんなって。知りたくねえこともあったけど……色々わかったし、一歩前進ってとこだろ。」

『でも、平助……怖くないの?さっきの話が本当なら、山南さんや平助は、近いうちにーー』

「そりゃまあ……。怖くねえって言えば嘘になるけど。でも、この力がなければオレ、とっくに死んじまってた人間だし。それにさ、力を使いすぎなければ、もう少し生きられるってことだろ?ならこの先、力を使わなきゃいいだけの話じゃねえか。な?」

『…………』


多分、平助自身も、この言葉を心の底から信じてはいないと思う。
この先、戦が激しくなれば、彼は羅刹の力を使うしかないのだから。
そして近い将来、灰となって崩れ去ることに……。


「……おい、千華?元気出せって、ほら。」


平助……。


『……平助、無理しないでよ。』

「オレ、別に無理なんて……」

『してるじゃない。今の平助の笑顔を見てるのは、辛いの……』


私は彼の瞳を覗き込む。
ーー大きな双眸の奥には、戸惑いと不安が揺れていた。
不安にならないはずがない。
突然訪れる死よりも、事前にわかっている方がずっと怖いはずだもの……。


『私には何もできないけど……、それでも辛いときは辛いって正直に言って。私の前で、無理だけはしないでほしいの。……お願い。』

「千華…………」


平助は小さく唇を噛んだ後、再び笑顔になってーー。


「……ありがとな、そんな風に言ってくれて。でも、無理すんなって頼みだけは聞けねえよ。オレ、見栄っぱりだからさ、無理でも強がりでも、やっぱ惚ーー……じゃなくて、おまえの前だとどうしても格好つけたくなるんだ。」

『平助……』


こんな時まで強がって、弱音を口にしようとしないなんて。
でも今の笑顔は、さっきまで垣間見えていた湿った笑顔とは違っていて……。
少しだけ雨がやんだような雰囲気を感じさせてくれる。


『私の前でぐらい、弱いところを見せてほしいけど……平助は、そうしたくないのよね?』

「そういうこと。それから……おまえ、何もできねえって言ってたけど、そんなことねえから。オレは、おまえがこうやって傍にいてくれるだけで充分うれしいし。本当に、ありがとな。」


平助の明るい表情に、胸が痛くなった。
きっと彼は、どんな辛い目に遭ってもこうして私に心配かけまいと笑っていてくれるのかもしれない。
千鶴の家の外では、二月ならではの冷たい夜風が吹き付けているようだった。


「おまえ、寒くねえか?」

『ええ、大丈夫よ。でも、そろそろ冬も終わりかな。もうすぐ春ね。』

「……春か。去年の今頃って、何してたっけ。」

『確か、あの頃は……』

「あ、思い出した。伊東さんたちと一緒に離隊したのが、ちょうど桜の時期だったっけ。……たった一年前の話なんだよな。」


平助は懐かしそうに目を細めて、視線を彷徨わせた。
平助が新選組を出て行くことになったあの日ーー。
彼と二度と会えなくなり、言葉すら交わせなくなったことが悲しくてならなかった。
しかも、それだけじゃなく……。
彼は、油小路で危うく命を落としかけ、羅刹となって蘇った。

……来年の春を、平助と一緒に向かえることはできるのだろうか。

脳裏をよぎった不吉な言葉を、私は慌てて振り払う。


「どうした?」

『えっ……何が?』

「いや、何か、落ち込んだ顔してたからさ。」

『それは…………ううん、何でもないの。今日は色々あったから、考えがまとまらなくて。』

「別に、おまえが悩むことじゃねえんだぞ。オレたちが羅刹になったのは、おまえのせいじゃねえし。」


平助は、こう言ってくれるけど……。
なんか、やりきれない気持ちが胸を擽る。


「……さて、もうすぐ夜が明けちまうし、そろそろ屯所に戻るか。」

『……ええ、そうね。』


平助に言われ、私は帰り支度を始めることにした。


***


『それじゃ、行こうか。平助、忘れ物ない?』

「…………」

『平助?』

「いや……あのさ、今ちょっと考えたんだけど。さっき、千姫が言ってたろ?羅刹は、力を使い尽くせば灰になるって。」

『ええ、確かに言ってたけど……』

「山南さんが羅刹になってから、もう三年は経つはずだよな?それなのに、あの人の身体に異常が出てねえのはおかしいと思わねえか?」

『……そういえば……』


羅刹になってから山南さんは、何度も戦いに出ているはずだ。
風間たちと切り結んだこともある。
それなのに灰になってもいないし、近頃は吸血衝動に苦しんでいる様子もない。


『……千姫が言ってたことが、間違ってたってこと?』

「それは、どうかわからねえけど。実際、吸血衝動の方は起きてーーう、ぐはっ……!」


平助は不意に膝を折り、うめくような声を上げる。


『ーー平助、どうしたの!?』

「く、あ……うっ……!」


彼の額には脂汗がにじみ、苦しげに喉を押さえている。
この様子に見覚えがある。
おそらく、これはーー。


「……う、うわさをすれば……なんとかって奴……か……」


私は迷うことなく、脇差の刃を手首へと滑らせた。
刻んだ傷からは、温かい血潮が溢れ出す。


『平助、私の血を……!』


私は、血まみれとなった手を平助へと差し出した。
膝をついていた平助は、申し訳なさそうに私の手を取った。
冷えた唇が、私の手首に静かに触れる。


『……っ……』

「……悪い、痛むか?」

『ううん、平気……だから、いくらでも飲んで。平助が元気になるまで……』

「千華…………」


やがて彼の舌が、傷口をなぞるように動いた。
手首にできた傷口が、痺れるように痛むけれど……。
これで平助が少しでも楽になるなら、いくらでも飲んでほしい。
平助の喉が鳴り、飲み損ねた血の残りが、唇の端から滑り落ちたーー。

程なくして、ぼやけていた平助の瞳に光が戻ってくる。


「……ごめんな、千華。」

『大丈夫よ、気にしないで。傷なら、すぐ治るし……平助の苦しみが少しでも和らぐなら、私、平気だから。』

「…………そんな言い方するなよ。すぐ治ったって、痛いもんは痛いだろ。」


平助は悔しそうに言ったけど、それでも……。
これは、私が平助の為にしてあげられる数少ないことの一つだから。
……それを口にすると、きっと彼をますます傷つけてしまうだろうけど。


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