45
五月十日の夜も更けた頃。
土方さんは、不意に小さな呟きを洩らした。
「仕掛けてくるなら、明日だろうな。」
『……ええ。』
新政府軍はすぐそこまで迫っている。
明日には、箱館が戦場となるだろう。
そして……。
この五稜郭こそ、最後の砦になる。
「……本当に、いいんだな?」
念を押すように、土方さんは言った。
『私は、土方さんの傍にいるわ。』
この戦いがどんな結末を迎えようと、終わりが来る瞬間まで土方さんの傍にいたい。
やがて彼は、諦めたように息を漏らす。
「女に言わせてばかりじゃ、格好がつかねえな。」
『えっ……?』
切れ長の瞳が、瞬きもせずに私を見つめてくる。
けれど唇を引き結んだまま、ためらうかのように沈黙していた。
『えっと……』
一体、どうしたというのだろう。
落ちた沈黙が息苦しくなる頃、私は彼に問いかけようとする。
でも……。
私が言葉を発するよりも早く、土方さんは静かに声を吐き出した。
「俺が誰より守りたいのおまえだ。俺は……、おまえに惚れてるんだろう。」
問いかけようと唇を薄く開いたまま、私は完全に言葉を失って立ち尽くす。
私は……。
私はずっと、土方さんをお慕いしていた。
彼も私に好意を持ってくれていると、近頃は信じられるようになっていた。
でも……。
明確なその言葉を告げられた瞬間、心臓が止まってしまうかと思った。
何より望んだ一言のはずなのに、彼の口からその言葉が出たことをすぐには信じられなくて。
私に、惚れているだなんて……。
「新選組を率いるって務めを果たした後なら、死んでも構わねえと思ってた。」
……まだ、言葉が出ない。
彼が抱え続けてきた思いは、重くて苦しいものだ。
私の不安を拭おうとしてか、土方さんは殊更に優しい声で言う。
「死にてえと思ってるわけじゃねえ。ただ、生きる目的がなくなっちまうだけだ。」
本音を、決して他人に明かさない土方さんが……。
いつもなら他人に踏み込ませないほど、心の奥まで見せてくれている。
私に、心を開いてくれている。
それが、うれしくて……。
同時に、とても切なかった。
「道標としての役割さえ果たし終えりゃ、俺が生き死にに頓着する理由も消えちまうんだ。」
それは、かつての局長だった芹沢さん、そして近藤さん……。
多くの隊士たちから、受け継いできたものだ。
その重荷を肩から下ろした瞬間、彼を定めるものが消えてしまう。
歩んできた道は、そこで途切れて……。
新しいものを見つけられなければ、彼の旅は終わってしまうのだ。
「……だが、生きたいと思う理由ができた。」
私の身体から、力が抜ける。
『……良かった……』
苦しい思いを抱え続けてきた彼が、今は、生きたいと思ってくれている。
そのことが、何よりうれしく感じられた。
『……良かった、本当に……』
「おまえが傍にいてくれるから……、まだ生き続けてえと思えるんだ。」
『私、が……』
土方さんが生きたいと思ってくれたのは、私のことを想ってくれてるから……?
新選組が終わりを迎えた後にも、私は、彼が生き続けるだけの理由になれるのだろうか。
新選組に代わるほどのものを、私は、土方さんに与えることができているだろうか。
『私……、私……』
我慢できなくて、涙がこぼれた。
彼の一言がうれしくて、ずっと求めていた言葉そのもので……。
泣き崩れそうになる私を、土方さんは静かに抱き寄せる。
密やかな吐息が唇をかすめた直後、熱く柔らかな口付けが落とされた。
閉じ込められた腕が愛しくて、私は自分から彼の胸元に身を寄せる。
土方さんの髪がはらりと流れ、涙に濡れた私の頬をくすぐった。
重ねられた唇から、熱を帯びた想いが伝えられる。
彼は私を求めてくれているのだと、どんな言葉より明確に教えられる。
彼が与えてくれるぬくもりは、心の奥底までも癒してくれる。
深い悲しみが私に刻み込んだ傷まで、彼が注いでくれる想いに埋められる。
触れているだけで、癒やしていく……。
頑なな心をさらけ出し、彼の唇は雄弁に想いを語った。
凪いだ海のように穏やかで優しいのに、胸の奥まで熱くするような彼との接吻。
心が、想いが、感情が交ざり合うような……。
不思議な感覚は波を引くように、唇が離れた途端に薄れていった。
私に残されたのはたった今、彼から注がれた想いばかりだ。
私は土方さんを愛していて、土方さんも私を愛している。
そのことが、何より揺るぎなく感じられた。
「これからも、傍にいろ。何があっても離さねえから、覚悟しとけ。」
『うん……!』
涙が止まらないのは、決して、悲しいからじゃない。
心を満たされた喜びが溢れ出し、涙となってこぼれ落ちていくみたい。
私の存在が、彼の心を支えている。
私たちは、支え合っている。
……そのことが、幸せで幸せでならなかったのだ。
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