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朝晩の冷え込みもずいぶんと緩くなり始めた、四月末のこと。
松前口を守っていた、大鳥さんの部隊が破られた。
土方さんの部隊も二股口の防衛を切り上げ、五稜郭まで撤退するよう命令を受けた。
決戦の地は、箱館になる。
事態は、土方さんが予想した通りに動いていた。
そんな、ある夜のこと……。
「おまえ、いつまで起きてるつもりだ?そろそろ休んだ方がいいんじゃねえか。」
『それは、わかってるけど……』
あと何度、こうして土方さんと共に過ごせるかわからない。
そう思うとひどく名残惜しくて、なかなかここを離れられなかった。
その時……。
「土方さん、いらっしゃいますか?相馬です。」
「おう、どうした?」
土方さんの応えを受け、相馬君が部屋の中へと入ってきた。
「夜分遅くに、申し訳ありません。ですが、どうしても土方さんと汐見先輩にお渡ししたい物があって……」
私も……?
「渡したい物だと?一体何だ。」
「……これを。」
相馬君が差し出したのは、一枚の錦絵だった。
土方さんは食い入るような眼差しで、その絵を見つめている。
「こいつは……、井吹が描いた物か?どうしてこれを、俺たちに?」
井吹って……、え、井吹龍之介?
ちょ、私も見たい!
「俺、前に江戸に戻った時、あいつに会って……その時、言ったんです。井吹の想いを……見てきたものを、皆に伝えてくれって。そうしたら先日、この絵が送られてきて……見た瞬間、土方さんと汐見先輩にお渡しするべきだと……そう思ったんです。」
土方さんは再び、手の中の錦絵へと目を落とした。
そして……。
「……こいつは受け取っておく。大儀だったな、相馬。」
その言葉に、相馬君は深く一礼した。
そしてそのまま、部屋を後にする。
やがて土方さんは、苦笑混じりのため息を吐きだした。
「……妙な偶然も、あるもんだな。」
私あてでもあるのに、私見てないんですけど。
『ねえ……、その絵は一体?』
そう尋ねると、彼は手にある錦絵を、私へと差し出してくれる。
その絵を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
激しい筆致で描かれた錦絵は、凄絶な存在感を持って心に迫ってくる。
しかも、そこに描かれているのはーー。
『羅刹……』
白い髪と赤い瞳を持つ、一人の羅刹の姿だった。
だが、その瞳に宿るのは殺意や狂気ではなく、諦念を帯びた、年少の者を見守るような優しげな光だ。
魂をわしづかみにされたような心持ちのまま、私は問いかける。
『え、芹沢さんだよね?』
「ああ。新選組……いや、俺たちがまだ壬生浪士組って呼ばれてた頃、局長だった人だ。」
『…………懐かしい。』
「……とんでもねえ人だったけどな。商家を脅して金を巻き上げるわ、酒かっ食らって島原で狼藉を働くわ。あの人……芹沢さんが生きてた頃は、心が休まる時間なんてただの一刻もなかったもんだ。」
『そうだったね……』
土方さんや私が知る芹沢さんの印象と、錦絵に描かれている優しげな人とが結びつかないけど。
「毎日毎日知恵を絞って、どうやって芹沢さんを出し抜くか……それだけを考えてた時、あの人は言ったんだ。本気で近藤さんを押し上げてえんならーー、【鬼になれ】ってな。」
あ……。
「……その言葉通り、俺は、羅刹になった芹沢さんの命を奪った。」
『…………』
私もその場にいたけど、芹沢さんの最後をみたのは土方さんだった。
【近藤さんを本物の武士にしたい】
その土方さんの気持ちや覚悟は、私もよくわかってたつもりだけど……。
かつて局長だった人をも手にかけたことを思い出し、その苛烈な思いに改めて気付かされる。
「妙な話なんだが……芹沢さんはあの晩、俺に殺されることを知ってたような気がするんだ。」
『え……?』
土方さんの視線が、私の手にある錦絵へと再び移った。
「俺に殺された瞬間、あの人は、この絵と同じ表情を浮かべてた。」
『っ……』
私はもう一度、その錦絵へと視線を落とす。
その安らいだ顔は、とても、殺される瞬間の無念の表情には見えなかった。
「……思えば、俺が最初に受け取ったのは、あの人から託された荷物だったのかもしれねえな。新選組を中途半端に終わらせちまったら、あの世で、芹沢さんに何を言われるかわからねえ。ずっと、そう思って走り続けてきたような気がするぜ。」
『土方さん……』
きっと、近藤さんとは違う形だったのだろうけど……。
芹沢さんも土方さんにとって、とても大きな存在だったに違いない。
私も……少なからずは芹沢さんをいい人だとは思っていたし。
「……どういう巡り合わせかはわからねえが、昨夜、芹沢さんの夢を見たんだ。」
『どんな夢だったの?』
「言葉は、ろくに交わせなかった。だが夢の中のあの人は、この絵みてえな安らいだ顔をしててな…………あの人の顔を見た瞬間、こういわれた気がしたんだ。そろそろ背中の荷物を下ろしても構わねえぞ、って。」
『土方さん……』
相馬君から届けられたこの錦絵、そして、土方さんが見たという夢……。
これは、ただの偶然なのだろうか?
それとも、今後起きる出来事を暗示しているのだろうか……。
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