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34


再び目を覚ました時、私は見知らぬ場所にいた。


『ここ、は……?』


夢うつつのまま身を起こし、誰にともなく呟くとーー。


「ここは、仙台城ですよ。」


耳慣れた声が聞こえてきて、私は思わず居住まいを正す。

この声は、まさか……!


『山南さん……!』


そして、彼の隣に立っていたのはーー。
私を城内に運び込んだであろう、綱道さんだった。


『……一体、どういうこと?どうして山南さんが、綱道さんと?』

「綱道さんとは、羅刹の研究を行う為、協力関係を結んだのですよ。」

『新政府軍に味方するの?新選組の皆を裏切って……』

「さあ、それはどうでしょうね?」


どうやら山南さんは、私に事情を明かすつもりはないらしい。


「千華様、身体は大丈夫ですか?すみません。加減はしたつもりだったのですが……」

『あ……』


優しい声音で問われ、気持ちが揺らいでしまいそうになる。
……けれど、油断してはいけない。


「逃げようとは思わない方がいいですよ。私たちも、手荒な真似はしたくありませんから。」

『…………わかってるわよ。』


無論、簡単にここから脱出できるとは思っていない。


「それにしても……彼女を連れてきたのは早計でしたね。土方君は勘がいいですから、彼女がいなくなったことで我々の計略を察してしまったかもしれない。」

「千華様の居場所を知りたいなら、藤堂君を尾行しろと言ったのは君だろう?」

「藤堂君を泳がせろとは言いましたが、彼女を連れ去れとは言っていませんよ。まあ、何にせよ済んでしまったことです。過去を悔いるより、今後の策を練るべきでしょう。」

「それならば、心配いらんとも。羅刹隊が、藤堂君を始末した頃合いだ。そろそろ仙台城まで戻ってくるだろう。」

『平助を……!?』

「気の毒だが……、もう生きてはおるまい。あの数の羅刹に囲まれたのだからな。」

『…………』


総身が、我知らず震えた。
平助が死んでしまったはずがない。
そう信じたいけど……。
綱道さんが使っていた羅刹は、日の光の下でも戦うことができる。
彼らを相手にしたら、いくら平助でもーー。
そう思った時だった。


「誰が死んじまったって?勝手に決めつけんのは、やめてくれねえか?」

『平助……!!』


不意に、彼が広間へ乗り込んできたのだ。
しかも、平助一人ではなくーー。


「無事か?千華。」


平助と共に現れた土方さんは、短い言葉で私を気づかってくれた。


『ーー大丈夫よ!』


思わず大きく頷いた私を見て、土方さんは微かな笑みを浮かべた。
その彼らの後ろからピィ〜ッと声が聞こえて視線を向けると銀狼が彼らの頭上で旋回していた。

そうか、ここまで銀狼が誘導してくれたのね。


「なぜ、おまえたちがここに?まさか改良を重ねた私の羅刹隊が、ただの羅刹に破られたと言うのか……?」

「改良型だか何だか知らねえがな。俺たちを仕留めてえなら、あの十倍でも足りねえくらいだよ。」

「く……!」

「……そろそろ来る頃だと思っていましたよ。他の隊士は連れて来なかったんですね。まあ、君ならそうすると思っていましたが。二人だけで敵地に乗り込むなど、無謀だとは思いませんでしたか?」

「……状況を説明してもらおうか。なぜ、俺たちへの連絡を絶った?」

「仙台に、君が求めるものはありません。……奥羽越列藩同盟は、戦争の回避を目論んでいます。」

『それってーー』


同盟の盟主である仙台藩が、戦いを放棄しようとしているということだろうか。


「……会津での度重なる敗報を伝えられ、腰が引けてきたようですね。」

「私は、新政府軍より密命を受けて仙台に来た。羅刹隊を率いて仙台城を落とし、同盟を完全に崩壊させろとの指示だ。しかし……、それは私の本意ではない。新政府側の考えにはどうしても同意できん。」


何より、仙台藩は逃げ腰になっている。
わざわざ仙台城へ攻め込まなくとも、少し圧力をかけるだけで動きを止めた。


「新政府軍に不満を持っていた綱道さんと手を結び、私たちはこうして仙台を掌握するに至りました。」


仙台城へ攻め込まない代わりに、綱道さんは藩から滞在を黙認された。
その間に、羅刹隊は力を蓄えたのだ。


『……綱道さんは、幕府軍の味方なわけ?』

「私はあなたの味方ですよ、千華様。人間たちの争いに力を貸すつもりはない。我ら一族を滅ぼした人間や、我々を見捨てた汐見家以外の旧き鬼共に復讐しよう。私たちの手で鬼の王国を作り上げるーーいや、我々こそが新たな鬼の一族となるのですよ。」

『綱道さん……』


以前、千姫が言っていた。
雪村の里は、人間たちに滅ぼされたと。
だとしたら、綱道さんが人間を恨むのは無理のないことだと思うけど……。
でももしここに千鶴がいたならば、綱道さんの考えに同意なんてできないだろう。
勿論、私もできない。

その時、足音を響かせながらたくさんの影が広間へと飛び込んできた。


「……彼らも侵入者に気付いたようですね。」

「!こいつらは、新選組のーー!」

「……そうです。この城には新政府軍の羅刹だけではなく、我々新選組の羅刹隊も滞在させていました。」


綱道さんが改良した、新政府軍の羅刹隊。
そして、山南さん率いる新選組の羅刹隊。
その全員が、私たちを取り囲んでいる。


「この国に存在する羅刹が、今ここに集結しているのですよ。西洋式の軍備を持つ新政府軍だろうと、確実に倒せるだけの最終兵器になります。」

『…………』


無数の赤い瞳が、私たちを取り囲んでいる。
その瞳は、尋常ではない殺意を帯びていた。
人としての理性が感じられない、狂った、狂暴な瞳ーー。


「さあ……、手を貸してください千華様。我々の旗頭には、あなたが必要なのですよ。この羅刹たちを使い、雪村一族を再興する手助けを。」

『綱道さん……』


私は……。
いや、千鶴はきっと雪村家の再興を望んでいるわけじゃない。
血に狂う羅刹を……、苦しむ人を増やしたかったわけじゃない。


『……綱道さんは、間違ってるわ。』


私の言葉に、綱道さんは目を見開いた。


『人を犠牲にして自分たちの国を作るなんて、私もーー千鶴も絶対に賛成できない……!』


人間だろうと鬼だろうと、命の重みに変わりはない。
郷里を滅ばされたからといって、私たちが人間を虐げていいわけではない。


「ーー新選組に手を貸してもいい、と綱道さんは仰ってくれています。どうです、土方君。この羅刹隊を率いて、共に新政府軍と戦うつもりはありませんか?」

「……俺の答えは、はなっから決まってるさ。」


それは、遠回しな拒絶に他ならなかった。
羅刹の研究を進めようとする山南さんを、いつだって土方さんは止めようとした。
彼の意思は、何ひとつ揺らいでいないに違いない。


「……交渉決裂、ですか。では、仕方ありませんね。」


山南さんはため息を吐きながら、ゆっくりと腰の刀を抜き放った。


『山南さん……!?』


仲間同士で斬り合うつもりなのだろうか。
最悪の事態が脳裏をよぎって、私は身を強張らせた。
けれど土方さんは刀を抜くそぶりも見せず、冷めた眼差しで山南さんをながめている。
山南さんの髪が、見る間に白く染まった。
そして、彼は刃を高く振り上げーー。


「うぎゃああああ!!」


一刀のもとに、羅刹の一人を切り伏せた。


「戦うことしかできない私たち羅刹に、戦いの場も残されていないというのならーーここで終わりにしてあげるのが、せめてもの情けというものでしょう。」


広間が、しんと静まり返る。
一息の間をおいて我に返った羅刹隊は、みすみす殺されてなるものかと自ら抜刀した。


「ーー平助。」

「わかってるって!」


土方さんが静かに彼の名を呼ぶと、平助は勢いよく刀を引き抜いて、構えた。


「山南さん、ちょっと格好つけすぎだぜ!何でオレらに言ってくれなかったんだよ?」

「まあ、月並みな言葉ですが……、【敵をだますにはまず味方から】と。」


二人は凄絶な笑みを浮かべながら刀を振るい、一人、また一人と羅刹の数を減らしていく。


「それに、新選組でこういった役目を引き受けるのは、常に私でしたからね。」


その言葉を聞いて、土方さんは小さく苦笑した。
そしてーー。
土方さんもまた刀を構え、羅刹として羅刹に立ち向かう。


「……何言ってやがる。昔から、後始末は俺の役目って決まってるだろうが。」


三人の羅刹が、刀を振るうたびーー。
仙台城の広間に、鮮やかな血飛沫が舞う。
群がる羅刹たちを斬り捨てる様は、文字通り、鬼神の所業とも思えた。
土方さんたちは欠片の容赦もなく、羅刹たちを血の海へ沈めていく。


『あ〜!ずるくない?私も!』


三人だけいい所を取るのはずるいと、私も腰の刀を抜刀しようとするが、そこに風姫の姿がない。
あれ…?と首を傾げる。


「ほらよ!」


土方さんから鞘ごと投げられたそれは風姫で、私は目を見開いた。


「大事な愛刀を置いてくなんて、やられても文句は言えねえぞ。」

「部屋に落としてったの、オレたちが拾っておいたぜ!」

「さあ、汐見君。一気に行きますよ。」


三人の言葉に私は笑みを浮かべて、勢いよく鞘から抜刀して目の前の羅刹に斬りかかった。
四人で視線を交錯させながら、上手く連携を取って斬り捨てて行く。

広間の隅で座り込んでいる綱道さんが、力のない声で呟いた。


「……あの言葉は、偽りだったのか?鬼の王国で、羅刹の更なる研究を進めよう。山南君……。君は、確かにそう言ったはずだ。」


山南さんは刀を構えたまま、ただ視線だけを綱道さんへ向ける。


「……先が、見えてしまったんですよ。私は、羅刹を生かす道を探っていました。先が短いと知ってからは特に焦りましたとも。研究を推し進める為、時には自らの手も汚しましたが……」


山南さんの瞳が、自虐的に揺らいだ。
彼が今まで取っていた不審な行動も、全ては、羅刹化した隊士を救うためのものだったのだ。


「羅刹には未来がありません。綱道さんも、わかっているでしょう?たとえ日の光の下で動けるようになっても、力を使えば寿命は削られ、血に狂う衝動も消えてはくれない……」


山南さんは、知ってしまったのだ。
羅刹を救う術は残されていない、と……。


「……私たちは、時代の徒花なんですよ。羅刹は生み出されてはならないものでした。もう、終わりにしましょう。」

『…………』


私は、山南さんの真意に驚くと共に、強く打ちひしがれていた。

羅刹は、救われないのだろうか。
望みは全て絶たれてしまったのだろうか。

私が考え込んでしまった、その時。
ふと眼前に、影が差した。


『ーーやべっ!?』

「がああああっ!」


はっと気づいたときには、血に狂った羅刹が目の前にいた。
私は、急いで一歩後ろに下がって刃を下から斬り上げようとするが……。

駄目、間に合わない。

私が斬り上げるより早く、羅刹の刃は振り下ろされてーー。


『え……?』


散らされた鮮血は、私のものではなかった。
私の身体は、傷ひとつない。
それは……。
綱道さんが、とっさに私をかばってくれたから。


『ーー綱道さんっ!?』


私は、崩れ落ちそうな綱道さんの身体に手を伸ばす。
羅刹はそんな私と綱道さんめがけ、再び刀を振り上げたのだけれどーー。
凄まじい鋭さで繰り出された一刀が、羅刹の身体を綺麗に両断してしまう。


「何、よそ見してやがるんだ?てめえらの相手は、俺たちだろ。」


土方さんはそう吐き捨てた後、私たちに背を向けて刀を構え直した。
……私たちを、守ってくれている。
私は風姫を置いて、綱道さんを支える腕に力を込めた。


「千華様……、大丈夫ですか……?どこも、怪我はしていませんか?」


心臓の鼓動に合わせて、綱道さんの傷口から鮮血が溢れ出る。
総身を流れる鬼の血も用をなさぬほどの致命傷だった。
叫びだしそうになる感情を抑えて、私は無理矢理に笑みを作った。


『大丈夫よ。……どこも痛くないから。』


声が、少し震えてしまった。
なぜか綱道さんは、とても穏やかな顔をしている。


「……羅刹の研究は、失敗なのだよ。未来がないことぐらい、本当は、私もわかっていた……」

『綱道さん……』

「どうしても諦められなかったんだ……。一族を、千鶴の家を、あなたたちが支えてくれた家を、復興させたかった。」


私は、大切なことに思い当たった。
綱道さんは、常に千鶴のためを思ってくれている。
今も昔も、その事実に変わりはない……。


「私は、羅刹と共に消え行く運命なのだろう。……大きな罪を、生み出したのだからね。」


綱道さんの声から、どんどん力が失われていく。


「これで……、良かったんですよ。だから泣かないでください、千華様……」

『…………』


無言のまま、私は大きく頷いた。
声を出せば、泣き叫んでしまいそうだった。
涙は溢れるくらい溜まっていたけれど、こぼれ落ちないように目を見開いていた。
綱道さんは微かに笑みを浮かべ、やがて、覚めない眠りについた。


『…………』


何ひとつ言葉にできないまま、私は顔を上げる。
いつの間にか、戦いも終わっていたようだ。
新選組、そして綱道さんの手によって生み出された羅刹ーー。
その全てが、たった三人の手で全滅させられた。


「少し、惜しかった気もしますね。これだけの数なら利用価値もあったでしょうに。新選組は、多大な兵力を失ってしまいましたね。今後の戦いは、勝ち抜けると思いますか?」


目を細めて問いかける山南さんに、土方さんは清々しい笑みで答えた。


「端っから負けるつもりで戦う奴はいねえよ。」

「……土方さんは負けず嫌いだからなあ。」


声を押し殺すみたいに、平助はくつくつと笑う。
新選組は多くの羅刹を失った。
けれど、土方さんたちの結束はとても強くなった。
だから、決して悪いことばかりじゃない。
そう思いたかったけれど……。


「う、ぐっ……!?」


不意に洩らされた苦悶の声が、私の期待を打ち破った。
平助と山南さんが、苦し気に顔を歪めている。
そして、彼らの瞳が朱に染まり始める……!


「……限界が、きたようですね。」


ぽつり、と山南さんは達観した口振りで言う。


『限界って、まさか……』


天霧から以前聞かされた言葉が、不意に脳裏をよぎる。
羅刹の力は、神仏からの授かり物ではない。
これから先、数十年にかけて使い果たす寿命を前借りしているに過ぎない、と。
震えたまま立ちすくんでいる私を振り返り、平助は不器用に笑った。


「オレら、羅刹になるのが早かったしな。」


彼らは他の誰よりも羅刹の力を使い、戦いに次ぐ戦いで寿命を削り続けてきた。
その命が、とうとうーー。


「……わかっていたのか。」


土方さんが呟くように問うと、山南さんは微笑んで頷く。


「自分の身体ですからね。」


もはや自力で立ち続けることさえできず、二人は力尽きたように床に倒れ込む。
土方さんは、無言で彼らの手を取った。
私も急いで駆け寄る。


「……覚えていますか?土方君。まだ試衛館にいた頃、幾度となく夜を徹して話し合ったことを。」

「ああ。近藤さんは、こんな小さな道場の道場主で終わる器じゃねえ。世が世なら、武将にも大名にもなってた人だってな。」

「……まさか、我々より先に近藤さんが逝ってしまうとは思いませんでしたがね。」

「…………」

「……君とは反目することもありましたが、君なしでは新選組を作り上げることはできませんでした。」


山南さんは、柔らかい声で思いを紡いだ。


「……そりゃ、あんたも同じだろ?」


何でもないことのように、土方さんは受け答えする。


「事あるごとに芹沢さんに食ってかかってた俺をいさめてくれたのは、あんたじゃねえか。」


土方さんが強気に振る舞うのは、きっと彼らに心配をかけないためだ。
本当は、とても辛いはずなのに……。


「オレらは先に逝くけどさ、土方さんはもう少しのんびりしててもいいぜ?新選組ができてから、ろくに休んだこともなかっただろ?」


平助の優しくも明るい声音に、土方さんは微かな頷きで答える。


「ま、無理かもしれねえけどな。土方さんって短気だし……」

「……生意気なこと言ってんじゃねえよ。おまえに心配されるほど落ちぶれちゃいねえ。」


土方さんが怒ったような口調で言うと、平助は安心したように目を細めた。
きっと、悲しませたくないのだと思う。
……平助は、優しい人だから。


「君の進む道は、北にあります。」


山南さんは、振りしぼるような声で告げた。


「綱道さんは変若水の効果を薄める時、陸奥の水を使ったのだと聞きました……」


羅刹を救う手がかりは、北方の自然にあるのかもしれない。
もしかすると、延命が叶うかもしれない。
山南さんが紡ぎ出した言葉は、羅刹に残された最後の希望だった。


「……土方さんは、見失うなよ?生き急いだって、いいことねえからな……」


平助の、かすれた声が呼びかける。
土方さんは、無言で彼らの手を強く握った。


「千華……」


平助に呼びかけられて、急いで彼らの傍に膝をつく。
流れる涙もそのままに、私はまっすぐと彼らを見つめた。


「笑ってくれよ。オレ、前に言ったろ?おまえには笑顔が似合うって……」


平助が新選組を抜ける時、二人で話した時に言ってくれたその言葉。


───「おまえは……笑顔が似合うから。」


あの時も泣き顔の私にそう言ってくれた。
私は精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
彼らの記憶に残る最後の私の姿はいつものような笑顔の私がいいから。


「そうそう……その笑顔が、オレは好きだったんだ……」


力なく笑う平助と微かに笑みを浮かべる山南さん。
私は土方さんと同じように彼らの手を握った。
温もりを、彼らのことを忘れないように。


「千華……」

『……なあに?』

「大好きだぜ……」


その言葉で完全に涙が溢れ出した。
それでも笑顔をひっこめることはなく、私は満面の笑みで頷いて応えた。


『私も……大好きだよ。』


強く手を握り返した。
けれど……。
彼らの手は、形すら残さず崩れ去った。
身体全てが、白い灰となって消えていく。


『土方さん……』


私の呼びかけに、土方さんは答えなかった。
二人の手を握っていた拳を握り締めたまま、身を固くしていた。
きっと、土方さんは泣いているのだと思う。
瞳に涙はないけれど、それでも彼は泣いているのだと思う。
私も笑顔を崩して、彼らの温もりが残る両手を顔に押し当てて静かに泣いた。
止まらない涙が、指の間から静かに畳に落ちて行ったーー。


やがて、彼は静かに立ち上がる。
私たち以外いなくなってしまった広間は、凄絶に静かだった。


「帰るぞ。」

『……ええ。』


素っ気ない言葉を吐いてから、彼は私の顔を見て目を見開いた。
そして、少し決まり悪そうに目をそらす。


「…………泣くんじゃねえよ。」

『…………』


そんな無茶な。

【わかった】とは答えられなかった。
涙は、拭っても際限なくこぼれ落ちていく。
綱道さんとも、平助とも、山南さんとも……。
ここで、お別れなのだから。


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