30
その夜ーー。
泣いて腫れあがった目を冷やすために手拭いを冷やして目に当てていると平助と山南さんが、土方さんを訪ねてきた。
二人は、私たちが到着した昼間は身体を休めていたらしい。
「今日は、いつもより早く目が覚めましたよ。君たちが帰隊したおかげで、城内が騒がしかったもので。」
「かなりの大怪我だったんだろ?こんなに早く合流できるなんて思わなかったぜ。」
「こう戦続きじゃ、いつまでも休んでられねえだろうが。」
土方さんは穏やかに対応しているけれど、内心まで凪いでいるとは思えなかった。
近藤さんの死を知らされてから……、私の気持ちも重く沈んだままだ。
土方さんが抱いている苦しみは、私の想像を遥かに超えているはずだ。
私はさすがに腫れた目を見られるのは恥ずかしいので手拭いで隠している。
何も聞いてこないのがみんなの優しさだ。
「では、そろそろお暇しましょうか。我々の仕事は夜半から始まりますので。」
山南さんの言葉に平助も無言で頷いて、席を立とうとした時だった。
「ーーああ、平助。悪いが、斎藤を呼んできてくれるか?」
「一君?……わかった、呼んでくる。けど土方さん、ここに着いたばっかりなんだし、今夜ぐらいはゆっくり休んでくれよな。じゃあな、千華。」
気づかいを口にしながら私の頭を撫でて部屋を出る平助に、土方さんは微かな笑みで応えたのだった。
『…………』
二人が出て行ってしまうと、部屋は微妙な沈黙に包まれる。
土方さんは、私に出て行けとは言わない。
けれど、何かを話してくれるわけでもない。
いや、さすがにこの腫れた目で外を歩くのは嫌だけども。
『ねえ……』
沈黙に耐え切れず、手拭いを目から外して私が口を開きかけた時。
「俺に御用だとうかがいましたが。……何か?」
その姿を目にした土方さんは、素早く本題を切り出す。
私は急いで目を手拭いで隠した。
いつになったらこの腫れが引くんだ。
「斎藤。今後の戦いは、俺が前線で指揮を執る。」
『はっ……!?』
突然の発言に、私は思わず息を呑んで手拭いを手から外した。
敵味方が集う会津の最前線では、激戦が繰り広げられているはず。
まだ怪我も治りきっていないのに、そんな所に赴くつもりなのだろうか?
「討ち死になさるおつもりですか。」
「……みすみす殺されてやるつもりはねえよ。今までは、おまえが前線に出てたんだろ?副長の俺が、その役目を肩代わりするのは当然だろうが。」
土方さんが最前線に出るとなれば、きっと味方の士気も上がるだろう。
でも……。
もし万が一、土方さんが戦死することになったらーー。
支えを失った新選組は、瓦解してしまう。
「そのお言葉には、一理あると思います。ですが、俺の代わりを務めるのと仰るのであればーー」
重苦しい沈黙の中、不意に一君は右腰の刀に手をかけた。
「俺を倒してから、向かってください。俺より劣る腕前であれば、前線へ向かっても犬死にするだけですから。」
『一君……?』
「……言うようになったじゃねえか。」
土方さんもその言葉に応え、刀を一気に引き抜いた。
『ちょっと、やめてよこんな時に!』
思わず声を荒げて訴える私に、土方さんから冷徹な眼差しが返された。
「おまえは口を挟むな。……黙って見てろ。」
『え、見てなきゃだめ……?』
私の言葉を無視してそのまま土方さんと一君は、対峙し続ける。
できればこの空気から出たかったんだけど……!
やがて、二人が同時に地を蹴った。
刀と刀が、激しく打ち合わされる。
腕力で押し負け、弾き飛ばされたのはーー。
「何だと……!?」
『嘘っ!?』
土方さんの方だった。
怪我が治りきっていないとはいえ、羅刹となった土方さんの剣技は他の追随を許さぬはず。
きっと彼自身も人間である一君なら、適当にあしらえると思っていたのだろう。
だけどーー。
「傷も癒えきらぬ状況で生き残れるほど、会津は、甘い場所ではありません。」
『一、君……』
真紅の瞳も、白髪の髪も……。
彼が羅刹であることを示している。
『変若水を、飲んだの……?』
「……気づかいは不要。これは、俺自身が選択した結果だ。」
『…………』
私は、言葉を失って黙り込んだ。
彼の選択は、会津がいかに激戦の地であるかを如実に物語っていた。
「自ら激戦地で指揮をとりたいというお心は、理解できているつもりです。だからこそ、行かせるわけにはいかない。」
彼が静かに刀を納めると同時に、その姿は平素のものへ戻る。
「……戦いの最中に身を置いていれば、苦しみを忘れられるかもしれない。しかし、忘れてもらっては困ります。現実から目を背けるべき時ではありません。」
土方さんはゆっくりとした仕草で刀を納めながら、ただ静かに彼を見返す。
「……俺が、新選組の副長だからか。」
「近藤局長亡き今、新選組を統べる人だからです。」
揺るぎない一君の返答を聞き、土方さんは小さな吐息をもらした。
「前線での戦いは俺たちに任せてください。土方さんは、城に留まって作戦の指揮を。」
「……わかった。会津の前線指揮は、おまえに任せるよ。少なくとも俺の傷が癒えるまでは、な。」
「ありがとうございます。」
一君は素直に感謝を述べた後、不意に視線を私へと向けた。
『え、何……?』
「土方さんを頼む。傷が癒えるまで目を離さないでくれ。」
『……もちろん!』
頷く私を見て、一君は小さく微笑んだ。
それから改めて土方さんに黙礼し、この部屋を後にした。
そして……。
一君が部屋を出た途端に、土方さんは不機嫌そうな顔をする。
「……やれやれ。目付役を付けなきゃならねえほど、俺を信用できねえってことか。」
『……それだけ一君は、土方さんのことが心配なんだと思うな。』
もちろん土方さんの見張りなんて、私では務まらないと思うけれど……。
任された以上は、頑張らなくては。
『気がはやるのもわかるけど、しばらくは休んでてよね。』
私が念を押すと、土方さんは苦笑する。
だけど、やがて……。
「ぐっ……!?」
突然胸を押さえ、苦しげなうめき声を洩らし始めた。
『土方さん!?』
強い狂気にさらされた肉体は、当人の意思とは無関係に変容する。
またも羅刹の血は、彼を苦しめ始めたのだ。
でも、このままでは、いつ誰に見られてもおかしくない。
『土方さん、こっちの部屋に。』
私は苦しむ土方さんを、なんとか隣の部屋に連れ込んだ……。
『土方さん……』
私が少し近寄るだけで、土方さんは全てを察してくれる。
いつものように、襟元がくつろげられる。
そして……。
首筋に、微かな痛みが走った。
『…………』
私は何も言わず、じっとしている。
その間にも私の肌に触れる息づかいが、少しずつ穏やかなものに変わり始めた。
土方さんが見せるささやかな変化は、私の心に深い安堵をもたらしてくれる。
私の血で、彼の苦痛が治まるのなら……。
私が、少しでも役に立てるのなら……。
羅刹の狂気が彼を苦しめる限り、ずっと私を使って欲しいと思う。
やがて、土方さんは私から身を離すと、伏せた瞳に微かな苦悩をにじませた。
「……留まり続けるものじゃねえよな。」
『え……?』
呟きの意味を察しきれず首を傾げる私を見て、土方さんは淡い苦笑を浮かべる。
「……いつまでも続けられることじゃねえよ。おまえも俺も、この戦いも、他の全ても、だ。」
『土方、さん……?』
まるで、終わりを見つめるかのような言葉だ。
私はかける言葉を見つけられず、ただ強い焦燥感だけを抱えていた。
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