25
北に向かっている為だろうか。
もうすぐ夏だというのに、夜風は清涼そのものだ。
「もうすぐ夜が明けるし、今日は、この辺で休むことにしようか。」
『……ええ。』
「思ったより、時間かからなかったね。こういう時、羅刹の身体って便利だなあ。」
『…………』
私たちは、雪村一族の里があった場所……千鶴と薫の生まれ故郷まで後少しの所にいる。
「明日には、綱道さんや南雲薫と再会できるだろうけど……彼らに何て返事をするか、決めた?」
『それは…………』
「その様子だと、まだ決めてないんだ?迷う必要なんてなさそうなのに。」
『総司は……』
「ん、何?」
『……ううん、何でもない。』
総司ならどうするか、聞いてみたいけど……。
でも、薫にどう答えるかは、自分で考えなくてはならないことだ。
そうでなくては、きっとーー彼に気持ちは届かない。
「千華、ちょっと一緒に来てくれる?」
『えっ?一緒に、って……一体どこへ……』
「ついてくればわかるよ。ほら。」
『あっ、ちょっと……!』
総司は、戸惑う私の手を取って歩き出す。
『ねえっ……!』
一体、どこに行くつもりなのだろう。
尋ねる間も与えてくれず、総司は歩き続ける。
『わあ……!』
私が総司に連れられてきたのは、木々の合間から夜空が綺麗に見える場所だった。
爽やかな夜風が、私たちの頬を優しく撫でてくれる。
「今日はよく晴れてるから、君の気分も変えてあげられると思って。昼間の景色もいいけど……、こういう眺めも悪くないでしょ?」
『…………』
確かに、総司の言う通りーー。
ひんやりとした夜気や、夜空に冴え渡る星々の姿……。
そして、眠りの中に沈んでいるような葉擦れの音は、昼間とはまた違う横顔を見せてくれる。
些細な喜びも、今なら深く感じられる気がした。
『……ありがとう。少し、気持ちが楽になった。』
「どういたしまして。って、何か水くさいな。」
軽く茶化した後、総司は再び、私の瞳を覗き込んでくる。
「話してごらん。……君は、どうしたいの?」
『私、は……』
まだ、決められなかったけど……。
私は言葉を選びながら、口を開く。
『……薫がああいう望みを抱くのも、無理はないと思うの。故郷や家族、一族の皆を理不尽に奪われたからこそ、誰にも奪われない自分たちの居場所を作りたい。私も薫と同じ立場だったら、きっと……』
今まで、薫はたくさんの嘘をつき続けてきたけれど……。
あの瞳に宿っていた悲しみや痛みだけは、本物だった。
『もちろん、薫にされたことを忘れたわけじゃないわ。』
薫は総司を羅刹へと変え、私にも変若水を飲ませた。
『でも……、それでも薫は私の義弟なの。』
彼にされたことを許せるのか、それはまだ私にはわからないけど。
けれどもし、総司がこうして傍にいてくれなければ……。
もしかしたら私も、薫のように、周りにあるもの全てを呪って生きてきたかもしれないのだ。
そう思うと、どうしても薫を憎みきれなかった。
「君は、彼らと一緒に生きたい?」
その問いに答えることを、私は少しためらう。
『……そうすることを、考えなかったわけじゃないよ。』
私たち羅刹は、普通の人間のように暮らすことなどできない。
人目を忍んで生きなくてはならないのなら、共に暮らすのも一つの道かもしれない。
だけど……。
『薫は自分たちの安住の地を築く為、他の誰かを傷つけようとしているから……それだけは、絶対に賛成できない。だからもし、薫が鬼の王国を作るなんて夢を諦めてくれるならーー』
「……ずいぶんと都合のいい話だね。邪魔者を根絶やしにしてでも、自分たちの居場所を作りたいと思ってる彼らがーーそんな甘い願いなんて、聞き入れてくれると思う?」
『それは……』
「世の中にはね、人の醜い部分や汚い部分ばかりを見せつけられながら生きてきた人間っていうのがいるんだよ。そんな相手に、甘っちょろい綺麗事なんて通用しないと思うけどね。」
『…………』
反論の言葉が見つからなかった。
薫は多分、今までずっとーー。
人間たちに復讐したい、一族を再興したいという思いだけを胸に生きてきたのだ。
それを捨てることは、今までの人生を全て捨てることと同じなのかもしれない。
私はやっぱり……、甘いんだ。
やがて総司は星明りに目を細め、ぽつりと呟く。
「……僕は、千華の望みを叶えてあげたかったんだ。」
『え……?』
「だからもし君がどうしてもって言うんなら、少しだけ付き合ってあげようかとも思った。だって君がいてくれなかったら、僕は、こうして生きてるかどうかもわからないから。」
その言葉がただの慰めでないことは、私にもよくわかった。
総司にとって近藤さんは、とても大きな存在で……。
近藤さんを失ってしまった今、彼はきっといつ死んでも構わないと思っているに違いない。
そんな彼が、こうして生きていてくれるのは……。
「僕は、君が望む物を与えてあげたい。本当に欲しいと思ってる物をね。……だから、薫の誘いには絶対に乗っちゃ駄目だ。人間を根絶やしにして自分たちの王国を築くなんてーー君は、望んでないでしょ?」
総司は私以上に明瞭な言葉で、私の本心を言い当ててくれる。
「それとも、化け物になっちゃったからって何もかも諦めて、ずっと暗い闇の中で生きていく?」
『…………』
とっさに、言葉が出なかった。
だけど総司は私の答えを待たずに言い放つ。
「そんな生き方、君には似合わないよ。……君がよくても、僕が絶対に許さない。世の中にはね、絶対に暗闇へ墜ちちゃいけない人っていうのがいるんだ。」
『総司……』
私は、羅刹としての未来なんて望んでいない。
人間を滅ぼしたいとも思っていない。
ただ、平和に暮らしたいだけーー。
総司はそのことを、私に思い出させてくれた。
すでに羅刹となってしまったこと悲観し、どこか諦めていた私の弱さすら見抜いて。
「変若水の毒を消す方法さえわかれば、君も僕も狂気から解放される……君は、君のままだ。化け物なんかじゃない。」
羅刹となった身体を治すなんて、夢のような話だ。
新選組にいた頃、山南さんが何年もかけて研究していたけど……。
結局、その方法を見つけ出すことはできなかった。
そのことは、総司も知っているはずだ。
それでも彼は、残された希望を信じ続けてくれている。
「それでも、もしも君が全て諦めて、願いを放り出すっていうんならーー」
総司の手が、私に優しく触れた。
慈しむような眼差しに、私の心は捕らえられてしまう。
「ーー僕が、君を殺してあげるよ。君が前に進むことまで諦めるつもりなら、どこにも行けないように、僕が終わらせてあげる。」
今まで、【斬る】【殺す】と数え切れないほど傍で聞いたけど……。
こんなに優しく【殺す】と言ったのは、今日が初めてだった。
その言葉に込められた気持ちに、胸が温かくなる。
『総司……』
「殺されたくないんなら、諦めることなんて考えちゃ駄目だよ。僕だってその後、君なしで生きていけるほど強くはないんだから。僕は、最後まで諦めない。だから君も、僕と一緒に……」
少しだけ、彼の声が揺らいで聞こえた。
私の内心を見極めかねているのか、彼はじっと私を見つめている。
その表情を見ているとーー。
『私……』
ーー私はどうしても、彼の願いを叶えたいと思った。
『私……、諦めない。』
熱に浮かされたように、身体が熱くて……。
悲しみとは違う涙が、止めどなく溢れてくる。
総司が、私は闇に墜ちるのは似合ないと言ってくれたのだから。
諦めてしまう方が楽だとしても、私は、前を向いて歩かなくては。
『総司と一緒に、ずっと……ずっと前を向いて、歩き続ける。』
こらえきれず、私は彼の広い胸にすがりついた。
「……ありがとう。君ならきっとそう言ってくれると思ってたよ。」
彼は優しい仕草で、私を抱き止めてくれる。
くすぐるような吐息と共に、耳元に微かなささやきが触れた。
「ずっと一緒にいよう。何があっても、ずっと僕から離れないで。」
彼の手が、私の頬にそっと触れた。
その仕草に誘われるように……、私は静かに目を閉じる。
彼は小さく息をつめた後、緩やかな動きで唇を重ねてきた。
ぎこちなく震える指先は、まるで壊れ物のように大切そうに私に触れてくれる。
いつもの憎まれ口や皮肉とは裏腹なその仕草から……。
総司の、言葉にしきれない想いが伝わってきた。
……私は今、とても大切にされている。
胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうだった。
重なり合っている唇が、震える。
きっと今、総司も私と同じ想いを抱いてくれているに違いない。
そのことが、ただうれしくて……。
彼を恋い慕う気持ちが、より強くなる。
このままずっと、総司の傍にいたい。
愛しいこの人と、片時も離れたくない。
彼と共に、生きていきたい……。
熱い胸の奥から、その想いが際限なく込み上げてくるのだった。
初めての口付けを終えて、私たちはそっと身体を離す。
『…………』
静かな中、聞こえてくるのは私たちの足音と、たまに吹き抜ける夜風の音だけ。
沈黙がやけに気詰まりに思えて、口を開こうとすると……。
繋いだ手のぬくもりを意識した途端、言葉を見失ってしまう。
「……名残惜しいけど、ずっとこのままってわけにもいかないんだよね。少し、寝た方がいいんだろうけど……目が冴えちゃったなあ。」
『そうね……』
総司が夜空を見上げているのに気付き、私も、空を仰ぐ。
私は明日、弟のように思っていた義弟とーー。
私の大切な妹分の千鶴の義父の夢を、断ち切らなくてはならない。
本当に、私にできるのだろうか。
彼らを、止められるのだろうか。
「……ねえ、千華。」
傍らから声をかけられ、私は総司の方を振り返る。
「そんな不安な顔しなくてもいいよ。気持ちは、もう決まってるでしょ?」
『それは……、もちろん。』
「君が、どう考えてるかわからないけど……僕は戦うのを怖いと思ったことなんて一度もないし、彼らを殺すことへのためらいもない。」
その言葉に、私は頷いた。
総司が戦うところを、何度も目にしてきたけれどーー。
その剣技の冴えも、迷いのなさも、見ていて怖いほど真っ直ぐだったから。
「……近藤さんが生きてた頃は、目的なんて別にいらなかった。新選組の剣として、命じられるまま、ただ目の前の敵を斬ればよかっただけだから。だから、どんな汚い役目だって、堂々と胸を張ってこなせたんだ。でも、近藤さんがいなくなった今……、僕が剣を振るう理由は、たった一つしかない。」
そう言って、総司は私へと視線を移す。
「……君の為だよ、千華。」
『総司……』
「こういう生き方を選んだのは僕だし、迷いなんてない。後悔もしない。だけど…………今までは、先を望んだことなんてなかったから。」
ぽつりと呟かれたその一言に、私は虚を突かれる思いになる。
「別に、生き急いでたわけじゃないし、寂しい生き方をしてたとは思わないんだけど……結局今まで僕は、先のことなんて何一つ考えてなかったってことだろうね。」
総司が抱えている戸惑いの正体が、おぼろげに見えてきた気がした。
これからの戦いは、総司がこれまで経験してきたものとは意味合いが違う。
『綱道さんと薫との戦いは、私たちが共に生きる為の戦い……一緒に生きていく時間を勝ち取る為の戦いなんだよね?』
総司は、静かに頷いてくれる。
「……この僕が、未来の為に戦うことになるなんて思わなかったけどね。今まで思ってもみなかったことが、次々と浮かんでくるんだ。」
『思ってもみなかったこと……?』
「たとえば……この戦いが終わったら、どこで生きていけばいいんだろう、とか。」
『あ……』
元新選組幹部の私たちが、果たして身を隠す場所があるのか。
やっぱりそれは……私の里になるのだろうか。
汐見の里、あそこなら人間が来ることは全然ない。
だけど、鬼の里に総司を連れていくのはーー。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。君を落ち込ませる為に言ったんじゃないんだから。」
『そ、そうよね。ごめん……』
さすがにじい様だってすぐに帰って来いとは言わないだろう。
いやでも私が次期頭領になるって言っちゃったし……。
え〜、わかんないなあ……。
「……ねえ、千華。」
『ん?』
だが総司は何も言わないまま、私をじっと見つめてくる。
私は、彼の言葉を待っていた。
だけど目を合わせていると、我知らず鼓動が高まってしまって……。
頬が、ひとりでに熱を帯びてしまう。
私を見つめる瞳の奥底に、密やかな熱が垣間見えた気がしてーー。
「どうして目をそらしちゃうの?もしかして、警戒してる?」
『……意地悪言わないでよ。』
「意地悪って言われても、僕はずっと前からこんな感じだったでしょ。でもまあ、どうせ意地悪って言われるんなら……もう一度、君に口付けしてもいい?」
『えっ!?』
唐突な申し出に、私は絶句してしまう。
『いや、だけどその……!口付けならさっき、もう……』
「さっき口付けしたら、もうしちゃいけないの?」
『それは…………』
「僕が聞きたいのは、君が僕を受け入れてくれるのかくれないのか、それだけなんだけど。ちゃんと答えて。……どっち?」
『…………』
この問いにはどうしても、答えなくてはならないのだろうか……。
総司が意地悪な人だっていうのは、私もよく知っているけど。
私はーー。
『それは、時と場合によるかなあって……』
「時と場合?どんな時ならいいの?」
『え?そ、それは……』
当然のように詰め寄ってくる総司に、私は、たじろぐことしかできなくなる。
『だから、その……!』
困り果てて黙り込む私を見て、総司は苦笑いになった。
「……そういう姿を見てると、ますますいじめたくなるんだよ。」
やがて総司は、すっと手を伸ばし、私の両腕をそれぞれ捕らえる。
『あ、あの……』
私が戸惑いながら、彼を見つめ返すとーー。
「いいから。……何も言わないで。」
真摯な瞳が、すぐ近くにあった。
『……!』
慌てて身を引こうとしたけど、総司の手がそれを許してくれない。
『ねえ、総司……』
「君は、本当ならもっと優しくて、穏やかな未来を与えてくれる相手を選んだ方が、幸せだったのかもね。」
『え……?』
彼の声音が沈んでいたことに気付いて、私は身動きが取れなくなる。
総司の瞳に宿っていたのはさっきまでの切実な色とは違う、熱を帯びた眼差しだった。
「千華、僕はね、きっと君をとても困らせると思う。もし君がいつか、僕を選んだことを後悔する日が来たとしても……手放してあげられない。」
からかうような笑みが、彼の瞳から消えた。
代わりに現れたのは、胸の内の覚悟と不安、全てを含んだ総司の本音だった。
「……僕は、君が死ぬまで一緒にいてあげることはできないかもしれない。ほんのわずかな未来はあげられても、その先まではわからない。それでもーー」
耳たぶをくすぐるそのささやき声が、微かに震えている気がした。
「それでも僕は、君を求めるよ。命ある限り、こうして君に触れ続ける。君を傷付けることになっても……、どうしても止められないんだ。」
その言葉に込められた思いが、強く迫ってくる。
『総ーー』
私が、彼に応えようとした時。
続く言葉を、彼の唇で遮られた。
……何も言わせない、言われたくない。
そんな彼の声が、唇を通して直接伝わってきた。
重ねられた唇の熱は、先ほど交わした初めての口付けとは違っていてーー。
どこか苦くて、切なくて……そして甘いものだった。
彼は、戦いを恐れてはいない。
たとえ相手が私の家族同然に思っている人であろうとも、躊躇せずに剣を振るえるだろう。
それでも、きっと……。
そのことで私が深く傷付くだろうことも、よくわかっているに違いない。
そのことが、言葉にするよりはっきりと伝わってきた。
永遠のようにも思える時間を費やして彼が確かめたかったのはきっと、ただ一つだ。
だから私は、唇が離れた瞬間、迷わずに答えた。
『……総司になら、何をされても構わない。私はいつだって、総司を許すわ。たとえこうして一緒にいられる時間が、限られていたとしてもーー』
「……そんなこと言って、僕がいなくなったら絶対泣くくせに。」
『…………かもしれない。でもきっと、後悔だけはしないと思う。たとえこの先、何があったとしても。』
「そういうの、殺し文句って言うんだよ。」
『総司だっていつも【殺す】【殺す】って言ってたんだから、おあいこよ。』
「まったく、君って子は……」
総司は名残惜しそうに、私の髪に触れた。
いつか私を置き去りにしてしまう自分を、責めるみたいに。
『……そろそろ眠ろうか。明日の為に身体休めなくちゃ。』
「そうだね……」
その後、私たちは身を寄せ合って、一時の休息をとった。
明日の戦いが終われば、明るい未来が待っているわけではない。
けれど、それでもーー。
私たちは互いに支え合いながら、雪村の里を目指す。
たとえどんな苦難が待ち受けていたとしても、総司が傍にいる限り……何も怖くない。
揺るぎないその思いが、私を強くしてくれた。
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