16
「……千華、こっち。物陰に隠れよう。」
『ええ……!』
私たちが路地裏に身を隠すと、筒袖を着た新政府軍の兵たちがこちらへと近づいてくる。
私と総司は息を潜め、彼らが通り過ぎるのを待った。
そして彼らの姿が見えなくなった時、総司は忌々しそうに息をつく。
「……まったく、江戸は一応、将軍公のお膝元じゃなかったっけ?どうしてあいつらが、我が物顔で歩いてるのさ。あんな奴ら、斬っちゃってもいいんだけど……そうすると、ますます面倒なことになりそうだしなあ。」
私たちが辿り着いた時には、江戸の様子は一変してしまっていた。
あちこちに見張りの兵の姿があり、一瞬たりとも気を抜けない。
「あともう少しだから、急がなきゃね。また、あいつらが来たら困るし。」
『……ええ。』
私たちは慎重に辺りの様子を窺いながら、隠れ家へと急いだのだった。
そして隠れ家にようやく戻ってきた瞬間、私たちの全身から力が抜ける。
「ふう、ようやく辿り着いた……ここ数日で、寿命が五年は縮んだかもしれないね。」
『…………』
【寿命が縮んだ】という言葉に、私はつい身をこわばらせてしまう。
「……そんな顔しなくてもいいじゃない。ただの冗談なんだから。お疲れ様、千華。よく頑張ったね。」
『ううん……』
以前なら考えられないような優しいねぎらいの言葉に、面映くなってしまう。
「山崎君は、いないみたいだね。江戸の状況は、明日にでも松本先生に聞いた方がよさそうかな。」
『……そうね。』
今、江戸が一体どうなっているのか、新選組の皆はどうしているのか……。
今の私たちにはさっぱり、見当がつかない。
「さて、それじゃそろそろ寝ようか。ずっと気を張ってたから、くたくただし。」
『久し振りに、布団で寝られるしね。』
江戸に戻ってくる途中は、宿を取るわけにもいかないからずっと野宿ばかりだった。
「一緒に寝てあげようか?ここに戻ってくる途中、してたみたいに。」
『っ……!』
「あれ、顔が真っ赤だよ?もしかして、何か期待してる?」
『期待って何よ!からかわないでよね……!』
「別に、からかってるつもりはないんだけど。千華って、暖を取るにはちょうどいいし。」
『…………』
もしかして、総司にとって私は、綿入れの着物とか温石みたいな物なんだろうか……。
『私、部屋に戻るね。総司も、ゆっくり休んでね。』
「はいはい、お休みなさい。」
私が立ち上がり、部屋を出ようとしたその時だった。
「ぐっ……!」
背後から苦悶の声が聞こえて、私は慌てて振り返る。
『ーー総司!?』
「ぐ、うっ……あ……!」
激痛をこらえるみたいに、総司は、自らの腕に爪を立てた。
この様子は……、間違いない。
きっと、吸血衝動だ。
血を与えれば、総司の発作は治まるはずだ。
私は、腰の脇差に手をかけたけれどーー。
『…………』
その脇差を引き抜くことが、どうしてもできなかった。
このまま、血を与えてしまってもいいのだろうか?
薫は、変若水を飲めば労咳が治ると言っていたけど……。
あの言葉は結局、嘘だった。
私の血を飲めば変若水の毒を消すことができるというのも、きっと嘘に違いない。
じゃあ……、どうすればいいんだろう?
総司は、血を飲むことをあんなに拒んでいたのに。
再び血を飲ませることは、果たして正しいんだろうか?
総司は、苦しげな息の間からこう問いかけてきた。
「……今日は、くれないの?もしかして、お預け?」
『総司……』
こんなに苦しそうな表情を見続けるのは、私だって、辛くて仕方ないけど。
『でも、私の血を飲んだところで……』
「……そっか、いいよ。君がそう言うなら、無理は言わない。外に……、出ててくれるかな?君に、みっともない姿なんて……見られたくないから……」
『っ……!』
やっぱり、駄目だ。
こんなに苦しそうな総司を、見捨てることなんてできない。
そう思った瞬間、私は腰の脇差を引き抜いていた。
そしてその刃を、手の平へと滑らせる。
『っ……!』
傷口からは、赤黒い血が溢れ出した。
私は血にまみれた手の平を、総司へと差し出す。
『ごめんね、迷ったりして。……私の血を飲んでいいよ、総司。』
「千華……」
総司の赤い瞳が、わずかに潤んだ。
そして……。
私が差し伸べた手に、彼は顔を近づけてくる。
「ん……」
彼の舌が触れた瞬間、鋭い痛みが傷口に走った。
苦しげに息を継ぎながら、総司は遠慮がちに血を啜る。
「……約束するよ。この先、どんなに血が欲しくなっても、発作でどれだけ苦しんだとしても……」
それはまるで、誓うような言葉だった。
「僕はもう、君の血しか飲まない。」
その言葉に、胸が締め付けられる。
切なくて泣いてしまいそうだった。
『総、司……』
きっとこの先、いくら血を飲ませても、彼の苦しみを完全に取り去ることなんてできない。
今まで目にしてきた、多くの羅刹隊の隊士たちのようにーーー。
羅刹の毒が少しずつ、総司の正気と体力を削り取っていくに違いない。
けれど……。
血を飲み終えた後、総司は、小さく言った。
「……ごめんね。」
『どうして、総司が謝るの?』
「だって僕は、先がない病人なんだよ?そんな僕の為に身を傷付けて、痛い思いをしてまで、血をくれるなんて。」
『そんな……私のことは、いいの。傷なんてすぐに塞がるから。それに大切な幼なじみを救うためなら別に……』
「……ありがとう。君のお陰で、正気のままでいられる。もしまた血に狂いそうになったら、今みたいに、手を貸してくれる?」
『…………』
想いが溢れてしまいそうで、私は、とっさに声を出せなかった。
だから、瞬きせずに総司の顔をまっすぐに見上げながら……。
『……私は、総司の傍にいるわ。この先、何があっても。』
さっきの言葉に応えるように、約束を結んだのだった。
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