ー和人sideー
ランカの病室までの、ほんの数十メートルは、もう無限の距離と思えた。
倒れそうになる体をシュンに支えられながら、前に進む。
L字の通路を左に折れると───正面に、白いドアが、見えた。
アスナの病室の前でシュンと向き合う。
「じゃあ……あいつの事、頼むな和人」
「ああ」
「あとでそっちに顔出すから」
俺に軽く手を振ってアスナの病室に入ろうとした。その手前でシュンが振り返る。
「なぁ、和人……」
「何だ?」
「やっと……全部終わったな」
シュンの言葉に俺は泣きそうになりながら頷いた。
そんな俺を見てシュンも泣きそうに顔を歪めたがすぐに笑顔に戻して拳を突き出す。
「オレの大事な幼なじみだ。これからはお前に預けるからな!」
「……任せろ」
笑みを浮かべてシュンと拳を突き合わす。ガツンッと音がした後、シュンは軽く手を振ってアスナの病室へと入って行った。
俺はそれを見送って歩き出す。
一歩、一歩、歩いていく。
あのときも───。
夕焼けに包まれた仮想世界の終焉から、現実世界に帰還し、ここではないが別の病室で目覚めたあの日も、俺は萎えた脚に鞭打って歩いた。
ランカを捜して、ただただ歩いた。あの道は、ここに繋がっていたのだ。
ようやく会える。その時が来る。
残りの距離が縮むと同時に、俺の胸に詰まる様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。
呼吸が速くなる。
視界が白く染まる。
しかし、ここで倒れるわけにはいかない。
歩く。
ひたすら、脚を前に出す。
ドアの直前まで達したのに気付かず、衝突しそうになって危うく足を止めた。
この向こうに、ランカが───。
もう、それしか考えられない。
震える右手を持ち上げると、汗のせいかカードが滑り落ちて床に転がった。拾い上げ、今度こそメタルプレートのスリットに差し込む。
一瞬息を止め、一気に滑らせる。
インジケータの色が変わり、モーター音と共にドアが開いた。
ふわりと、花の香りが流れ出した。
室内の照明は落ちている。窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っている。
病室は、中央を起きなカーテンで仕切られている。その向こうにジェルベッドがある。
俺は動けない。
これ以上は進めない。
声も出せない。
不意に、耳元で声がした。
《ほら───待ってるよ》
そして、そっと肩を押す手の感触。
ユイ?
直葉?
三つの世界で、俺を助けてくれた誰かの声。俺は右足を前に動かした。もう一歩。更に、もう一歩。
カーテンの前に立つ。
手を伸ばし、その端を掴む。
引く。
草原を渡る風のようなかすかな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。
「……ああ」
俺の喉から、短い声が洩れた。
純白のドレスにも似た診察衣をまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらに背を向けて暗い窓を見ていた。
つややかな長い髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝く卵型のものを抱えている。
ナーヴギア。常に少女を拘束し続けた茨の冠が、その役目を終えて静かに沈黙している。
「ランカ」
俺は、音にならない声で呼びかけた。
少女の体が大きく震え───花の香りに満ちた空気を揺らして、振り向いた。
永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ夢見てるような光をたたえている翡翠の瞳が、まっすぐに俺を見た。
何度この瞬間を夢に見たことだろう。何度、祈ったことだろう。
色の薄い、滑らかな唇に、ふわりと微笑みが浮かんだ。
『キリトくん』
久しぶりに聴く、その声。
小さい頃に聞いていた声とあの世界で毎日耳にしていた声とは大きく異なる。しかし、空気を揺らし、俺の感覚器官を震わせ、意識に届くこの声は、何倍も、何倍も素晴らしい。
ランカの左手がナーブギアから離れ、差し伸べられた。それだけでかなりの力を使うのだろう、わずかに震えている。
俺は、雪の彫像に触れるように、そっと、そっと、その手を取った。痛々しいほど細く、薄い。
しかし、温かい。
あらゆる傷を癒していくように、触れ合う手から温もりが沁み込む。
不意に脚の力が抜け、ベッドの端に体を預けた。
ランカは右手も伸ばすと、おそるおそる俺の傷ついた頬に触れ、問いかけるように首を傾けた。
「ああ……最後の、本当に最後の闘いが、さっき、終わったんだ。終わったんだ……」
言うと同時に、俺の両眼から、ついに涙が溢れた。
雫が頬を流れ、ランカの指に伝い、窓からの光を受けて輝く。
『……ごめんね、まだ音がちゃんと聞こえないの。でも……解るよ、キリト君の言葉』
ランカはいたわるように俺の頬を撫でながら、囁いた。その声が届くだけで魂が震える。
『終わったんだね……ようやく……ようやく……きみに、会えた』
ランカの頬にも、銀に輝く涙が伝い、零れ落ちた。濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっと俺を見て、言った。
『久しぶり、一ノ瀬、沙稀です。───ただいま、キリトくん』
俺も、嗚咽をこらえ、応えた。
「桐ヶ谷和人です。……おかえり、ランカ」
どちらともなく顔が近づき、唇が触れ合った。軽く。もう一度。強く。
腕を、華奢な体に回し、そっと抱きしめる。
魂は、旅をする。世界から世界へ。今生から、次の生へ。
そして誰かを求める。強く、呼び合う。
昔、空に浮かぶ大きな城で、剣士を夢見る少年と、料理が得意な少女が出会い、恋に落ちた。
彼らはもういないけれど、その心は長い長い旅をして、ついに再び巡り合った。
俺は、泣きじゃくるランカの背をそっと撫でながら、涙で揺れる視線を窓の外に向けた。
一際勢いを増して舞い散る雪の向こうに、寄り添って立つふたりの人影が見えた気がした。
背に二本の剣を背負った、黒いコート姿の少年。
背に二本の剣を背負った、桜色の和服で白地の羽織の少女。
二人は微笑み、手を繋ぐと、振り向いてゆっくりと遠ざかっていった。