◇
「俺は――」
「長谷川先輩? まだいらっしゃったんですか」
執務室から出て来た鴨原は、扉のすぐ側にいた光にぎょっと目を剥いた。次いで、穂積の存在に気付き慌てて頭を下げる。
「お疲れさまです、穂積会長」
「鴨原も残っていたのか。あまり無理はするなよ」
第三者の登場に口を閉ざした光とは反対に、穂積は労いの言葉をかける。現生徒会長の鴨原に対する評価は、悪くないようだ。
互いに立場を弁えた儀礼的な会話を続ける二人を前に、光は複雑な気持ちでいた。
穂積は新副会長方の抱える問題を把握していた。光が説明するまでもなく、仁志から報告を受けていたのだろう。彼の口ぶりからすると、どのような対処を行っているかも知っているに違いない。
すべて承知の上で光に声をかけ、挑発的な態度で言いがかりをつけた。投げつけられたセリフを思えば、理由は明白だ。
沈黙する光を不審に感じたのか、鴨原はちらりと穂積を盗み見てから一拍の後、頬を強張らせた。
どうやら、自分がまずい現場に踏み入ったと悟ったらしい。見る間に顔から血の気が失せていく。
「お話し中に失礼しました。俺は先に――」
「二人とも明日も早いだろう。気をつけて帰れ」
鴨原に最後まで言わせることなく、穂積は「おつかれ」の一言を残してエントランスへ続く階段を下りて行った。
玄関扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
「あの、すみませんでした」
謝罪の言葉は、十分過ぎるほど間を置いてから紡がれた。
「え? あぁ、いや。こっちこそ変なところを見せた」
気まずさを隠し切れない様子の後輩に、光は苦笑した。
鴨原は聡い。年齢に見合わぬ落ち着いた態度は、冷静な眼差しで状況を見極める聡明さから来ている。光と穂積の間に流れる、重苦しい空気に気付くのは当然だ。
それに罪悪感を覚える生真面目な性格を、普段ならば好ましく思ったに違いない。
「……仕事、一区切りついたんだな」
鴨原は学院指定のダッフルコートを着こみ、手にはスクールバッグを持っていた。
光が執務室を出るときには、もうしばらく居残ると言っていたはず。口元に浮かべた微笑みが、さらに苦くなる。
「ごめん。俺が残っていたら、帰りづらいよな。今度から気を付けるよ」
「お気遣い頂いて申し訳ないのですが、明日、改めて取り組んだ方が効率的だと思い直しただけですよ」
「ならよかった。せっかくだし、寮まで一緒に帰るか」
彼の言葉を鵜呑みには出来ないが、掘り下げるのは逆効果だ。周囲への配慮を欠いていたと内心だけで反省しつつ、光は階段を下りた。
外は凍てつくような寒さで、冷気に撫でられた頬が一瞬で硬くなる。思わず漏らした吐息が白い靄になり、夜の空気に滲んで消えた。
他に人影のない煉瓦道を、二人並んで寮まで歩く。
互いに口数の多い方ではないが、無言になるのは珍しい。話題を振るべく考えを巡らせていると、鴨原が口を開いた。
「なにかありましたか」
「なにかって、なにが?」
「穂積会長と」
まさか踏み込まれるとは思わなかった。
驚きのあまり足を止め、まじまじと対面の瞳を見つめてしまう。
「……鴨原って、そういうタイプだっけ」
「場合によっては」
自分でも「らしく」ないことをしている自覚はあるのか、彼は決まりが悪そうに笑う。
一方で、その視線は光に据えられたまま。じっと答えを待っている。
誤魔化しは通用しないと観念して、光は密かに深呼吸をした。
「副会長方の件で、少し話を訊かれただけだよ」
「叱責でも?」
頭を振って否定する。
確かに穂積の態度はいつになく攻撃的だった。苛立っていたのも事実だろう。
だが、言葉に込められた想いが分からないほど、光は愚かではない。
「一人で抱え込むなって言われた」
穂積は光を心配していた。
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