ケの日
綾人はその日、俺が眠りに落ちるまでに戻ってこなかった。メイドに尋ねると、夜の11時頃に戻ってきたという。あいつは何してたんだと詰問すれば、メイドには教えてくれなかったそうだ。
次の日の朝早く、挨拶もそこそこに綾人に詰め寄れば、表情一つ変えずこう言い放った。
「迷った」
「はあ?」
「自力で帰ることになったけど、道を忘れた」
「それで真夜中までふらついてたのか?誰かに道を聞かなかったのか?」
綾人は肯いた。俺は愕然とした。何より恐ろしいのは、本人に全く危機感がないところだ。
「お前馬鹿か!?都会は田舎なんかよりずっと犯罪率が高いんだぞ!?女みたいな顔のお前が深夜に出歩いてたらものの5分で犯罪に出くわすぞ!」
「出くわさなかった」
「たまたまだろ!?電話ぐらいかけてこい!心配をかけさせるな!」
「電話を持っていない」
「公衆電話があるだろ!?」
「知らない」
「…はあ!?」
田舎には公衆電話が無いのか。いやそんなことはどうでもいい。頭が痛くなってきた。
俺は床にしゃがんで大きな溜め息をついた。なんだこの脱力感。
「…お前は都会に関して本当に無知なんだな…わかった。ついてこい。今日は日曜だから学校ないだろ」
「どこかに行く?」
「携帯を買ってやる。これでいつでもどこでも連絡が取れるだろ。もうこんな馬鹿な真似はするなよ」
執事に頼んで車を出してもらった。10分も走らせれば大型ショッピングモールに到着する。その中の一つ、俺が以前携帯を買った店に入ることにした。
「いらっしゃいませ。まあ、御堂様。本日はどんなご用件でございましょうか」
俺は父さんと一緒にしょっちゅう取材やインタビューを受けているので、それなりの知名度がある。数ヶ月ぶりに来たこの店でもばっちり顔を覚えられているようだ。
俺は周りを物珍しげに見渡している綾人を指差した。
「こいつに携帯を新しく買ってやろうと思ってる。最新機種でGPSがついているのを見せて欲しい」
「かしこまりました。こちらの列が最新機種になります。どれもGPS搭載ですが、他に機能やデザインでのご要望はございますか?」
「そうだな…おい綾人、どの携帯がいいかお前が選べ」
「選ぶ?」
「お前が持つんだから当然だろ。この列から選ぶんだぞ」
「お客様、こちらがカタログになります。参考にご覧ください」
店員が綾人に分厚いカタログを渡した。俺は綾人に品定めを任せて、カウンターに座って新規購入の手続きを進めることにした。必要な物は執事が全て持参してきている。
30分は経っただろうか。料金プランも名義も口座も指定して、あとは機種だけになった。ずらりと並んだ携帯の前に立ちカタログを眺めている綾人に声をかけた。
「綾人、どれに決めたんだ?」
「決めてない」
「…候補は?いくつかには絞れただろ」
「絞ってない」
「……」
こいつは優柔不断なのか。30分かけても何一つ決まらない。最初に会ったときに感じた不快感を捨て去る努力を今現在しているわけだが、こいつとは根本的に馬が合わないかもしれない。いや待て。俺は苛立ちをぐっとこらえた。
「今までに携帯を持ったことはあるか?」
「ない」
やっぱり。テレビが無い家なら携帯が無くてもおかしくはない。携帯普及率は200%を超えようというのに、綾人の家はかなり時代遅れなのだろう。機種を決められなくても当然かもしれない。俺が決めてやらなければ。
「デザインの好みはあるか?」
「デザインとは?」
「ごついとか、大人っぽいとか、シンプルとか」
「……」
「じゃあシンプルなのにするぞ。後で文句は言うなよ」
「言わない」
「色は何色がいいんだ?」
「白以外」
「…白?」
そういえば部屋を決めるときも白が少ないからとか言っていた。綾人は白が嫌いなのか。ちゃんと好き嫌いがあるのだと思うと不思議な気分になった。
「何か欲しい機能はあるか?」
「無い」
「ならこれにするぞ。いいな」
俺は数ある携帯の中の一つを指差して店員に告げた。
綾人を見なくても、あいつが首を縦に振っているのは簡単に想像できた。
ついでにストラップも一緒に買って、常に肌身離さず持っているよう綾人に念押しした。
「もしお前が夜遅くに帰って来なかったらGPSですぐに居所が割れるからな」
「…わかるの?」
綾人は戸惑ったような情け無い声をあげた。会って二日しか経っていないが、その間ずっと無表情だった綾人が初めて表情を変えた瞬間だった。捨てられた兎のように見えた俺の目は腐ってる。
「いや、ちゃんと帰ってくると約束するならGPSは使わないから」
「…そう」
帰りの車の中で俺は綾人に話しかけた。
今日綾人と会話している間、ずっと気にかかっていることがあったのだ。
「なあ綾人、俺に何か言うことはないか?」
「ない」
即答しやがった。いっそ清清しい。だがこれだけは言わねばならない。
「俺に心配かけただろ。謝ったのか。それに、人に何かをしてもらったら感謝しないと駄目だろ。俺はまだお前から何も聞いてない」
「誰も心配しない」
「したって言ってるだろ!俺は、お前が帰ってこなくて、寝付けなかったんだ。父さんは気にするなって仰ったけど、そんなの無理だ。本当はずっと起きてるつもりだったのに、途中で…とにかく、悪いことをしたと思ってるなら、ごめんなさいって言わないと誰もお前を気にかけなくなるぞ」
「ごめんなさい」
「ありがとうもだ」
「ありがとう。これずっと持ってる」
「あ、ああ。当たり前だ」
綾人は買ったばかりの携帯を胸元でぎゅっと握りしめた。
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