詰め込み処


 きつねのよめいり



【報告書 指定特級呪霊『妲己』に関して】
2005年 2月13日 聖カンテマリア女学院 中等部校舎にて指定特級呪霊『妲己』が出現
同日 高等部校舎にて三級呪霊四体が出現 三級呪霊の除霊には呪術高専一年の五条悟、夏油傑が向かう
一級呪術師到着前に妲己による結界が展開され、五条悟、夏油傑二名が結界内にて妲己に応戦
辛うじて生存するも、手負いの妲己が逃走し聖カンテマリア女学院中等部所属の女生徒に憑依
被憑依者の紺野おなまえが妲己の自我を封じ込め、事態は収束
特級呪霊を取り込んだ紺野おなまえはそのまま身柄を拘束され、査問会でその処遇を決定


細かい文字がびっしりと記された書類が、男の白い指によってビリ、と乾いた音を立てる。ビリ、ビリ、と何度も繰り返し千切られた紙は数え切れないほどの紙片になり、薄暗い部屋の中をヒラヒラと舞った。まるで桜が散っているかのような光景に、女は何故か胸に穴が開くような寂しさを感じた。

透けるような白髪を揺らした男――五条悟が感情のこもっていない声で「ほら、これで僕たちの関係はおしまい」と告げる。その声は家具の少ない部屋の中に木霊し、そして女の耳を揺らした。


――時は、2週間前に遡る。



***



「うっ、ぐす、ふえ」
「キツネのコンちゃん、まぁた呪霊に泣かされたの?」

地面に蹲ってメソメソと嗚咽を上げる女――紺野おなまえは、頭上から聞こえてきた軽薄な声色に顔を上げる。190cmは超えようという長身の男、五条悟が紺野を見下ろし「やっ」と短く挨拶をした。

「今回の呪霊は僕の付き添いも必要なしって言われたくらいの低級だったんでしょ? 報告聞いた限り、そんなにグロテスクでもなかったみたいだし」

実は、任務を終えたおなまえが泣きながら帰還するのは今に始まったことではない。おなまえは呪術師でありながら、呪霊の類が大の苦手なのだ。任務はきちんとこなして来るが、その後のフォローに一苦労する…と時に五条は語る。

「と、突然、タンスの中から飛び出して来たんですよ、心臓止まるかと」

小柄なおなまえがこうして涙を浮かべている姿は、五条は震える小動物のようであると常々感じていた。とある事情で彼女の監視役をしている五条は、白い頬と鼻先を赤く染めて泣きべそをかくおなまえを宥めるのも手慣れたものだった。

「アハハ! 心臓止まったら困るね。『ソレ』じゃあ心臓マッサージも効かなそうだしねぇ」

ソレ、と言いながら彼がアイマスク越しに視線を向けたのは、おなまえの呼吸に合わせて上下する胸。彼女の豊かな双丘をからかうような五条の態度に、おなまえはムッとした表情で「デリカシー…」と文句をたれた。

「ごめんごめん。でも、ホラ、涙止まったでしょ?」
「もう少し紳士的に止めてほしいんですけど、五条先輩」
「コンちゃん泣き虫なんだもん。手っ取り早いに越したことは無いじゃん」

おなまえが目尻に溜まった涙を袖で拭うと、五条は「あーあー」と声を上げながらしゃがみ込む。そして赤く火照ってしまったおなまえの目尻に親指の腹を優しく当て、涙を掬い取った。

「こすっちゃダメって言ってるじゃん」
「…すいません」
「じゃ、次の任務は一緒に行こっか。それなら怖くないでしょ」
「いや普通に怖いです」

彼女の呪霊に対する恐怖は本能的なもの。それ故、たとえ傍に居るのが最強の名を持つ五条悟であれ見習い呪術師であれ、怖いことには変わりないのだ。五条は仕方のないような表情で微笑みながら「…大丈夫、十年前の二の舞にはならないよ」と静かに言った。



十年前、五条悟が呪術高専一年生として三級呪霊を祓う任務にあたっていた時のことだった。
事件の発生現場――カトリック系の中高一貫校である聖カンテマリア女学院の高等部校舎に、三級呪霊が四体出現したのだ。五条と、彼とともに任務にあたっていた夏油傑にとって、この三級呪霊は大した障害ではなかった。

呆気なささえ感じられるほどの手際で呪霊を祓った彼ら。目的を果たした二人が帰路につくその時だった。すぐ隣の中等部校舎から、異様なまでに禍々しい気配を感じ取ったのだ。その気配は驚くほどのスピードで二人の若き呪術師の元まで移動し、その姿を顕にした。

黒く光る体毛のせいで全容が見え難かったが、五条の目にははっきりとその姿が映っていた。金色に光る妖しい瞳、獣のように鋭く伸びた爪、最初は影そのものが動いているかのように見えたが、五条が小さく「妲己…」と呟くのを聞いて夏油にもその正体が分かった。
指定特級呪霊『妲己』が、この聖カンテマリア女学院に現れたのだ。千年近く生き長らえている呪霊であり、その呼び名は様々だが。日本では九尾・玉藻の前と同一視されることもあるほどのメジャーな呪霊。もちろんその呪力の強大さは折り紙付きで、およそ一年生に太刀打ちできる相手では無い。

――この二人が、普通の呪術師であったのならば、だが。

五条と夏油は協力の末に妲己を追い詰め、あと一歩というところまで攻めた。
しかし決定打を与える寸前に妲己は逃げ出し、中等部校舎の中を駆け巡る。そんな折に『帳』を超えて現場に足を踏み入れてしまった、不運な女子生徒が居た。それがこの、紺野おなまえなのであった。

とある事情により特殊な体質である彼女は、帳を始めとする結界術が殆ど効かない。聞こえは良いかもしれないが、結界とは主に何かを守るためのものである。この『帳』も一般生徒が巻き込まれないようにと展開されたものだったのだが、おなまえはそれを無意識のうちにくぐり抜けてしまった。
そしてもう一つ、幸か不幸か紺野には高い呪力が備わっていた。そんな格好の餌食を見つけた妲己が取った行動…それは、おなまえに憑依し自分の身を守ることであった。

そこから先は五条にも何が起きたかは分からなかった。確かに妲己はおなまえに憑依し、一時はおなまえの体に妲己の呪力が移った。のだが、数分後には地に伏せたおなまえだけがその場に残り、妲己の気配はどこからも感じられなくなった。

結果的に紺野おなまえは助かり、その身柄は呪術高専の預かりとなって監視を受けながらも呪術師としての修練を積んだ。それから十年間にも渡る長い監視期間、五条は「過去の自分の尻拭いだ」と言っておなまえの監視と保護を一手に担っているのだった。
十年も行動を共にしている五条とおなまえの間に情が湧くのも、当然といえば当然のことで。こうしておなまえにだけ見せる優しい笑みも、彼を知る人ならばすっかり見慣れた光景である。

「君に憑依したまま十年間もだんまりを決め込んでいる妲己。そいつがいつ目を覚ますか分からないからね、上の人たちから『目を離すな』ってキツぅ〜く言われてるんだよ。僕」

だから、君から目は離さない。つまり君は絶対安全だ。そう言っておなまえの頭をさらりと撫でた五条。おなまえはようやく納得し「そう、ですね。頼りにしてます」と小さく返答した。



***



それから2週間後、五条悟は唐突にとある決定事項を言い渡された。
【紺野おなまえに憑依した妲己の消滅を認定、監視期間を終了とする】

そう切り出された話の内容はこうだ。おなまえの中で眠っているとされていた妲己が十年間に渡り一度も顕現しなかった為、万が一に備えた封印術式を彼女の体に刻み込み、以後はそれで管理する。五条悟は監視の任から外れ、通常の任務にあたるように、と。

十年という月日によって妲己への恐怖を忘れた上層部は、この五条という男を動かしたくて仕方がなくなったのだろう。何せ彼は『最強』の名の通り、現存するどの呪術師とも比べ物にならないほどの才覚を持っている。そんな彼を紺野おなまえという存在の監視役で燻ぶらせておくのは惜しいと思ったのだろう。

…無論、五条悟は監視の任にあたりながらも他の任務をこなしている。その上教職者としても働いているのだ、これ以上働かせようとする者たちのなんと強欲なことか。
その決定に、五条は珍しく食い下がった。しかし上層部は首を縦に振らず、無感情に「これは決定事項である」と言うだけ。何も命を奪うわけではなかろうに、とでも言いたげな様子だった。

五条はおなまえの元まで通告書を運ぶ傍ら、ひどく不機嫌そうな表情で「業突く張りのクソジジイ共め」と呪詛でも吐くかのように呟く。
おなまえの処遇を勝手に決められたことも、自分の仕事を取り上げられたような気分になったことも、五条にとっては不快でしかない。それに加え、彼にとって紺野おなまえと共に過ごす時間はある種のストレス発散だったのだ。

呪力を持った呪術師のくせに、どこか清廉な空気を醸し出す臆病な彼女が。
不安そうに周りをきょろきょろと見回し、五条を見つけた時の安心に満ちた表情が。
2歳年上の自分を律儀に「五条先輩」と呼び続ける生真面目なところが。
何もかも自分とは正反対の彼女からは刺激と安らぎ、そのどちらも与えられている。
その何もかもが目の前で掠め取られたかのようで、五条は内心穏やかではなかった。

重い足取りであっても、彼の脚であればものの数秒で目的地に到着してしまう。五条は「はぁ」と短くため息を吐き、そしておなまえの部屋に入った。


「やっほー、いいかな?」
「開ける前に聞いてくれませんか、それ」

じと、と不服そうに五条を睨みつけるおなまえの表情に、今まで胸をざわつかせていた感情が少し落ち着きを取り戻す。そして、先程上層部の人間から聞いた内容をそのままおなまえへと伝えた。
五条の話を聞きながら通告書に目を通したおなまえは、しばらく考え込んだあと何食わぬ顔で「はい、承知しました」とだけ言った。

「なんか、アッサリしてない? ホントにそれでいいの? 寂しいなぁ〜」
「それでいいのかって言われましても、決定事項、ですよね」

五条は、己の中に膨れ上がったこの感情が『落胆』であることに気付いた。もしかしたら拒否してくれるかも。心細い、寂しいと、任務終わりのようなぐずぐずの顔で泣いてくれるかも。そんな期待とは裏腹に、おなまえの反応は酷くあっさりとしたものだった。
…なんだ、惜しんでいたのは自分だけだったのか。そう思った五条が取り出したもう一枚の紙、それはおなまえと五条が出会った際の『聖カンテマリア女学院』での報告書であった。

「ま、そうだね。上層部の決定だし、何を言っても結果は覆らないさ。高専に対しての忠誠心を示すため、これまで苦手な呪霊を頑張って祓って来たかいがあったねえ」
「あ、それ…」
「これで監視役の僕が君に付き纏う必要もなくなった訳だ、おめでと」

ニコ、と上っ面の笑みを浮かべた五条は突然その報告書を真っ二つに裂き、もう一度、更にもう一度と報告書を千切って行く。ビリ、ビリ、と乾いた音が部屋に響くたび、少しずつおなまえの表情も濁っていくのが分かった。

「あ、あの…何か怒って、ます…?」
「何で僕が怒るのさ。ほら、これで僕たちの関係はおしまい」
「関係、って。別にどうこうなるわけでも無いと思いますけど」
「どうして? 僕と君は監視対象と監視役っていう関係性だったじゃない。こうしてお役御免になったんだから、これにておしまい、チャンチャンってね」

胸に浮かんだ悔しさを当て擦るように、五条は「監視対象と監視役」という言葉を強調した。確かに最初こそ彼が言うとおりの関係性だっただろうが、それだけかと言われれば真実ではない。
同じ呪術高専で修練を共にし、卒業後は呪術師になり、仲間として友人として接してきたはずだ。
しかし五条の口ぶりは、まるでそんな事実はなかったとでも言わんばかりだった。彼が何やら苛立っている事を察したおなまえは、困ったような悲しいような表情を浮かべて「なんです、それ」と小さく言った。

「何イラついてるのか分からないですけど…今の先輩、すごく意地悪です」
「ええ? 僕、結構優しい部類だと思うんだけど」
「…もう、無関係なら帰ってください。今までありがとうございました、五条悟さん」

小さな唇をキュッと結んでそう言うおなまえは、五条の体を部屋の外に押し出して扉を閉じる。宿舎の通路に締め出されてしまった五条の胸には「やってしまった」の一言だけが堂々巡りしていた。
つい数分前までは断りも無く気安く掴むことのできたドアノブが、今や決して触れてはならない物に見える。なぜあんな言い方をしてしまったのか。彼女が言ったとおり、あれではあまりにも「意地悪」だった。

「なぁにやってんだろうね、僕は」

深い深い溜め息を吐き、五条は静かに歩き出した。今のは自分が大人気なかった、明日の任務を片付けたらすぐに会いに行って、謝ろう。優しい彼女のことだ、虫の居所が悪かったと言ってきちんと謝れば許してくれるはずだ。
明日以降、彼女の可愛らしい声が「五条さん」などという冷たい響きを奏でないように。そう願った五条は、再び深い溜め息を吐いてから自室への道をゆっくりと歩んだ。



***



それから三日後。五条は任務に次ぐ任務で、呪術高専に帰還できないまま呪霊を祓い続けた。
つい先程それも片が付き、彼はようやく自身の住処に帰ることが出来た。先延ばしにしてしまったが、おなまえはどうしているだろうか。少しでも怒りが収まっていれば良いのだが。

自分用ではないお土産袋を片手に歩く五条の背中に「五条さん、丁度いい所に」と深みのある声が投げかけられた。

「あれ、七海じゃん」
「緊急事態です」

およそ緊急事態とは思えないほどに落ち着き払った様子の七海だが、彼はそういう人間だ。緊急事態とは何だと五条が話の続きを促すと、七海は小声で「妲己が目撃されました」と告げる。

「…はあ?」
「アナタの監視が外れた矢先にです。上層部が紺野おなまえの身柄を拘束し、つい先程から尋問が始まりました」

そんな筈は無い、と五条は思った。この十年間、彼女の中からはただの一度も妲己の気配はしなかった。この五条悟に対して一切の不審さも感じさせずに特級呪霊を隠し続けるだなんて、並大抵の人間には不可能だ。そう思ったのは七海も同じだったようだで、彼は「他に可能性があるならばさっさと提言しに行ったほうが良いでしょうね」とクールに言った。

「可能性もクソも無いけど、とりあえず行ってみるよ。ああ、それあげる」
「はあ? うなぎパイ…?」

袋に印刷されたロゴを読み上げた七海が「要りませんよこんな物」と呟く。しかし五条は既に動き始めており、ものの数秒でおなまえが尋問を受けているであろう取調室へと到着した。

平静を装った五条が取調室に入室すると、部屋の真ん中で夥しい数の封印術によって拘束されたおなまえの姿が目に飛び込んできた。小柄な彼女の体は肌が見えなくなる程の札に覆われ、その双眼までもが術式によって封じられている。手荒に拘束されたのだろう、時折札の隙間から赤く変色した火傷痕のような傷が垣間見えた。

聴覚だけが頼りだったおなまえは扉の開閉音に怯え、びくりと体を震わせる。恐怖に慄く彼女は息が上がり、そしてか細い声で「ほ、本当に…わかりません…本当です…」と言う。

「コンちゃん」
「あ、あ、五条、せんぱい、違うんです、私、本当に」
「大丈夫、落ち着いて。もう意地悪しないから」

五条は最大限の柔らかい声でそう告げる。細かく震えるおなまえの頬に触れ、ゆっくり、ゆっくり、まるで眠っている子猫の頭を撫でるかのようなタッチで指を滑らせた。

「怖かったね、痛みはどう? 必要なら硝子を呼ぼうか」
「い、いえ…大丈夫です」
「そ。無理しちゃだけだからね、痛かったら言うんだよ」

五条の優しい声色と肌の感触に、おなまえはほんの少しだけ安堵の息を吐く。そして五条は表情を一変させて「彼女の無実は僕が保証する。とはいえ、現時点では無実の証拠は提示できない。だから、解放しろとまでは言わないけど…もう少し人権守ってあげてくれる?」と言った。
言葉自体は懇願するかのような口ぶりだったが、明らかに怒気を孕んだ声色が取調べ中の呪術師たちの耳を震わせる。
中にはおなまえの監視を十年間続けてきた彼の言うことならば、と僅かに同意を匂わせる態度になる者も散見できた。

「それから、この件は僕が担当するよ。もしも本当に妲己が存在した場合、特級呪霊に即対応できる人材は限られてる。構わないかな」
「…相分かった。ではお前に一任するとしよう、全貌が明らかになるまで被憑依者である紺野おなまえは結界の中に入っていてもらう」

つい三日前には「妲己の消滅を認める」だの何だの言っていたくせに、これだ。五条は内心で「僕が監視していれば彼女に疑いがかかる事もなかったろうに」毒づいたが、ここで彼らの機嫌を損ねても都合が悪い。「どうも」といつもの口調で礼を述べるだけに留めた。

「コンちゃん、僕が事件について調べてくる間、結界の中で我慢できるね」
「あう…は、はい…ありがとうございます、五条先輩…」
「あは、また先輩って呼んでくれて嬉しいなあ」

おなまえの視界を封じていた術式を、まるでホコリでも取り払うように消し去った五条。その術式の向こう側からぐずぐずに溶けた陽だまりのような金眼が露わになり、縋るように五条を見つめる。
いや、正真正銘、彼女は縋っていた。
この部屋で唯一人、自分を信じてくれる可能性を持つものを。五条悟ならば自分の無実を証明してくれるはずだと。次から次へと涙が零れ、終いには瞳ごと溶けてしまうのではないかとさえ思ってしまうような泣き顔。
五条はその涙をいつかのように優しく拭い、そして臓腑の底から謎の高揚感がせり上がって来るのを感じていた。

「そんなに泣いたら脱水症状になっちゃうぞぉ?」
「う…せんぱ、五条先輩、わたし」
「じゃあ、行ってくるから。いい子にしてるんだよ」

そうして五条が踵を返したその瞬間だった。その部屋に居た数名の携帯電話が一斉に鳴り響き、部屋の中が突然騒がしくなった。これだけのお偉方が集まっている部屋で同時着信…と五条は何らかのアクシデントが発生したことを察する。
間を開けず五条の携帯電話も着信音を響かせ、彼が通話ボタンを押した瞬間に「五条さん、特級呪霊『妲己』の出現が確認されました!」という伊地知の焦った声が響いたのだった。

「妲己、だって?」
「場所は聖カンテマリア女学院、現場には強固な結界が張られています!」

出現場所、シチュエーション、どちらも十年前の事件と全く同じ。ここに居る誰にも、今何が起きているのかは分からない。だが、一つだけ断言できることがあった。

「ということは、彼女は無実ってことだ。そうだろ?」
「…そう、認めざるを得ないな」

リアルタイムで妲己は出現している。しかし術者では無いかと疑われていたおなまえは、呪術師複数名が施した強固な封印術式によって身動き一つ取ることが出来ない。そして、彼女の体のどこにも妲己と思わしき残穢は確認できない。無実の証明というのは厄介なものであるが、裁判でもなし、こうして状況証拠さえ揃えば紺野の無実は立証される。
おなまえを取り囲んでいた呪術師たちは次々にその術式を取り払い、数秒も経たぬうちにおなまえは自由の身となった。


「じゃ、そういうことで…僕は妲己本体を叩かないとね」
「あの、五条先輩! ご相談が!」
「うん? どしたの、コンちゃん」
「聖カンテマリア女学院、私も同行させてくれませんか?」

普段呪霊の類を怖がるおなまえにしては珍しい懇願だと、五条は素直にそう思った。彼が理由を求めていることを察したおなまえは、五条が疑問の言葉を発する前に志願の訳を口にする。

「十年前も、妲己の結界は張られていたんですよね。当時任務にあたってくださった五条先輩含め、誰もその結界を通り抜ける事ができなかった。けど、私だけは突破できました。何か理由があるんじゃないか、私でも役に立てるんじゃないかって思って」
「なるほどねぇ、言われてみればそうだった。現場に到着して『入れませ〜ん』じゃ話にならないし…オッケー、着いてきて良いよ」

おそらく五条ならば結界を打ち破るなど造作もないことだろう。十年前の彼が苦労したのも事実だが、彼とて当時から大きく成長しているのだから。しかし、突破口を開く手段は多いほうが良い。妲己はおなまえにも関わり深い呪霊であるし、連れて行って損はない筈だ。五条はそう思案した。
上層部面々もつい今しがたまで冤罪を被せていたという後ろめたさがあったのだろう、彼女の同行はあっさりと許可された。

「久々の共同任務、張り切っていこうか」
「はい、先輩!」

先程までの涙はどこへやら、おなまえはキッと強い眼差しを携えて立ち上がる。その姿はまるで勇ましい表情を浮かべる小型犬のようにも見えたが、五条はフッと僅かに笑みを浮かべるだけにしたようだ。



***



聖カンテマリア女学院に到着した五条とおなまえは、学院の敷地を覆い尽くすほどの結界を見上げた。黒く禍々しいその結界は五条の感覚からしても「面倒そうだ」と感じるものだった。

「そういえばこの学校、コンちゃんの母校だよね。どんなとこ?」
「はい…カトリック系の女学院なんですけど、うーん、いじめが酷かった記憶しか無いです」
「うわ怖。女の世界ってやつ?」

わざとらしく身震いして見せる五条に、おなまえは乾いた笑いを浮かべながら「そのとおりです」と肯定の言葉を紡いだ。

「そりゃもうすごかったですよ。妬み嫉みの嵐で、そりゃ呪霊も発生するよねって感じです。女学院かつ寄宿学校で、そのうえ中高一貫ですから。6年間ネチネチしっぱなしです」
「おっかないね〜。女の情念が詰まった場所ね…妲己を呼び寄せちゃったのも納得」

五条が結界に触れながらウンウンと何度も頷く。その手は黒い結界に阻まれ、まるで分厚い壁とおしくらまんじゅうをしているような様子であった。対するおなまえはというと、一切の抵抗も受けぬままスルリと腕が飲み込まれていく。

「やっぱり入れる…でも、私だけ入れても仕方ないですね」
「うん、どうにかこうにか出来そう? コンちゃん、戦いは下手っぴだけど結界術は成績良かったじゃん?」
「ぐっ…舐めないでくださいよ」

おなまえは目を閉じ、水面に触れるかのように結界の輪郭を撫でる。
結界に組み込まれている術式を解析し、上手く反転できるように自身の呪力を流し込む。やがて結界はパチパチという小さな音を立て、僅かなひび割れを見せた。

「おおー、成長したねえ!」
「…私が、この土地と妲己本体に縁があるからでしょうか。いつもより解析がしやすくて」
「結果良ければ全て良し、結界を破れればそれで良いんだよ」

おなまえに向かって優しげに微笑む五条。その表情にいつぞやの意地悪な雰囲気は無く、おなまえもふっと口元を緩ませた。「さあて、これなら苦労せずこじ開けられそうだ」と五条が結界に触れようとしたその時だった。
黒い結界に触れていたおなまえの腕が、内部から何者かに引っ張られたのだ。人間のものとは思えない膂力で引かれたおなまえの体は一瞬のうちに結界の中へと引きずり込まれてしまった。五条は瞬時におなまえの片腕を掴もうと試みたが、あまり強く引っ張ればおなまえ自身に外傷を与えることになると思いとどまった。それほどに、彼女の体を引いた『何者か』の膂力が凄まじかったのだ。

「流石に一筋縄じゃいかないか」五条はそう呟き、そして先ほど紺野が作り出してくれた結界の割れ目に掌を翳す。一瞬の間に結界からバチバチという激しい音が鳴り、そしてあれだけ強固に見えた結界が薄いガラス板のように砕け散った。

「さあて、人のモンに手を出すような行儀の悪い獣、しっかり躾けてやらないとね」



***



「う、ぐ」

結界の内側から思い切り引っ張られたおなまえは、気がつくと冷たいリノリウムの床の上に放り投げられていた。肩が酷く痛み、そこが脱臼しかけていることに気付く。
おなまえはうめき声を上げながら辺りを見回し、床一面に夥しい数の女生徒が倒れ込んでいる事に戦慄した。そして、僅かな衣擦れの音がおなまえの耳に飛び込んでくる。

「だれ、そこにいるの、五条先輩…?」
「んふふふ、あのような雄とわらわを一緒にするでないわ」

耳を甘やかにとろけさせるような、蠱惑的でいて蜜のごとくベットリと粘着質な声。おなまえはそれが『妲己』であると瞬時に察した。

「あなた、妲己」
「久しいのう、わらわのチカラを奪った娘よ。また会えるとは、僥倖、僥倖」

暗がりの中からゆっくりと姿を現したその呪霊は、紺野が十年前に見た姿とはまるで違っていた。黒い着物に身を包んだ絶世の美女風の呪霊、そう表現するのが最も分かりやすいだろう。
フサリと豊かな毛を蓄えた尻尾や鋭い爪と一体化した指。呪霊らしい異形は散見できるが、赤い瞳は柘榴の果実のようで、彼女が動くたびに揺れる衣からは甘い香りが漂う。
これはたまらなく感じる男もいることだろう、とおなまえはぼんやりと濁る頭で考えた。

「ふふ、ふふ。ぬしにはわらわから奪ったものを返してもらわねばのう」
「なんで…私の中で眠っていたんじゃなかったの?」
「ほほほ! おぬしの中に居ては、わらわの自我すらも喰われてしまおうよ。ぬしにチカラを奪われ、消える手前でかろうじて逃げ果せた。チカラを奪われたのが福と転じ、小僧らの追跡を免れたのだがな」

不幸中の幸いとはこのことであるなぁ、と言いながらコロコロ笑い声を上げる妲己。おなまえは機嫌の良さそうな妲己に「十年もここに潜んでいたの?」と再び話しかけた。

「むしろ、この場所であるから十年やそこらでこの身を取り戻すことが叶ったのじゃ。小娘どもと侮っていたが、その身に抱える嫉妬、怨恨、情念は中々のものであった。わらわの身によく馴染んだわ」
「ああ、なるほど…納得しました」
「もう問答は終いか? 十年ぶりに顕現が叶ったのじゃ、今のわらわは機嫌がすこぶる良いのだぞ」

だから問答を続けろということなのだろうか。おなまえはボロボロの身を顧み、そしてここは妲己の言うとおりにしておいた方が良いと判断した。

「では、お言葉に甘えて…あなたの結界が私に効かなかった理由が知りたい。なぜ、十年前の私はあなたの呪力を取り込むことができたんでしょうか」
「…もしやおぬし、自分の血を知らぬのか。げに憎きウカノミタマの血が流れているのだ、おぬしには」

ウカノミタマ、その名前には僅かに聞き覚えがあった。豊穣の女神であり、伏見稲荷大社の主祭神。しかし、そのような名のある神の血が混ざっていたなどおなまえは全くもって寝耳に水だった。

「はあ…所謂お稲荷さん、ですか」
「生まれながらにして加護を受けていたのだろう。しかし、十年という年月によってその加護も弱っている…つまり、今のおぬしではわらわを受け止めきれぬだろうよ」

話が一段落し、やがて妲己はシュルシュルと柔らかい衣擦れの音を奏でながらおなまえに近寄る。その瞳が爛々と妖しく光り、おなまえの肢体を舐め回すように見つめた。

「贅沢を言うならば生娘ではなく、もそっと穢れを溜め込んだおなごであれば尚の事良かったが…まあ、致し方あるまいよ」
「むかつく」
「ほほ、おぬしの体で受肉を果たしたらどうするか。手始めにあの白髪を喰ってやるのもよいわ」

喰う、とは一体どちらの意味だろう。おなまえはそんなふざけたことを考えていた。今にも殺されそうな状況下で彼女がまったく怯えていない理由――それは、妲己の背後で穏やかに佇む青年の存在だった。

「遊び人ぽいってよく言われるんだよね、全然そんなことないんだけどなあ。どちらにせよ、ゲテモノ食いはご勘弁ってね」

言うや否や、五条は鋭い蹴りを妲己の頭部目掛けてお見舞いした。妲己は勢いよく吹き飛ばされはしたが、大したダメージではなかったのだろう。何食わぬ顔で土煙の中から姿を現す。

「いや、参ったなあ。この結界、思ったよりも曲者だ」
「わらわがひと月かけて構築した結界じゃ。男には辛かろうて」

妲己と五条の言葉に、おなまえは「性別という括りで制限を設ける結界、なんですね」と答えを導き出す。普段の五条であれば一撃で仕留めていたろうに、余程動きや呪力が制限されているのか彼はやれやれと頭を振るう。
少し離れた場所に居た妲己は何かを誘うように指を曲げ、手招きをした。するとおなまえの体がふわりと浮かび上がり、妲己の方へと吸い寄せられて行った。

「く、うごけ、ない…!」
「ぬしには、わらわの毒をたっぷりと注いだ。立つことすらままならなかろうよ」

そう語った妲己がおなまえの首を掴み、自身の呪力を流し込む。ドクドクと脈打つように流れ込む呪力に、おなまえは顔をしかめた。その光景を目の当たりにした五条が笑みを引っ込めた瞬間、妲己は鋭く「ははは!」と甲高い笑い声を上げた。

「男! 指一本動かしてみよ、この娘の心の臓を抉り出し喰らってやる」
「そりゃ大変だ、どうしようか、コンちゃん」

けろりと脅しを躱してみせた五条に、妲己は「は…」と顔を強張らせる。すると、苦痛の表情を浮かべていたおなまえがニヤリと笑い、妲己に向かって話しかけた。

「なあんだ、近くで見たらシワだらけですね。千歳超えた婆さんですもの、当たり前か」
「な、に」

ワナワナと震える妲己に、追い打ちのように「あの人が私惜しさに呪霊をのがすわけ、無いでしょ」と語りかけ、そしてにっこりと花が咲くような微笑みを浮かべたおなまえ。五条の平然とした態度も相まって、妲己は五条悟という人物にはそもそも人質という手が通用しないのだと悟った。

「まあ、そゆこと。コンちゃんも呪術師だからね、いざって時の覚悟はできてるよ。何があっても僕はお前を祓うことを優先する。お前を放っておけば、天災にも匹敵する被害が及ぶからね」
「祓う、祓うと、わらわを侮るなよ、小僧」

妲己の瞳がギラリと鮮烈に光り、そしてその瞬間は突然訪れた。その爪でおなまえの胸の上を薙ぐように払う。すると「ばしゅ」と嫌な音を立てておなまえの胸元から血液が噴き出す。思わず五条の指がピクリと僅かに動いたのを目にした妲己が唇を開く。

「あ…ぐ、う」
「わらわには見えておるぞ、小僧。ぬしはこの小娘もろともわらわを祓うと言いつつ、手立てを探しておろう。よほど小娘に肩入れしているようだ」
「…へぇ、年の功かな」

妲己の言い分は的中していた。行動を起こそうと思えば、いつでもできた。いくら結界による制限があったとしても、五条ならばおなまえもろとも妲己を吹き飛ばすことが可能だ。しかし、何か手段があるならば彼女は連れて帰りたいと、確かにそう思っていたのだ。
だがこの妲己、言動は抜けているように見えても特級呪霊。その膂力は凄まじく、人の首など簡単に手折ってしまうほどだろう。大技を出せばおなまえの体は耐えきれず、かといって妲己をおなまえから引き離そうとするには隙がない。
動きを制限された五条にとって、久方ぶりの窮地であった。

「ほほほ、呪力を調整してみるか? わらわの皮衣には呪力を退ける力がある。小娘とわらわとで、果たしてどちらが先に逝くかのう」
「…あー、どうにかしようと思ってたけど…恨まないでね、コンちゃん」

するりとアイマスクを外した五条の瞳に、大量の血液を流して息を荒げるおなまえの姿が映る。
彼の薄水色に輝く瞳を直視したおなまえは「舐めないでくださいよ、結界でどうにかします」と息も絶え絶えに言った。――五条に、その言葉がただの虚勢であることはすぐに理解できた。
結界術に長けた彼女と言えど、五条の術式を防ぐほどの防御力はない。
しかし妲己は別だ、曲がりなりにも己の呪力を吸い取り、自身の結界を容易く破ったという実績のあるおなまえの言葉を否定し切れなかった。

その結果、たった1秒、されど1秒、五条悟が術式を展開するには十分すぎる隙が生まれた。

「術式反転『赫』」

水を打ったように静かな空間に、五条の声が木霊する。冷や汗を垂らした妲己が「待て」と言いかけた瞬間、五条が発散させた『無限』が衝撃波のように妲己を襲った。滅びに向かう妲己の体にはぽつぽつと青色の炎が灯り「ぎゃあああ!」という耳をつんざく断末魔が響き渡る。

瞬きの間、五条の『赫』が収まる頃、床には先程まで妲己であった物言わぬ塊だけが転がっていた。



「…あーあ、コンちゃん助けるために来たのにさあ」

彼が目を伏せ、白銀色のまつ毛が薄水色の瞳を覆う。その時だった。
赤黒い肉塊と化した妲己がモゾ、と動きを見せたのだ。すぐさま印を結んだ五条の耳に「うう、くっさ…」という声が届く。

「…は?」
「ウェ、死ぬかと、思った」

まるで脱皮をするかのように、妲己の生皮の下からおなまえが姿を現したのだ。全身血まみれのおなまえは歩行すらままならず、床にべしゃりと倒れ込む。

「なんで、生きてんの、コンちゃん」
「…せんぱい、今、解説しないとダメですか…結構死にそうなんです、けど」

どんな手段を使ったのか分からないが、彼女は満身創痍の身でありながらも五条の『赫』を耐えてみせた。今すぐに高専へと帰還し、家入硝子の反転術式による治療を施せば助かるかも知れない。五条の脳裏に一筋の希望が煌めき、彼は目にも留まらぬ速さでおなまえの体を抱えた。



***



ヒュウ、と吹き抜ける冷たい風。2月の寒空の下で、すっかり顔色が良くなったおなまえが星空を見上げて立ち尽くしていた。
妲己の一件は見事に解決し、改めて自身の無実を証明することができただけでなく、体内にも妲己が存在しないのだと立証できた。何もかも上手く行ったと言って良い成果だろう。

「よっ、寒くないの?」

ぼうっと立ち尽くすおなまえの傍に音もなく現れた五条。いつものアイマスクは無く、楕円レンズのサングラスをかけている。彼の休日スタイルというやつだ。

「寒いですよ、すごく。風邪ひきそうです」

白い息を吐き出しながら言うおなまえ。五条はそんな彼女の直ぐ傍まで歩み寄り、今にも肩が触れそうな距離で「温めてあげよっか」とささやくように言う。するとおなまえは五条を見上げながら首をかしげ「温めて、くれるんですか?」と甘えたような声を出した。普段あまり見ない表情と妖艶な声色を目の当たりにした五条は思わず面食らい、言葉を失った。

「ぷ、何を固まってるんですか。私、人を惑わす妖狐の力を喰らったんですよ、油断したら痛い目見ますからね」
「…そんな易易と誘惑しないでくれる?」
「すみません。キツネのコンちゃん、なので」

にこにこと笑って、指でキツネをかたどって見せるおなまえ。随分と機嫌が良さそうで、五条は胸がぽかぽかと温まる心地がした。おなまえの体を己の腕の中に囲い込み、そして自分も左手でキツネを作り、おなまえのキツネにちょん、と触れさせる。
その動きがなんだかキスをしているように見え、おなまえは自分の頬や首がカッと熱くなるのが分かった。

「お、温まって来たねぇ」
「うぐぅ」
「ほおら、人を誘惑する妖狐なんでしょ。反撃してみなよ」
「もうニンゲンなので…無理です…」

五条がキツネの手をしたまま、ちょんちょんとおなまえの耳やうなじをつつく。おなまえは「もういいですから、キツネは当分いいです」とそれを軽く拒否した。

「そういえばさ、何であの時無事だったの?」
「無事ってほど無事じゃなかったですけど…あの数秒でけっこう頑張ったんです、私」

妲己との戦いが終わった直後は満身創痍そのものだった。彼の言う『無事』の範囲が広すぎて一瞬混乱したが、おなまえはあの時のことを思い出しながらゆっくりと語った。

「とにかく、防御力を上げることだけを考えました。失血死寸前まで血液を媒体にして、私が使える最硬度の結界を張って」
「…それだけ?」
「いいえ、もちろん違います。それから、妲己にも結界を施しました。とは言っても、妲己の肉と皮の間に剥離結界を、ですけど」

淡々と解説するおなまえに、五条は「意外とグロテスクな話題だったな」と思う。おなまえは妲己の「わらわの皮衣には呪力を退ける力がある」という言葉を思い出し、彼女の皮を使って少しでも術式を防ごうと試みたのだ。

「私は元々の妲己の呪力と特殊な血を持っていたので、相乗効果が発揮されたらラッキーだなと」
「…つまり、あの一瞬で妲己の生皮剥いで被ってたってこと?」
「あまり明け透けに言わないでください、気味が悪いので」
「意外とイカれてんね、コンちゃん。それにしたって少しだけショックだなぁ。僕の『赫』が防がれちゃった」
「妲己が居たからこその、一生に一度限りのラッキーパンチですよ…イジけないでください」

ぷう、と頬を膨らませておなまえを抱きしめる五条。大の男がこんなにあざとい顔をして許されるなんて、と思ったおなまえだったが、耳元で囁かれた「生きててよかったよ」という声に顔をほころばせた。


「しかし、あの泣き虫コンちゃんが随分豪胆になったもんだ!」
「いえもう、二度とごめんです。もう正直呪術師辞めたいです」
「ええ〜? 妲己倒せたんだから、もう雑魚なんか怖くないでしょ」

純粋な力で言えば、特級呪霊である妲己を超える呪霊はそうそう出現しないだろう。しかし、三級だろうが四級だろうが怖いものは怖い、その気持を伝えるためにおなまえは知恵を振り絞って言葉を選んだ。

「自分よりも遥かに弱い存在でも、恐怖の対象になることは往々にしてあります。 五条先輩はゴキブリより遥かに強いけど、でもゴキブリ百匹と戦えって言われたら嫌でしょう」
「わかりやすいけど呪霊とゴキブリを同列に扱わないで?」
「そもそも妲己を祓ったのは五条先輩でしょう。結局怖いのは変わりませんし、多分また泣きべそかいて帰ってきます」

人間そう簡単に変わらないもんですよ、と人生を達観した老婆のようなことを言うおなまえ。五条はそんなおなまえの顎を掴んで無理やり上を向かせ、サングラスの隙間から彼女と目を合わせた。

「そんなに怖いなら、僕の隣にいなよ」
「えっ、五条先輩の傍に居たらめちゃくちゃ恐ろしい特級呪霊に目ぇ付けられるじゃないですか」
「大丈夫だよ。僕、最強だから」

当たり前のように言う五条に、おなまえもふふふと笑みを浮かべて「そうですね、頼りにしてます」と言う。泣き顔以外は意外とポーカーフェイスなおなまえの綻ぶような笑み、それを真正面から受けた五条は自身の体温がふわりと上昇するのを感じた。

「…突然誘惑すんのやめてくれる?」
「してません、勝手にムラムラしないでください」

ムッを結ばれた唇が可愛らしく、五条は思わず真上からその唇を食む。その感触を記憶するように重ねられた唇。少年少女の戯れのように可愛らしい口づけに、おなまえは内心で「意外だなぁ」と思う。まるで百戦錬磨のような風格さえ感じさせる彼が、青春ラブストーリーのようなキスで満足するだなんて。それからゆっくりと二人は顔を離し、再び互いの瞳が交差した。

「妲己曰くコンちゃんは処女らしいから、ゆっくり進めてあげるね」
「き、聞いてたんですか!」
「そりゃ、ガールズトークに割って入るのは無粋でしょ」
「盗み聞きはもっと無粋だと思います」

くすくすと静かに笑いながら細められた薄水色の双眼が、柔らかくおなまえを見つめる。そんな少年のような楽しげな表情を見て、おなまえは「お手柔らかに…お願いします」と告げた。



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