教会での朝の礼拝が終わり、集まった人々が散り散りになったとき、風早巽は薄暗い静寂の中で一人、長椅子に座り聖書を開いていた。先程から頁を開いたままになっている聖書は何度も読まれて紙がしわくちゃになっていた。巽は懐かしむようにしわくちゃの頁をなぞり、それから前の説教台に目を向ける。教会の重い空気とは合わない聖書を置くだけの簡素な台。その台を見て巽は先程の朗読を思い出した。礼拝の朗読は巽の担当で、聞きに来る信者はいつも同じ。巽にとってそれは日常の一部でアイドルの活動と離れて過ごせる数少ない時間だった。
 目を前に戻して古びた跪き台を見る。どこかの教会で不要になったものを貰ってきたというこの台は最前列の長椅子の前にしかない。装飾された古めかしさが飾り気のない長椅子と合っておらず、この席に人が座ることは稀だった。巽自身も普段は膝をつくような祈りをすることはなかったが今日だけは選んでこの長椅子に座った。
 巽がわざわざここを選んで座ったのには理由があった。今日の礼拝は終わったが巽にはこれからすることがある。
 罪の告白。それが本当に罪なのか、それすらわからない。そんなあやふやな話。だが神との対話で少しでも整理できるならと人が過ぎさるのをじっと待っていた。静寂が肺を見たし切ってからようやく決心したように聖書を閉じて椅子から立ち上がり、そしてゆっくりと膝をついた。
神よ、私はどうしたら良いのでしょうか。


「これは自分と恋人と恋人を偽る彼との話です。」
 心の中なのか声に出していたかもはやわからない。でもするすると言葉が出てきた。
 「俺は1年ほどぶりにかつての恋人と再会しました。かつてのといっても俺は別れたつもりはなかったし相手−HiMERUさんもそう思っていたと思います。俺たちは再会してすぐ夜な夜な会うようになりました。彼とはいつも彼が住むべき、しかし実際は誰も使っていないCrazy:Bの居室で集合し、恋人としての甘いひと時を過ごしました」
 心の声なのか、口に出していたのかすらわからない。巽はただ目をきつく閉じて姿のない神を思い描いた。
「最初は本当にわからなかったんです。多分浮かれていたので」
 告白は続く。
 「本当に本当に嬉しかったんです。彼の俺を呼ぶ甘い声もしなやかな身体も。ファンもユニットメンバーも誰も知らないHiMERUさんに触れられることが。でもだんだんおや、と思うことが増えたんです。HiMERUさんらしくないなと」
 目の裏の神が揺らぎ、像は段々と想い人に姿を変える。
 「ただしばらく会っていませんでしたからきっと何か変わるきっかけでもあったのでしょうと思いました。一年あれば人は変わります。自分だって、昔の自分には戻れない、夢を見て後先考えず、なりふり構わずの突進はもはや不可能ですから」
 硬いクッションについた膝がちくりと痛み、それでも巽はこの姿勢を止めることはなかった。
「ですがその後何度もHiMERUさんとお会いするようになって、肌を重ねるうちに疑問は確信に変わりました」
「彼はHiMERUさんではない。では誰なのかとか、いったい何故と言ったことはさっぱりわかりませんでした。それでも確信してから彼を見ると全く別人に見えました。見た目や声、仕草、身体の作りから内側を暴いた感覚さえ記憶と全く同じなのに全て違った」
 今度は想い人の像が揺らぎ顔のない男へと姿を変えた。勿忘草色の髪だけがリアルな質感を伴った影法師。実態のない闇が揺らめき巽の心を揺らした。
「それが分かってからはこのままでいいのか悩みました。彼はとても美しく気丈に『HiMERU』さんという存在をトレースしていました。でもどう頑張ったって別人、俺がちょっとでも不審そうなそぶりをすれば慌てて取り繕って 演技をするんです」
 「俺はそんな彼が、俺の前で『HiMERU』さんを必死に演じる彼が可愛く見えてきたんです。
おかしいですな。別人を愛するなんて。これでは昔の恋人から見れば浮気です。でも、それでも彼が、HIMERUさんがHiMERUさんのフリをして必死に俺に抱かれている。この事実に興奮を抑えられない自分がいることがわかってしまったんです」
 「自覚してしまうと抑えられない。だから俺は、ちょっといじわるをしてしまったんです。
−−ああHiMERUさん。キス、あんなにお好きだったのにしてくれないなんて寂しいですな−−
 そう言ったらHiMERUさん、すごく動揺して。巽って名前を呼んで目を泳がせながら恐る恐るキスしてくれるんです。それが可愛くて可愛くて……」
「ええ、話がそれてしまいました。そんなわけでちょっと様子を見つつもいつ言おうか悶々とした日々を過ごしていたところ、彼からお誘いがあったんです。彼もちょっと慣れてきたのかなと嬉しくなって二つ返事で了承して、いつもの場所に向かいました」
「彼は最初のぎこちなさが抜けて心底気持ちよさそうに俺に身体を預けてくれました。それが嬉しくて俺はまた彼に恋してしまったのです!神よ、私はどうしたら良いのでしょうか。このままHiMERUさんと偽る彼をHiMERUさんとして愛していくべきなのでしょうか。それとも彼を彼として愛していると伝えるべきなのでしょうか。神よ……」

 不意に肩を叩かれて、巽はハッと顔を上げた。必死に告白とも祈りともつかないことを考えていたからか、それとも彼が気配を消していたからか、肩を叩かれるまで誰かがいるとは全く気付くことがなかった。
 巽さん、と呼ぶ方を振りかえると同じユニットメンバーの礼瀬マヨイが立っていた。
「ご、ごめんなさいいい、お邪魔するつもりはなかったんですけど」
なんだかうなされているような感じがしたもので。彼はすまなそうな顔をして謝罪の言葉を投げかけた。巽はこのことが聞かれていないか内心ヒヤリとしたがマヨイから何も言ってこないのをいいことに何もなかったかのように話しかけた。
「マヨイさん、こんなところで出会うとは奇遇ですな。しかし今日の礼拝はすでに終わりました。なにか教会に御用だったでしょうか」
 今日は午後のレッスンも中止になったと聞いていますが。硬いクッションから膝を離し、立ちあがりながらそう問いかけると彼は少し慌てて、奇遇ですねと返してきた。多分わざわざ会いに来たのだろう。珍しい、いつも休みの日は少し避けるようなところがあるのに。
「はい、教会というよりは巽さんにお話を聞いてほしくて……」
 彼は悩みがあり話を聞いて欲しいという。その言葉にどきっとした。なぜならそれは今まで自分がしていたことを思い出させるから。彼の挙動不審な行動は巽の先ほどまでの告白を聞いていたのか聞いていないのか全く悟らせてくれない。内心それどころではなかったが迷える存在に手を差し伸べずなにが牧師かと己に言い聞かせ、長椅子に腰掛けマヨイの悩みを聞くことにした。
 彼の話は大変衝撃的な内容だった。彼は自分の後ろの長椅子に座って肩を落とし顔を下げた状態で淡々と、時に激しく恍惚とした声で罪状を述べた。それは許しがたいともなんの罪でもないとも取れる、まさにマヨイにふさわしい幻影のような告白だった。人を殺したなんていうから途中大変取り乱してしまったが、言葉の綾だったようでなんとも心臓に悪い……
 話が終わるタイミングで振り返り彼に話してくれてありがとうと述べると彼は一層の挙動不審を見せ、飛び上がって挨拶もそこそこにすぐに立ち去ってしまった。

彼の悩みを聞いてしまったからか自分の身体に全くもって力が入らない。彼の言葉を聞いたあとだと自分の中で悩んでいるのがなんとも無駄に感じられてしまった。長椅子に少しだれた様で座るのは神に大変申し訳ない気もしたが、今は許してくださいと心の中で謝罪して硬い背もたれに背中をつけた。
 しばらくぼんやりと座って祭壇の簡素な十字架を眺めていたがこれではよくないと思いボロボロの聖書を手に取った。
 次にあったときには伝えてしまおう。そう決心を固めて椅子から立ち上がる。
「HiMERUさん、君がたとえ誰であろうと愛しています」
そっと静寂に言葉を置いて巽は教会から立ち去った。

懺悔室、一人

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