海に行きたい、なんていうものだから何かと思った。

 いつもの如く星奏館旧館での逢引、断ろうとつれなくするといつもと違いどうしてもと食い下がられた。多少面食らったが、渋々明日はオフだからと了承して部屋に向かうと、巽はなんだか嬉しそうに声をかけてきた。
「HiMERUさん、明日オフでしょう。俺とドライブ、いきませんか」
 それはいわゆるデートのお誘いだった。そういうことか、先ほどの態度にも合点が入った。ドライブデートなんて誘われたらHiMERUは二つ返事でOKするだろう。だが俺は……
「冗談じゃありません。だって巽、あなたまだ18でしょう。免許取りたての、若葉ドライバーの助手席になんて絶対座りたくありませんよ」
 これは俺の本心から出た言葉だった。HiMERUではなく俺の。デートも嫌だがドライブなんてとてもじゃないが行きたくなかった。巽はなんとも悲しそうにうなだれてそんなこと言わないでくださいと言った。その姿に少し気を許しそうになるが、すぐ視線を逸らして拒絶を表す。巽はそれでも退かずに俺の肩を抱いた。
「取ってからこれでも練習したんです。父も褒めてくれましたし」
 だれかを乗せるなら最初はHiMERUさんがいいなと思ってたんです。耳元でそっと囁く声にぞわりとしたが俺は表情を崩さずに巽の顔を押しやった。
「……わかりましたよ、でも今日は気分じゃありません。今日しないなら行ってもいいですよ」
 お預けでもいいのですか、と意地悪げに伝える。すると巽は複雑そうな表情でわかりました、と引き下がった。どうやらそれほどドライブに行きたいらしい。雰囲気でそういうことをすると思っていた俺はなんだが拍子抜けしてしまった。
「では明日よろしくお願いしますね」
 巽は気を取り直したのかにこやかに微笑んでそそくさと部屋を後にした。
 海、こんな暑いのに海になんてどうして行くのだろうか。海水浴をする気は多分向こうもないと思う。せいぜい海風の当たる道をドライブするか、ちょっと車を停めて海に手をつける程度だろう。それでもなんとなく楽しみにしている自分がいて、そんな自分に気づいてしまい途端に複雑な気持ちになった。

 あれから――巽にHiMERUと俺のことが知られてしまってから――一悶着あって、俺は巽が『HiMERU』と付き合うのなら関係を継続してもいいという結論を出した。苦渋の決断だった。HiMERUではなく今の俺が好きだと言われた時にはものすごく腹が立って「おまえが好きなのはHiMERUだろう」と殴りかかったものだが、それでもあいつは全く退かなかった。だから結局こっちが折れて(なんにせよHiMERUのためにはこの関係は絶対だった)このような形に収まった。
 それからは巽の前ではHiMERUを演じることをやめた。HiMERUのフリが嫌というわけではなかったが、巽を好きと言わないHiMERUが想像できなかったから。だから二人の時はちょっとだけ『HiMERU』と距離を置いた。不毛だと思う一方で、巽との関係が肌に馴染んでしまっているのもなんとなく感じていて。HiMERUの場所を奪うなんて嫌だな。そんなことを思いながらだれもいない4人部屋で天井を仰ぐ。流石にここに泊まる気はしなかったが気持ちが落ち着くまでしばらくぼんやりと閉じた空を眺めていた。

 次の日、ESビル前で巽と待ち合わせ。少し早く来すぎたせいか巽はまだいないようだった。なんとなくあいつは先に着いているような気がしたのでがっかりし、がっかりしている自分にもがっかりした。やはり来るんじゃなかった。帰ろうと踵を返した時、HiMERUさん!と大声とクラクションの音で呼び止められた。どうやら到着したらしい。
「クラクションはやめてください」
 車に近寄って巽に小言を言う。巽は帰ってしまわれるのかと思って焦ってしまいましたな、なんて言うもんだから言い当てられた気がしてどきっとした。
「そんなことありません」
 そんなことはあったのだが強がって顔を背ける。そのまま助手席側に回って勢いよく扉を開けた。
「なんだか車高低くないですか、この車」
 そう言うと巽はなんのことですかなと首を傾げた。車内は安っぽい消臭剤の匂いがして居心地が悪かった。
「では、いきましょう」
 そう言って巽はアクセルを全開に踏んだ。けたたましい音がして車が走り出す。ちょっと待てアクセル全開?そんなことってあるのだろうか、こんな普通の道で。混乱して隣を見ると巽はいつもと変わらない表情でハンドルを握っていた。
 こちらが混乱している間にもスピードはどんどん上がっていく。高速道路に入ってスピードメーターが振り切れるのではと思って目をやると300km/hまで表示ができるようになっていた。なんなんだこの車は。
 道が悪いわけでもないのにガタガタと座席が揺れる。もはや外の様子を楽しむ余裕なんてなかった。景色は目まぐるしく変わり、周りの車は若葉マークを見て道を開けていく。一度も右車線から動かないこの車は減速という言葉を知らないようにぐんぐん進んでいった。


 ――HiMERUさん、HiMERUさん!遠くから声が聞こえる。朦朧とした意識を揺り起こす呼び声にもっと寝かせてくれよ、なんて柄ではないことを思った。
「――さん!」
 ハッと目を覚ましてとっさに声の主を掴みかかる。その名で呼ぶな、そう叫ぶと目をパチクリして驚く巽が目に入った。車はすでに停まっていてエンジンも切られていた。どうやら”ドライブ“の途中で意識を手放してそのまま眠ってしまったらしい。パッと手を離して顔も逸らす。巽が悪いのですよ、と言い訳がましく文句を言ってしまった。
「はい、失礼しました」
 巽はなんてことのないように、いやむしろ嬉しそうな声で謝罪した。着きましたな、と弾んだ声で続けられる。それがなんだかむかついて、顔を背けたままシートベルトを外し逃げるようにドアを開けた。
 外はすぐ海だった。小さな砂浜と岩場、その向こうで白く輝く波が行ったり来たりを繰り返している。夏だと言うのに人がいないのは、遊泳禁止の看板のせいだろう。夏の日射しが燦々と降り注ぎ、とたんに暑さが舞い戻ってきた。車の中は冷房が効いていたから気がつかなかったが世界はこんなにも暑いのか。目を細めて空を見ていると、隣に巽がやってきた。 
「いいところでしょう」
 巽が言う。俺は正直まだ景色を楽しむ気にはなれなかったので、そうですね。とだけ返した。ここはどこなのだろう。スマホの時計を見れば小一時間は車に乗っていたらしい。周りは人もおらず車も全然通らない。路肩に停まっている巽の車以外はまるで現実味のない場所だった。
「ここはどこなのですか」
 巽の口ぶりでは闇雲に運転していたわけではないようだ。聞いたところでなんになるわけでもないが、しかしこの場所が現実という実感が欲しかった。巽を見やると彼は真っ直ぐ海を向いていた。海の青が反射して瞳が宝石のようにキラキラと輝いていた。
「父がよく連れてきてくれたのです。ここなら誰にも邪魔されずお祈りができると」
 もちろん教会も静かですが、父はいつも人々の悩みを聞いたりと忙しい人でしたので。多分一人になりたかったのでしょう。そう言った巽の横顔は少し寂しそうに見えた。巽はこちらに向き直り続ける。
「HiMERUさん。あなたもたまにはアイドルから、『HiMERU』さんから距離を置いてみてもいいのではないでしょうか」
 巽の声は凪いだ響きで、俺の心をかき乱す。見透かされている、そう感じて俺は2つの宝石から目を逸らした。
「聖人野郎が」
 巽といると逸らしてばかりだ。悔しくて小さくごちる。
「それ、たまに言ってますな」
「巽なんか嫌いだ」
「はは」
 むくれた声でそう言ったら今度は笑って流された。
「さてと」
 そろそろ、行きましょうか。巽はそう言って海に背を向けた。歩き出した巽を目で追うと現実が目に入る。またあれに乗れと……先ほどの悪夢を思いだし、たちまち頭痛がやってきた。ブオンと景気良くエンジンのかかる音がして、仕方ないかと俺もしぶしぶ車に向かう。ドアを開け、助手席に滑り込む前に言ってやる。
「HiMERUとは絶対にしないでくださいね」
ドライブ。巽はなぜか嬉しそうにはい、とだけ返事をした。乗り込んだ助手席はすっかり蒸して茹だるようだった。

海に行きたい

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