MDMから月日は流れ、十条要はアイドル『HiMERU』としての活動を続けていた。天城燐音が戻って来てCrazy:BはESでの活動を再開したがHiMERUは結局帰ってこなかった。彼のことは諦めなさい。何度も、何度もそう言われてきたがそれでも俺はこの場所を守ることをやめることはどうしてもできなかった。



 この仕事を始めてから数年、初めて長期オフをもらった。ありがたいことに忙しい身だったからオフはいつも突発だった。だが今回はそれなりに長い上、時間に余裕がある。何をしようか。夜のルーティンを終えた俺は就寝前にこれからの休みについて考えてみた。せっかくだしどこかに行こうか。なんて、今までだったら絶対に思いつかないことだ。ぼんやり考えながらベッドに横たわるとスマホが鳴った。ベッドから体を起こしスマホを確認する。画面に出た名前は風早巽。今までなら名前を見るだけで嫌だったのにいつの間にかするりと隣にいて、気づけば近づくことを許していた。そんな男の名だ。それにしたって電話での連絡はちょっと珍しかった。
「はい、もしもし」
「風早です、HiMERUさん今大丈夫ですか」
「ええ、巽。どうしたのですか。電話なんて珍しい」
「はい、実は俺オフをいただいたんです。しかも長めに」
 なんとも聞いたような話だ。嫌な予感がする。
「そうしたらHiMERUさんも長期オフをもらったと聞きまして」
 ああ、やっぱり。なぜESの情報はこうも筒抜けなのか。電話に乗らないようにわずかにため息をついた。
「それで俺、うれしくなってしまって。ぜひどこか一緒に行けたらと思いましてな」
 予定が埋まる前に連絡を、と心底うれしそうな声で要件を伝えてくる巽に何を言っても無駄だと思った。
「HiMERUは旅行にでも行こうと思っていたのです」
「旅行いいですね。それはぜひご一緒させていだきたいですな」
 行先も聞かず二つ返事。どうせなんにも考えていないのだ。今度は電話越しに聞こえるぐらい大きくため息をついた。
「どこへ、とは聞かないんですね」
「ええ、HiMERUさんとならどこでも楽しそうですから」
 皮肉たっぷりに言ってやると突然のカウンター。巽の脳天気な笑顔が易々と想像できた。おそらくは信頼からくるであろうそれに頭を抱える。この能天気さはHiMERUも見習わなければならないのかもしれない。いや、やはり不要だ。絶対。
「しかしHiMERUはヨーロッパに行こうと思っていたのですが……遠いですが大丈夫なのですか巽は」
 最終確認だ。これで断ってくれるような男だったらよかったのに。まあ無理だろうが。
「いいですね、海外。しかもヨーロッパですか。せっかくなら礼拝に参加してみたいです」
 やはりというかなんというか。脳天気もここまでくると才能だ。これ以上何を言っても無駄だとあきらめて予定を明け渡すつもりで話を振った。
「では、あとでHiMERUの予定とプランを送ります。合わせられるならついてきてもいいですよ」
「はい、ありがとうございます。楽しみですな。ああ、パスポートまだ期限が切れていないか確認しないと」
「そうですね、取り直すならあまり時間がありませんので早めに確認してください」
「ふふ、HiMERUさんとなら安心ですな。電話してよかったです。ありがとうございます。ではまた後で」
「ええ、また連絡します」
 終わった。無駄に長電話をして疲れた。今日はもう寝よう。ふたたびベッドに入り先ほどの会話を思い出す。
 HiMERUさんとならどこでも楽しいでしょう。そう無邪気に言われ満更でもない自分がいることに動揺する。プラン、どうしましょうか、ぼんやりとしか思い描いていなかった計画が輪郭を持つか持たないかの思考のうちに俺は意識を手放した。



 月日は経ち某空港。要は国際線ターミナルで巽を待っていた。時刻は10時。フライトまで2時間を切ろうとしている。余裕をもって3時間前に待ち合わせしたのに一向に現れない巽にいらいらしながらスマホを見る。再三の電話は無視。メールもしたが反応はなかった。
 さすがにこれで出ないなら彼のユニットメンバーにも連絡しようかと考えながら電話のアイコンを押すと着信が入った。名前は風早巽。いつもはあまり見たくなかったが今日は待ち望んだ名前だった。
「巽、貴方いままで何を」
「ごめんなさいHiMERUさん、慣れない路線に戸惑ってしまって」
「だからってなぜ連絡しないのです」
「すみません……ですがもう着きますので」
 その声がスマホ越しと二重に聞こえて振り返ると待ち望んだ人物が立っていた。巽は1週間の旅行にしては小ぶりのキャリーケースと帽子とマスクという雑な変装でへらりと手を挙げた。
「お待たせしました」
「遅いですよ。どこで何をしていたのです」
 聞くと道に迷っているご婦人を案内していたら自分が迷ってしまったらしい。なんとも間抜けな話だったが巽ならありえそうだなと思って放っておくことにした。
「急ぎましょう。国際線は手続きが意外と大変なのです」
 へらへらしている巽をせかして目的の手続きカウンターへと足を向けた。


 乗り継ぎして現地に着く頃には夜も21時を回ろうかという時間だった。飛行場でタクシーを拾いホテルの場所を告げる。荷物をトランクに入れた後何もわかっていない巽をタクシーに押し込んで自分も乗り込んだ。
 ホテルに着くとすっかりへとへとになって何もしないままベッドに倒れこんでしまった。シャワーを巽に譲り自分は軽く目をつむる。ツインにしたのは単に価格面との兼ね合いだったが巽は修学旅行みたいで楽しいと浮かれた足取りでシャワー室に消えていった。
 正直一日目からこんなに疲れるとは。遠くから聞こえるシャワーの音を聞きながら一日を振り返る。15時間にわたるフライトはかなり不可が大きかったがこれなら時差ボケにならず夜のうちに眠れそうだなと思った。
 巽との2人旅行。数年前の自分ならこんなことになるとは絶対に思わなかったしなりたくもなかっただろう状況だ。だが今の自分はこの状況を受け入れている。HiMERUを傷つけた男を本来なら許すことはできない。それでも彼の無邪気なひたむきさに心の内側を許してしまった自分がいるのだ。事実、今は日本から遠く離れて同じ部屋にいる。どうしてこうなったのか、全くわからないまま俺は遠いシャワーの音を聞いた。






 観光3日目、俺たちは2日過ごした大都市の喧騒を離れ小さな町に来ていた。安宿に荷物を預け、旧市街を散策する。細い道の古びた石畳はところどころめくれあがっていて気を付けていないと躓きそうだった。
「足元気を付けてくださいね」
 なんて言うのは隣を歩く巽だ。彼の方が足元に注意すべきだろう。たとえ完治したとされていても。
「気を付けるべきは巽でしょう」
「そうですな、お気遣いありがとうございます」
 つい、またお節介めいた小言を並べると飛び切りの笑顔で返される。平行線だ。もう何も言うまいと誓い、町を見渡す。旧市街の狭い道の両脇には赤茶の建物がずらりと並び、石畳と相まってまるで中世にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。少し傾斜のついた道を歩く人は少なく自分たちを知る者なんて誰もいない。二人はマスクも帽子もせずに黙々と坂を上った。
 坂道を上りきると町の中心、広場に出る。広場の中心には不釣り合いなほど立派な教会がそびえたち、小さな町を見下ろしていた。広場にはテントが並び人々の声が飛び交う。教会に向かうため市の合間を縫うように歩くと色とりどりの野菜や果物が所狭しと並び、総菜や魚を売る屋台が目に入った。巽は目をキラキラさせて屋台に近づく。
「素晴らしいですな、トマトなんてこんなに種類があるんですね。ああ、あっちの屋台はなんでしょう……」
「巽、早く歩いてください。買うわけでもあるまいし」
「ええ、そうですが、ああ、オレンジ1つよろしいですか、あとこのリンゴも……」
 あろうことか巽は日本語で店の人に話しかけていた。向こうはイタリア語、会話なんて成り立つはずがない。しかし巽はこともなげに買い物を成し遂げていた。
「あなたのそのコミュニケーション能力だけは尊敬しますよ」
「はは、要さんにはかないませんよ」
 嫌味を言ったらまた笑顔。まぶしいやつめ。その名前で呼んでくるなと心の中で悪態をつきながら巽を置いて教会までの数歩を急いだ。


 重い扉を押しあけて教会に入る。中は薄暗かった。身廊には古めかしい木の長椅子が並び、祈りのためか、まばらに人が座っている。側廊にはきらびやかな装飾が施されており、正面に見える祭壇には大きな十字架。天井には幾何学模様の装飾が施されていた。一通り内装に目を向け終わったころ、遅れて巽が入ってきた。巽は無言で十字を切り、目を閉じた。胡散臭そうにそれを見ていると目を開けた巽と目が合う。微笑まれバツが悪くなって体ごとそっぽを向いた。
 沈黙の中連れだって中を歩く。巽は側廊の一つ一つを熱心に鑑賞していた。俺は手持無沙汰で目に留まった小さな蝋燭を買った。赤いカップに入った蝋燭に火をつけるとゆらめく炎がほの暗い室内をぼんやりと照らす。小さな聖母子像を囲む燭台にはまばらに先客が並んでおり、その間に一つ小さい炎を並べるとそれらは波のように連なってゆらゆら揺れた。
 ふいに気配がして炎から意識を戻すと巽が教会のさらに奥に歩を進めた所だった。なんとなしに背中を追うと彼は重そうな扉を開けた。ほのかな光が漏れ伝い扉が外に繋がっていることを示す。扉に消えた影を追って自分も扉に手をかけた。


 古めかしい扉の向こうは緑の中庭が広がっていた。中心に太陽が降り注ぎ内部とは打って変わってとても開放的な空間だった。あまりにも突然の光景に目を白黒させていると要さん、と小さく呼ばれる。呼ばれた方に目を向けると回廊の縁に腰かけた巽が軽く手を振っていた。近づくとまぶしい笑顔で迎えられる。視線をそらすように隣に腰かけた。
「中と違ってここは開放的ですね」
「そうですな、暗いところからくるとまぶしく感じますね」
そう言いながら巽がおもむろに腰に手を回してきた。誰もいないからって大胆に出たな。苦笑まじりに肩にそっと寄り掛かった。
「おや、珍しい」
「……うるさい」
「どうしましたか、そんな要さんも素直でかわいらしいですけど」
 朗らかでよく通る声だ。癇に障る忌々しい声だと昔は思っていた。でも今はそれを心地いいと感じている。
「ホームシック……というよりHiMERUさんシックでしょうか。妬けますな、君はいつも彼のことばかりで。こうやって繋ぎとめてもするりとどこかへ消えてしまう」
 腰に回された手にぐっと力が入る。体が自然と巽に寄る。
「俺は……俺にはHiMERUだけだった。でも、巽」
 顔を上げ視線を巽に向ける。巽の顔はいつもの眩しさをひそめ、穏やかだが極めて寂しそうな表情だった。
「俺はよくわからない、どうしたらいい。俺は…… 」
 縋るように巽の膝に手を置く。こんなのHiMERUらしくない。勿論俺らしくも。それでも巽は体を離さずにいてくれるからきっと、きっと俺はこの距離を許してしまうのだ。俯くと上から優しい声が降ってくる。
「要さんは要さんとして生きていけばいいと俺は思います」
 膝に置いた手を握られる。手が熱いのはどちらの手だろう。それすらもわからない。
「要さんがHiMERUさんを残したいという気持ちもわかります」
握られた手に力が入る。
「でもやはり俺の前では要さんは要さんのままでいてほしいですな」
 いつもの朗らかな笑み。見なくたってわかる。巽の優しい笑顔。
「何者でもない自分になれる場所が日本のどこにもないのなら、こうやって遠出しましょう。誰もいないところへ。俺はどこにでもついていきますよ」
 優しく諭され自然と目頭が熱くなる。顔を上げられずにいると巽はパッと手を離した。さあ行きましょうか。するりと腰の手も離れる。名残惜しいと思ってしまった俺の負けなのだろう。先に行ってますね、と中に消える巽の背中をしばらく見送ってからゆっくりと立ち上がる。涙は収まっていた。俺は前に向き直り、暗がりに続く扉を開けて誰もいない箱庭を後にした。

どこかへ

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