祈り


 今思えば、自分は救いを求めて彼の家を訪れたのかもしれない。
 五条悟は、隣で寝ている黒髪の少年を見下ろしながら、初めて会ったときのことを思い出していた。
「君が伏黒恵君だよね」
 白い髪に真っ黒なサングラスで、いきなり名前を呼ぶ男。我ながら胡散臭いとしか言いようのない、通報されてもおかしくなかったと思う。実際、身元を明かしてからもずっと伏黒がこちらに心を開くことはなかった。いつもうんざりした顔で、それでも従うしかないと理解してついてくる。
 賢い子供だった。五条の手の内で踊ることを内心で許容していて、それがとても可愛らしい。五条の夢物語に必要な、大事な大事な存在。だからあの日の選択は間違いではなくて、五条の求めた救いはここに実っていた。少年の頬を撫でてみるが、彼が起きることはなかった。五条は少年から視線を外して薄く開いた窓の先を見つめた。外は真っ暗だったが、五条の目には緑色に生い茂った桜の木が目についた。
 五条は少年の髪に指を通しながら、また過去を振り返る。
 放任していた中学時代を経て伏黒が高専に上がるころには、なんとなく関係も変化していた。変化、と言えるほど極端ではなく、夕焼けのグラデーションみたいにはっきりしない関係だった。伏黒は何も口にしなかったし、五条も普段通りに接していた。時折交わる視線が少しだけ、ほんの少しだけ色を帯びていて、それが五条には不思議に感じていた。
「五条先生が好きです」
 ある日、彼が口にした言葉だ。意外だった。なんとなくだが、伏黒は言わない気がしていた。視線に混ぜた感情を口からこぼす気はないのだと、五条は勝手に信じていた。そしてそれは伏黒も同じだったようで、口にした瞬間しまったという顔をした。バツが悪そうに「忘れてください」と言ってその場を去ろうと踵を返した。
「待ってよ」
 引き留めたのは五条だった。とっさに手を掴んで引き寄せる。すると彼は自然と立ち止まって、その場にとどまった。握った彼の手は真っ赤に染まっていて、視線を上げれば顔も真っ赤だった。可愛いな。なんて少しでも思ってしまったのが間違いだったのかもしれない。その後はあれよあれよという間にお付き合いすることになって、今もベッドを共にしている。
「抱いてもいいですか、抱きたいです」
 不思議な子供だった。ずっと子供だと思っていたのに、知らないうちに成長している。どこかへ行ったと思ったのに、知らず戻ってきて、五条を食い破らんと目をぎらつかせて。知らない面や驚かされることばかりだ。成長は喜ばしい事なのに、自分が抱かれているという事実だけが少し悔しい。
「起きてよ、恵」
「ん、寝てました、すみません……」
 悔しいので伏黒を起こしてみるが、伏黒は眠そうに瞼をこするだけだった。そのままもう一度寝てしまって、すぐに寝息が戻ってくる。
 気持ちよさそうな寝顔。何にも脅かされることなく、眠れるという事。脅かされない空間があるなて、なんて幸せなことだろう。この時間がもっと続けばいいのに。
「なんて、僕らしくもないか。でももっと強くなってよ。ここまで明け渡したのに、ハイさようならって死んじゃったら、僕がかわいそうじゃないか」
 言葉は寝息に阻まれて、彼には届かない。届く必要もなかった。それこそ五条にとって救いだった。このままでいてほしい。なんて、傲慢だとはわかっている。でもせめてここでだけは変わらずにいられるのなら。それほど素晴らしいこともないのだろう。五条は薄く開いた窓を閉めてから、伏黒の待つベッドに潜り込んだ。
 

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