暗がりにて。


「アンタって女だったんですね」
「そうだよ。なんだ、恵。知らなかったの?」
 普段は無限に阻まれて触れないはずの手首を、腰を、頬を、順々に触っていく。触れるたび、己の下に横たわる女がくすぐったそうに笑った。
「はは、そんな触り方ってある?」
 女、五条悟は口だけ挟んだが、そこから動くことはなかった。深夜、暗がりのベッドの上、伏黒恵は女の言葉を無視して、さらに手を動かした。触れた身体はどこもかしこも強かな筋肉に覆われており、されど決して柔らかさを手放してはいない。慎重に触れた手のひらの先に、温かなまろみがそこかしこに残っていて、彼が、彼女が女性であることを痛烈なまでに表していた。
「知ってましたけど……でも、」
 もちろん五条が女であることなど、伏黒は当然知っていた。いったい何年、共に過ごしてきたというのだ。勝手にベタベタ触ってきて、伏黒がいようがいまいが、気にせず着替え出すような人だ。身体なんて何度も見てきたし、作りが違うことなどもうずっと前からわかっていた。わかっていたはずなのに、それでも触れ合うまで彼女の身体は異質な、女とも男ともつかない、人間ではない何かでできていると無意識に信じきっていた。
「どう? 人間の身体で安心した?」
 そろりそろりと、少しずつ確かめるように触れる伏黒を見て、五条は何か(それは伏黒のためらいや安堵や恐怖といったものだった)を汲み取ったのか、口角をぐいと吊り上げ赤い舌を覗かせた。ちろりと蠢くそれが燃えるように伏黒を誘う。伏黒はその誘いに抗うことなく、己の唇を彼女のそれに寄せた。
「何か言いなよ、恵? んっ」
 彼女の言葉を遮るようにちゅっという短いリップ音がその場に響く。それは、薄暗い部屋で交わすには、いささか子供染みた行為だった。それでも伏黒の鼓動を早めるには十分な効果がある。
「……わかりません」
 ばくばくと鳴る心臓の音でかき消えそうなほどに、静かな答えだった。でも五条には伏黒の鼓動の音なんて聞こえないから、それは十分に伝わっていた。
「わからないって、恵。それでこんな可愛いキスしたの?」
 目の前の五条は歌うように揶揄いの言葉を並べる。彼女の瞳は先ほどから愉快そうにこちらを見つめていた。普段サングラス越しに寄越されるはずの視線が、今はまっすぐにこちらを捕らえている。青い瞳はきらきらと光っていて、光源の乏しい寝室の中でも輝きを失うことはなかった。
「僕のこと、抱いてみたい?」
 彼女がいたずらっぽく誘う。それはとても人間的で、そして女性的だった。悪魔的とも言える。彼女の人間性に触れたくて伏黒は手を伸ばす。
「抱かせてくれるんですか」
 ふいにその言葉が口を突いて出た。今の伏黒にとって、五条を抱いてみたいという気持ちは正直なところ、これっぽっちもなかった。彼女に抱く念は、一般的な人間が肉親に抱くそれに近いのかもしれない。一応の恩義は感じているが、女だと思ったことはない。
 それでも手を伸ばしたのは、彼女と人間的な営みをしてみたかったからだと思う。五条が人間であるという実感がほしかった。セックスはそれを端的に表していると思った。
「俺は抱けますよ」
 これはほとんど自分に言い聞かせるような言葉だった。経験の乏しい伏黒にとって、愛よりほかの何かが勝る感覚にまだ慣れていなかった。打算的なセックスなど知らない。まして確かめるためなんてなおさらだった。何を確かめたいのかすらわからないほどあやふやな行為に、はたしてこのラベリングが正解なのかさえ見失っている。伸ばした手に引っ込みがつかなくなって言った、なんて思われてもおかしくないぐらいには、無理のある言葉だった。
「嘘つき」
 五条はそれを見抜いたようで、伸ばした手はすんでのところで阻まれた。触れそうで触れられない距離で伏黒の手がぴたりと止まる。彼女の瞳がすっと細まり、輝かしい虹彩もなりを潜めた。
「やっぱり恵には早いよ」
 彼女はそれだけ告げて、伏黒の頬を撫でた。その温もりは無限の向こう側に消え、伏黒の頬には伝わってこなかった。冷めた空気だけが二人の間を支配している。
「それにそんな方法じゃ、僕が人間かなんて試せないよ」

 暗がりにて。


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