月の男


伏黒が五条さんとの出会いを振り返る話。ほぼCPなし。




「五条さんって本当はどこから来たんですか」
 昔むかしの話だ。五条さんと会って数か月、確かそれぐらいのころだったと思う。もしかしたら一年ぐらいは経っていたかもしれない。そんな時にふとよぎった質問をただ思うままにこぼしてみた。それだけのことだ。
「……俺は月から来たんだ」
 五条さんが普通に答えてくれるなんて思ってはいなかったから、この答えにも驚かなかった。それでも普段は柄でも無いのに僕なんて言ってるくせに、その時だけは鋭く俺なんて言うもんだから、この会話だけはいたく印象に残っている。



 五条さんと道端で初めて会った時から、彼はたまに家に顔を出すようになった。夜ふらっと現れては家で食事をして、津美紀が寝たのを確認してから「恵、出かけるよ」と言って俺を連れ出す。出かけた先は近所の学校や古びた廃墟が多くて、あまり楽しい外出ではなかった。真っ暗な外の中にひときわ暗い影がうごめくのを、五条さんはするりと捕まえて俺の前に差し出した。言外に祓えと言っているのだ。俺は慣れない手つきで玉犬を呼んで戦わせる。
「全部食い尽くしてよ」
 なんて笑いながら指導する姿は、月に照らされて青白く、祓わなければならない呪いよりも化け物じみていた。



「もっと君の式神を信じないと。恵が怖がっていたら式神もついてこないよ」
 俺がしり込みするのを見かねたのか、彼が真顔で指摘する。見下ろす視線は鋭く、青ざめた月面のように冷ややかだ。俺はそれに逆らうように口をとがらせる。
「怖がってません」
「じゃあ舐めてる? せっかく恵しか使えないのにもったいない」
 五条さんの言い方はどこかとげがあってムカつくのに、俺のダメなところを全て指摘してくる。言われた通りに直していけば強くなれるという確信があり、彼の言葉は全て正しいのだと自然と理解していた。
 もう一度彼らに向き直る。強く見つめると式神は頭を垂れるように地に臥した。恐怖は霧散して、代わりに力が残った。五条さん曰く、俺だけに与えられた呪力だ。
 不思議だった。呪霊は気持ち悪いのに、手にした呪いの力は抵抗なく使うことができた。まるで自分の中に最初からあったかのように、術式も式神もあっという間に馴染んでいく。呼べば現れる玉犬も今は家族か何かみたいだ。褒めるように頭を撫でると玉犬が気持ちよさそうに目を細めて、闇に溶けて消えた。



「五条さんっていったい何者なんですか?」
 深夜、全ての呪いの気配が消えたとき、俺は自然とそれを口にしていた。今まで彼の素性を気にしたことなど一度もなかった。五条さんが何者であれ、俺たちの運命が彼に握られていることに変わりはないし、何より子供の俺が聞いた所で理解できるものではない。と、なんとなく理解していた。だからこれは別に本当のことが知りたかったわけではない。彼がどう思っているのか。それが気になっただけだ。
「……僕は、何なんだろうね」
 五条さんもそれを感じ取ったのか、少し悩むように首を傾げた。何と答えていいのか迷っている、というよりは答えを持ち合わせていないような、そんな表情だった。しばらくして彼は口を開き、こう言った。
「そうだ、俺は月から来たんだ」
 五条さんの答えは不思議な響きをまとって告げられた。彼なりに何か思うところがあったのかもしれないし、単なる思い付きだったのかもしれない。普通に考えればあり得ない答え。でもなぜだかストンと納得してしまい、その日はそのまま解散した。



 そんな日々が数年続き、幾らかの断絶を経て現在。俺が呪術高専に入学するころには、五条さんはあまり家には来なくなっていた。その代わり学校ではそれなりに顔を合わせるようになり、夜の人から昼間の付き合いに変わっていた。
 それでも夜の任務はそれなりにあって、五条さん、もとい五条先生が引率としてついてくることもあった。今日は久しぶりに彼と二人、夜の任務だった。月明りが煌々と森の木々を照らす、そんな夜だった。
「五条先生、昔月から来たって言ってましたよね。あれどういう意味だったんですか」
 久しぶりに月明りの下で出会ったから、つい思い出してしまったのだ、昔のことを。思わずこぼしてしまった疑問に対し、五条さんは全く覚えがないと首を振った。
「そんなこと言ったっけ?」
 彼は首を傾げ、思い出せないと唸った。これは本気で忘れているのかもしれない。元々子供に対しての戯言だ。彼にとっては取るに足らない一言だったのだろう。俺はため息と共に返事を吐き出す。
「覚えていないならいいです」
「うん、忘れちゃったよ。恵も忘れて」
 放たれた言葉は静かに俺の心を侵食した。忘れているなんて嘘だった。でも何も語る気はないと言外に伝わる響きが二人の境界線を形作る。彼の目は黒い目隠しで覆われていて見えなかったが、きっとその下で爛々と輝いているのだろう。まるで雲の出た日の満月のようだ。見えないのにそこにある。見えないからこその圧倒的存在感で、俺のことを見下ろしていた。
「そうですね、忘れます」
 五条さんから目を逸らして、月を見上げる。今更忘れるなんて到底無理だと思ったが、彼がそう言うのなら、この話はすでに終わっている。表に出さずとも心の隅に仕舞っておけばいい。そう思い直して俺はこの記憶に蓋をした。



【あとがき】
 『悪霊』の中でピョートルが自分のことを周りが「月から来た」と噂しているとスタヴローギンに話しているシーンが印象的で「月の男」は生まれました。
 ピョートルの「月から来た」というのは端的に言うと変な人とかそういった意味だと思うのですが、今回はちょっと浮世離れしている雰囲気に感じてもらえたらいいなと思います。
参考文献
ドストエフスキー著、江川卓訳『悪霊 上』新潮文庫、1971年 

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