鈍色


曇天の海は鈍色に光っている。
〜あらすじ〜
つみきが呪われたことをきっかけに五条と関係を持った伏黒。
その後関係を持ちつつも違和感がぬぐえない伏黒は大晦日に五条と会う約束をしていた。
「恵、初詣にでもいこうか」
そう言われて連れてこられたのは誰もいない海だった。

 五条さんに連れられ、たどり着いたのはさびれた海水浴場だった。夏場ならたくさんの人間が海水浴のために集まってきそうだが、寒空の下では泳げるはずもなく、ほとんど人がいなかった。いるとしても無謀なサーファーが数人、寒さに耐えて波を待っているだけだ。なぜ大晦日に寒々しい海になんてこなければならないのか。初詣というから早すぎると思いつつもしぶしぶ出てきたというのに、これなら家のこたつで暖を取ってみかんでも食べていた方がましだ。俺は巻いていたマフラーをきつく締めなおした。
 五条さんは砂浜に降りてどんどん海に近づいていく。俺もその後ろを歩く。軽く乾いた砂に足を取られそうになるが、前を歩く五条さんはまるでアスファルトの上を歩いているかのように軽い足取りだ。よく見ると足跡もないから少し浮いているのだろう。その無意味な術式が余計に腹立たしい。
 五条さんは波が来るぎりぎりのところに立って止まった。濡れそうで濡れない境界線。その境界を侵したところで濡れることなどないのに、五条さんはわざわざその境界線に立っていた。
「傑と行った海はもっと青くてきらきらしていたのに、こんなにくすんじゃうなんて」
 青い海なんて知らなければよかった。五条さんは海を見つめながらそうぼやいた。波を見つめる五条さんの目は今の天気を映したように鈍色に光っていた。いつの間にか、かけていたサングラスはどこかにしまわれていた。
「誰ですか、その傑って」
「……親友だよ。でもずっと前に絶交して、そしてこの前僕が殺した」
 俺が声をかけると五条さんは振り返って微笑んでみせた。物騒な言葉とは裏腹にこちらに向いた瞳はとても穏やかだった。その穏やかな視線にはある種の恍惚を含んだようにも見えて、湿った海風のようにとても気持ちが悪い。俺は見ていられなくて目をそらした。
「五条さんってひどい人ですね」
「そうなんだ、僕ってひどい人でしょ」

***

「この件は恵とは関係ないけど、でも呪いがいつ降ってくるかなんてわからないから」
 津美紀が呪われた時、五条さんは俺を見下ろしてそう言った。普段のサングラス姿ではなく目を包帯で覆った姿で津美紀のベッド脇に立つ大男はまるで死神のようだった。包帯越しなのに差すような視線が痛かった。俺のせいでないという彼の視線は、まるで俺のことを責め立てるように酷く残酷だ。俺はそれがたまらなく恐ろしく、ただただ黙って津美紀を見下ろすことしかできなかった。
 視界に入った津美紀は死んだように眠っていた。いつもならうっとおしいぐらいに話しかけてくるのに、今日はずっと黙ったまま。なんて声をかければいいのかわからずに俯く俺を置いて、五条さんは病室を出て行ってしまった。俺は動けないまましばらく津美紀のベッドを見つめていた。

 一人で帰ったアパートの玄関には見慣れた大きな靴が一足、適当に揃えて置かれていた。
 五条さんだ。無意識に先ほどの姿を思い出す。あの死神は俺のことも迎えに来たのだろうか。会いたいとはどうしても思えなかった。逃げたくて閉めかけた扉を再度開けようとしたが、扉の音を聞きつけたのか「おかえり」と声がした。まるで逃げるなというような声に、俺は仕方なく扉を閉めて「ただいま」と返した。
 部屋に入ると五条さんは部屋の隅に座っていた。大きな身体を小さく丸めた姿は先ほどの冷たさの代わりに寂しさを纏っていた。包帯を巻いていなかったから、それもあったのかもしれない。青い瞳がゆらゆらと揺れて俺を誘う。
「アンタ、何でここに……」
「来ちゃダメだったかな」
 目が合ったらもう駄目だった。心臓がどくどくと脈打ち、体中が熱くなる。沸騰した俺の視界の先には、五条さんが揺れる視線のままこちらを見つめていた。キラキラ揺れる青はきっと涙のせいだろう。赤い目じりににじんで境界があいまいだ。
 ああ、だから会いたくなんてなかったのだ。こんなタイミングで惹かれるなんてどうかしているとはわかっていたのに、止まることはできなかった。俺は誘蛾灯に群がる羽虫のように五条さんに近づいた。
 隣まで来た時、不意に腕をつかまれる。強い力で引かれて体勢を崩した俺を五条さんは床に押し付けた。
「慰めてあげよっか」
 馬乗りになって五条さんはそう言った。言ってる意味は不思議と分かった。慰めて欲しいのはアンタでしょう。言えなかった。だからその誘いに乗った。
「馬鹿なんですか」
「そうかもね」
 五条さんは寂しい目のまま笑った。この人のそんな表情初めて見た。――そんな目で見るなよ。俺は耐えられなくて五条さんを押した。でかい図体のくせに、彼は一切の抵抗もなく床に沈んだ。
 そこからはなし崩しだった。布団も敷かないまま俺はあの人の身体を暴いた。五条さんは一切抵抗しなかった。それがつらくて目をそらすように彼を抱いた。抱いている間は今日のなにもかもを忘れられるような気がしたが、そんなものただのまやかしだ。それに気づいたから終わった後は少しだけ泣いた。その日初めての涙だった。

***

「恵! 何ぼーっとしてんの」
 少しだけ昔のことを思い出していたからだろうか。ぼんやりしていたようで五条さんが身体をかがめて視線をあわせてきた。いつの間にかけなおしたのか、鈍色の瞳は真っ黒いサングラスに遮られ、まだ鈍色を灯しているのか、それとも澄んだ青さを取り戻したのか、判別できなかった。
「五条さんがひどい人だってことを思い出してました」
「えー、僕何かしたっけ」
「はい」
「即答かよ」
 五条さんはあーあーと大げさにため息なんて吐きながら砂浜を蹴った。蹴られた砂は湿っていたからか少し浮いただけで、すぐにぼとりと落ちて砂浜に戻っていった。
 よかった。普段通りの五条さんだ。俺は安心して胸をなでおろす。同時に疑問も浮かんでくる。だって今日のこの人は、あの日を思い出させる程度にはナーバスで、そして冷たかった。
「五条さんってその」
「何」
 傑って人が好きなんですか。聞けなかった。思いついた疑問は喉元を焼き、なんとか絞り出した声はすかすかで音にもならない。五条さんはそれでも笑って首を縦に動かした。――そうだよ。今一番見たくない動きだった。
「じゃあ、なんで……」
 殺した、なんて簡単に言うんですか。やはり声は途切れて消えていく。
 それでも、あの日なぜ俺を慰めたかったのか、今になって分かった気がした。彼はわからなかったのだ。単純にわからないから、何が正しいかを模索して俺に触れてきた。
 昔、五条さんのことを変えようとした人がいたのだろう。人の理など何も知らないこの人のことを人間にしようとした優しい人が。でもこの人は変われなくて、そのせいで決別した。それがきっと五条さんのこぼした傑≠ネのだ。
 一つ一つのピースがはまっていく。知りたくなどなかった答えが勝手に組み立てられていくような感覚にめまいがする。
「僕は人である前に呪術師だから」
 五条さんは無機質な声でそう答えた。冬の海らしい寒風が運んでくる言葉は胸を深くえぐっていく。海は鈍色のまま低く波打って、五条さんの濡れるはずのない足をそっと濡らした。
「アンタってやっぱり馬鹿ですよ」
 俺は耐えられなくなって、馬鹿な五条さんに飛びつくように抱きしめた。五条さんはバランスを崩して湿った砂浜に背中から倒れていく。俺は濡れるのも厭わずに五条さんを抱きしめた。濡れた身体は冷たかったけれど、それでも先ほどの言葉よりは温かかった。
「ちょっとなにするの」
 濡れちゃったでしょ。と五条さんは口を尖らせて文句を言うが、俺は離す気などなかったから、そのまま必死にしがみついた。
 五条さんは、きっと何もわからない。それでも、わからないなりに道を模索して、失敗して、そのたびに傷ついて、そしてそのことにすら気づいていない。でもそれじゃあ心はもたない。もつはずがない。
 だから、この人の心はどこか無意識によりどころを探している。手を伸ばしてみたり、伸ばせるように隙間を用意してみせたりして無意識に助けを求めている。俺はそんな不器用な五条さんがどうしようもなく愛おしくて、同時にやるせない。
「五条さんが馬鹿だから、ですよ……」
「ちょっと、泣いてるの? あー、僕が悪かった?」
 知らない間に俺は五条さんの胸で泣いていた。五条さんはすこし戸惑いながらも濡れた手を背中に回した。ゆっくり抱きしめかえされて、今この人に触れているのだと分かる。濡れていなかった背中がびしょびしょになっていくが、今はそれでいいとさえ思った。
「なんか言ってよ、めぐみ〜」
「……ちょっと、黙っててください」
 五条さんの冷たい手が背中をさする。不器用で、優しい手つきだ。真冬の海に転がって、寒くてドロドなのに今はこのままがよかった。
 結局、五条さんは人の気持ちなんてわからないし、俺だって五条さんのことはわからない。それでも今だけはわかった気でいたかった。アンタがそうやって手を伸ばすなら掴んでみたかった。隣に立ちたかった。それが叶わぬ願いでも今は構わない。アンタの小さなSOSに傑≠ェ気付かないなら俺が代わりに気づいてみたっていいじゃないか。居なくなった奴なんてどうだっていいでしょう? 俺は回した腕に力を込めた。流した涙は五条さんの服にそっと染みて、そしてそのまま消えていった。

鈍色


一覧
△▼△▼△▼