僕と言う存在
下腹部がジクジクと痛み、思わず顔を歪ませる。痛みのあまり拳を作り強く握りしめて腹痛をやり過ごす。しばらくしてから痛みが和らぎ、細い息を吐いた。この波のある痛みに昨日から悩まされていた。痛みは初めてではない。定期的に訪れる。けれど何度来てもこの痛みに慣れることはない。
そんなことを考えていくと股から溢れて生温かいものが落ちていく感覚を覚える。そっと足を広げて見るとポトン、ポトンと小さな音を立てて黒い血が真っ白な便器を赤く染めている。いつ見ても汚らわしい。なんでこんな現象があるのか、と強く考える。けれど僕だけではない。お母さんも、お祖母ちゃんも、近所のおばさんも、クラスの女子も、ユイも同じことがある。一滴、また一滴と血が垂れて透明な水を汚していく。それが僕の心が、そして下腹部がまたジクジクと痛んだ。思わず前かがみになる。拳を握りしめて眉間にしわを押せて先ほどより強い痛みが引くのを待つ。わずかな視界の中で僕の太ももが見えた。女みたいに白くて毛が薄くて細い。ヒロの足みたいな筋肉はない。もちろんヒロは運動が得意だし比べるに値しないだろう。それでももう少しだけでいいから似てる部分もあってもいいじゃないかと思う。手も指も、腕も胸もヒロとは全く違う。認めたくないけれどどちらかと言うとユイに似てる。痛みの波が引き、力を緩める。右の拳を開くと平に食い込んだ爪の赤い跡がついていた。腹の痛みとはまた違う小さな痛みが伴っている。その跡を僕は反対の手の指でそっとなぞった。
僕はどっちなんだろう。便器を穢す血の赤、その血で穢れていく便器の白。穢しているのか、穢されているのか。
「シグ」
名前を呼ばれてハッと我に返る。ヒロの声だった。中々戻ってこない僕を心配したのだろう、トイレの前にいるようだ。僕は何、とだけ返す。
「大丈夫か?」
扉越しにヒロのくぐもった声が聞こえる。僕はうん、とだけ答える。数秒の沈黙のあと、さらに遠くからヒロ早く取って来てよ、とユイの声がした。悪い、と言葉を残して控えめな足音がして気配が遠ざかって行った。DVDかな、と思いながら僕は尻を拭き、膝まで下げていたサニタリーショーツとメンズのスパッツを順番に履く。そして最後にジーパンを履いてトイレの水を流して扉の外に出た。二十分ぶりにリビングへ戻って来る。台所を見るとユイがマグカップにやかんで沸かしたお湯を注いでいた。僕を一目見る。
「シグ、大丈夫?」
ユイは再びマグカップに視線を戻しながらそう言った。僕はまたうん、とだけ答えて白いソファの真ん中に座る。ソファと僕に窓から差し込む光が降り注ぐ。柔らかな温かい日差しだった。日の温かさを感じているとユイが3つのカップを持ってソファの前のローテーブルにカップを置いた。甘いにおいがする。どのカップにも茶色の液体が入っている。カップの色は白、黒、赤。
「はい、ココア」
ユイはそう言って僕の目の前に黒いカップを差し出す。それを両手で受け取る。ユイの指と触れ合った。
「零さないでね」
優しい言葉と共にユイの白くて細い指が僕の白くて細い指から抜けるようにゆっくりとカップから離れていった。日差しともユイとも違う温かさを手の中で感じながらゆっくり一口飲む。甘い味が口の中で広がって体の奥下へ落ちていく。じんわりと温かいものが広がっていく。止まない腹の鈍い痛みが鎮まっていく気がした。
「どう? 味は」
「……ココアなんかで味聞く?」
「これ分量は自分で決めるインスタントだから作った人の腕によって味左右されるよ」
「……そっか」
僕はもう一口飲む。さっきと変わらないほんのりとした甘い味がした。
「甘くて、おいしい」
ぎこちなくそういうとユイの口元が少しだけ上がって微笑んだ。ユイは赤いマグカップを手に取り口づける。胸の下まである茶色の髪が動きとともに揺れる。いつもは真っ直ぐなのに今日は緩やかなカールを描いている。ぼんやり見ているとユイと目が合う。
「なぁに、そんなに見つめて」
どうしたの、と言うと同時にリビングの扉が開いてヒロが入って来る。
「遅い」
「ごめん」
ユイは少し厳しい口調でそういうとヒロが淡々とした口調でそう返した。別に怒っているわけではない。これがいつもの二人のやりとりだ。ヒロはいくつかのDVDの箱と毛布を持っていた。どうやら上の階から降ろしてきたようだ。
「シグ、大丈夫か」
ヒロは僕の左隣に座るとさっきとは打って変わって心底心配そうな声で尋ねながら僕の体に毛布を頭から被せられる。ヒロがいつも使っている毛布だった。ヒロのにおいがする。石鹸と僅かに甘い香水の匂いを感じているとヒロの手が僕の頬に触れる。また違う温かさが冷えた頬を温めてくれる。それを見るとユイは小さなため息をつきながら立ち上がり、ヒロの手からDVDの箱を掻っ攫うように持ってテレビの下のDVDレコーダーの前に座る。
「こんなに体冷えて…。寒い? 暖房入れる?」
「大丈夫」
「まだお腹は痛い?」
「うん……。でもジンジンするけどさっきよりは痛くない。安静にすれば治る。ありがと」
僕の頬を包む温かくて大きな手の上に自分の手を添える。ヒロの硬い表情がほんの少しだけ柔らかくなる。ヒロは心配性だ。特に僕のことになると血相やら顔色が変わってしまう。嬉しいことは自分に降りかかって来たかのように喜び出すし、僕が苦しむと僕本人より戸惑い慌てだす。それでいて僕以外の人間の時はどちらかというと不愛想で表情が乏しいのだからなんだか笑ってしまう。もちろんユイが相手でもヒロの対応は同じである。
なんて考えていると顔を少し引き寄せられヒロの顔が近づいて唇が重なる。顔を少し離す。目が合う。もう一度、今度はついばむようなキスを二、三回された。思ってもいないタイミングに僕は声も出せないでいた。目を見開く僕の表情を見てヒロはちょっと笑うとまた顔を近づけ―――
「何してんの!」
「ってぇ!」
ゴッ! という鈍い音がしてユイの拳骨がヒロの頭を殴る。ユイはヒロを睨み付け、ヒロは自分の頭を抱える。
「ちょっと目を離したら……! こっちは客人よ! あんたが持て成さないでどうすんの! そういうのは私が帰ってからやれ!」
「もう客とかそういうレベルじゃないだろお前…」
「それで再生できないからやってよ」
「どういうこと。難しい操作じゃないはずなんだけど」
ユイが背を向けてテレビに向かって再び足を進める。ヒロはその隙を狙って僕の額に優しいキスを落とすとソファから立ち上がり、ユイと同じように数歩歩いてテレビの前で立ち止まる。ヒロはテレビの下にあるDVDレコーダーの前にしゃがみこんで操作して、横からユイが中腰になってそれを見守っている。
僕の感情に同調するヒロに対してユイは一緒に動揺してどうする、と言っていつも窘める。一番苦しいのは本人だからそれに同調するだけじゃなくて冷静に対処しないといけない。そんなことを言っていた。それに対してヒロはいつもムッとした顔をしている。痛いところを正論で突かれて何も言えない、そんな顔だ。でもヒロも僕もユイが心配していないわけじゃないし、その言葉は僕たちを思ってのことだと分かっている。男でも女でもないグレーの僕と、そんな僕を好いてくれるヒロのことを、彼女はよく考えて助言してくれる。二人だけだった僕等の世界はユイとの出会いで広がった。だから今でも時々怖くなる。世界に僕一人だけしかいなくなってしまうんじゃないかと。
僕はまだDVDレコーダーに苦戦している二人を見る。座っていても分かる筋肉質のヒロ。体に綺麗な丸みや曲線があるユイ。広い背中。華奢な足。僕より大きくて温かい僕を撫でてくれる手。ぬるくて線の細い、ココアを作ってくれる手。それらの全部がくっついて僕の居場所がなくなってしまうんじゃないか。過ごしてきた日々の中で二人が本当に僕にとって良心的であるのは分かっているしそんなことをするような人間でもないのはわかる。グレーである僕はそんな危惧はいつも心の片隅にある。
「なんで再生できないんだよ。ユイお前どっかいじっただろ」
「私のせい? 何もしてないんだけど」
「えー……? でも俺が前に使ったときは使えた…」
うわっ。そんな声が二つ重なる。
「シグどうした?」
「お腹痛い? 薬持ってこようか?」
僕は二人の後ろから、間に入るようにくっついた。声音からしてきっと驚いたような不安そうな心配そうな顔をしているだろう。けれど僕は顔を見れないでいた。
「どうもしない。お腹もそんな痛くない。けど遅いから……」
段々恥ずかしくなってきて声が小さくなる。二人が顔を合わせ、そして僕を見て笑う雰囲気を肌で感じ取る。ユイは僕の背に毛布越しに腕を回してくれるし、しゃがみこんでいるヒロは距離を縮める。
「ごめんね、シグ。家主さまがDVDレコーダー操作できなくて」
「俺は絶対客人さまがいじったと思うんだけど」
「……DVD自体がだめんじゃない? 他の奴にすれば?」
「えーそういう感じ? ……って、おいこれ」
「あー、ごめん。DVD逆にして入れてたみたい」
「おい、客人」
「家主さまのせいじゃなかったね」
そんな軽口が空気を包む。こんな風になるなんて僕ら三人が出会ったときは思ってもいなかったし、今まで言い争ったりひどい言葉を投げつけ合ったこともある。それでも今、流れるこの安寧は心地よかった。
きっと警鐘は生きている限り止まないだろう。けれどそれはきっと僕がグレーの存在じゃなくても、変わらないと思う。人はみな、不安の中で生きている。
「じゃあ再生するから」
「映画館風にカーテンしめて電気消していい?」
「別にいいよ。シグ、座ろう」
そう言って僕の左隣にヒロ、そして後から右隣にユイが座る。
―――願わくばこの安寧が少しでも長く続きますように。
僕は両隣の異なる体温を感じながら両手を組んで薄暗い部屋の中、流れ出す映画を見つめた。
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