New Summer
「じゃあね、コーリャ」
それだけ言うとお母さんは車に乗った。車のエンジンがかかる。そしてすぐに動き出す。僕はお母さんの車が遠くなっていくのをただただ見つめた。
「……今、孫を預かってんでよ……」
「……ユキちゃんの子だっぺ?……」
ミーンミーンと聞いたこともない何かがけたたましく鳴いている。なんていう名前の動物だろうか。僕はヤツの姿を見たことがない。とても奇妙だと思う。ちなみにさっきまではジージーと別のヤツがこれもまたやかましいくらい鳴いていた。似たようなのがいくつかいるらしい。こんなうるさい生き物が何種類もいて何十匹、何百匹、もしかしたら何千匹もいると思うと気持ち悪くて仕方がなかった。今度はまた違うヤツが鳴いている。ただでさえ暑いのに空気も体ももっと熱くなる気がした。太陽はこれでもかというぐらいギラギラと照りつけ灼熱の光を僕や屋根や雑草とか芝生に浴びせ続ける。けれど屋根も雑草も石も木もまるでそれが普通かのように黙ってそこにいる。ひまわりなんか光を私に注いでくださいといわんばかりに太陽と見つめている。誰も動かない。僕だけが僕の頭や額からもとめどなく汗が吹き出しながらそこに立ち尽くしていた。
僕は自分が思っている以上に汗っかきであることを発見した。
「これ、コウタ。何してるんでよ」
更に暑さが増した気がした。僕はだらだらと吹き出る汗を感じながらゆっくりと振り向く。案の定、というか想像するまでもなく縁側の日陰にフサエが立っていた。しわしわでヨボヨボの黄色い肌の、おばあさん。しわばっかりの手にはお盆を持っている。その上には麦茶の入ったコップが載っている。そしてコップの上に目線を向けるとお祖母さんが笑っていた。何がそんなに楽しいのかいつもヘラヘラと笑っている。今もその笑顔で僕を見ている。僕は真剣な表情でフサエを見つめた。
フサエは畳の部屋の淵にお盆を置くとよっこらせ、と言いながら渡り廊下を跨いで縁側に設置された石の上のサンダルを履いて縁側の脇に置かれていた古臭い麦藁帽子と糸の解れたタオルを持って僕の近くへやってくる。まだ笑っている。僕は頬から雫が垂れるのを感じながらフサエが近づくのを黙ってみていた。
「これまぁた、こんなに汗掻いてんでんよ。暑いんじゃないかい?」
「うん。暑いよ」
僕は淡々とフサエの問いかけに答える。見て分かるだろ、と思いながら。暑いなんて今日始まったことじゃない。1週間前からこの暑さが始まって、一昨日も暑かったし昨日も暑かった。そして今日も変わらず暑い。これが夏というのだろう。だから隕石が落ちてきて地球が爆発したりあるいは位置が変わったりしない限りは明日も明後日も1ヶ月先も暑いだろう。それをこのばあさんは馬鹿みたいに毎日外で突っ立っている僕に馬鹿みたいにニコニコ笑いながらノロノロよってきては暑くないか、と聞いてくる。本当に馬鹿なんじゃないかと思う。僕も、この人も。まぁ、この人はただの馬鹿ではないようだ。馬鹿な僕にタオルと麦藁帽子を持ってきてくれて、そして僕の汗を拭こうとしてくれる。
「自分でやる」
僕はまた今日も枯れ木みたいな手からタオルを取ると頭から腕まで汗をふき取った。とめどなく溢れていた汗がなくなって少しはましになる。あの雫が頬を伝って落ちる感覚はほとんどなくなった。フサエは僕が汗を拭き終わるのを見守ると昨日のように僕の頭に麦藁帽子をかけようとする。その手を僕は振り払った。
「いいよ。帽子なんていらない」
こんな風に拒絶したのは初めてだった。麦わら帽子を掴むしわしわの手と宙で当てもなく彷徨う。一瞬見えてしまった。お祖母さんの驚いたような、寂しいような顔を。僕は思わず俯く。
相も変わらず遠くではミーンミーンと鳴いている。本当にうるさい。まるで僕を攻め立てているようだった。お前は悪い子だって言われているようだった。本当にイライラする。フサエも僕みたいにその場に立ち尽くしていた。けれど彼女がどんな表情で僕を見ているのか分からなかった。
「……いけねぇよ」
しばらくしてからぽつりとそう言った。怒っているような声音じゃない。そう察知して僕は恐る恐る顔を上げた。また笑っていた。ちょっと寂しそうな表情も混ぜて笑っていた。
「このカンカン照りの中、ずっとおったら熱射病にかかっちまうだっさ。コウタの好きなことをするのはええけど帽子はかぶらないとだめだでん。じゃないとオラは心配だけぇ」
そう言って僕の手からタオルを取るとまた頭から噴き出していた汗を拭いて麦藁帽子をかぶせた。そして僕の顔や首、腕を拭いてくれる。その手つきは雑だけど優しかった。僕は黙ってそれを見ていた。
「水分も取らないけねぇさ。ちゃんと麦茶飲むんださ」
僕の頭を麦藁帽子越しにポンポンと軽く叩いて縁側に戻っていった。その小さくて丸まった背中を見つめていた。さっきまで感じていた苛立ちは消えていた。代わりに心を締め付ける苦しさが代わりに残った。
しばらくしてから僕は縁側に向かって足を進める。靴を脱いで家に上がる。今度は日陰が僕の体を覆った。日向にいたからやけに暗く感じた。僕はお盆の前に座る。古ぼけた茶色のお盆だった。その上には麦茶入ったガラスコップが置かれている。表面は水滴がびっちりついていて、滑り落ちてお盆を濡らしていた。僕は水滴まみれのそれを手に取った。冷たくて気持ちがいい。薄い琥珀色の液体に角の丸くなった四角い氷が浮いている。コップと氷がぶつかるとカランカランと心地よい音が生まれた。コップのフチに口をつけて飲んでいく。冷たい感覚が口の中を支配し、喉を通って、体の奥へと落ちて、そしてお腹の奥底へと消えていった。心なしか体がひんやりする。今まで氷をいれて飲みたいと思ったことなど一度もなかった。冷たすぎる飲み物は体を冷やし、飲みすぎるとお腹を壊す。それが僕の思っていた冷たい飲み物のイメージだった。まるであそことは逆だ。
一年の大半が雪と厳寒で覆われていたあそこでは夏は天国のような季節だった。肌を刺すような寒さが和らぎ、白がなくなって緑や動物たちが見える。人の姿も雪に隠れることなく道をしっかり歩いている。氷を割らなくても釣りが出来るし友達の家にも気軽に行けるしママは寒い寒い言わないしパパは雪かきを一日に何度もやらなくてすむ。最高の季節だった。それでも寒さは消えない。川の水は肌を刺すような冷たさだし、風はときおり肌寒い。マーシャは夏に生まれてきて本当に良かったと思う。
そんな冷気と結びついた日々の中、僕は今まで夏でも氷をいれて飲みたいと思ったことなど一度もなかった。冷たすぎる飲み物は体を冷やし、飲みすぎるとお腹を壊す。それが僕の思っていた冷たい飲み物のイメージだった。この暑さを、日本の夏を体感して僕は初めてキンキンに冷えた氷入りの飲み物がこんなにおいしいと初めて思った。そもそも夏が、日本の夏が地獄のように暑いなんていうのも初めてだ。僕がこんなに冷たいものを飲んでいるのを見たらジェドゥーシカもバーブシカも驚くだろう。あの人たちは夏でも体を冷やさないように、と温かいとても甘いココアを作ってくれた。
でももういない。ジェドゥーシカもバーブシカも、パパも、マーシャも、そして僕とママも。あの事故でバラバラになった。
「―――コウタ」
ハッと我に返り、顔を上げる。フサエが立っていた。また笑って僕を見下ろしている。
「コウタ。お昼に冷やし中華作ったでんよ。一緒に食べるっぺさ」
本当にイライラして、さっき飲んだ麦茶が沸騰するんじゃないかと思うくらい体の中が熱くなった。まず、思った。コウタって誰だよ。
「ほれ、コウタ。何してん―――」
「コウタって誰だよ! 僕はコウタじゃない! なんなんだよ! なんでずっと笑ってんだよ! 何がそんなに面白いんだ! 何にも…ちっとも面白くないじゃん!」
麦茶、本当に沸騰したのかもしれない。それくらい僕の体は熱かった。空気が涼しく感じられた。でも僕は僕の気持ちを抑えることが出来なかった。僕の口が勝手に動いて閉じ込め続けてきた気持ちを吐き出していく。
「なんでここはこんなに暑くてうるさいんだ! あのうるさいのは何! ずっと鳴いててうるさいんだよ! あと冷やし中華って何! そんなの見たこともないし聞いたことない! しかもやたらと暑いし…! 夏って過ごしやすいはずだろ! あぁもう…ムカつくんだよ! みんな! お前も! ここも! 全部! 全部…」
―――ごめん、ニコライ。
嫌いだ、と言おうとしてロシアで初めて喧嘩した時のママの顔と、最後に会話した時のパパの顔が思い浮かんだ。目の前にいるおばあさんは驚いたように目を見開いて僕を見ている。目から熱いものが溢れて落ちていく。言えなかった言葉は嗚咽となって口から零れていく。
「……ごめんなぁ。ばあちゃんが悪かったでんよ。見知らぬところにかあちゃんと離れ離れでなぁ……」
フサエは跪いて僕の背中をそっとさすってくれた。ひどいことを言ったはずなのに、そう思うと胸が痛くて、恥ずかしくてたまらなかった。僕を撫でるその手は優しく、そして温かった。
気がついたら僕は畳に横になっていた。体には一枚、薄いブランケットのようなものが掛かっている。目が腫れぼったい気がした。こすると水気を感じる。もしかしたら目から麦茶が出てしまったのかもしれないと思った。けれどそれどこまでも透明な雫だった。
僕が目から麦茶を出せるんじゃないかと思うくらい爆発したあの日の出来事から一夜が明けた。フサエはそれでも何事もなかったかのように僕にあの明るい笑顔を振りまいておはよう、と声をかけてくれた。僕は俯いておはよう、ぽそっと言うことしかできなかった。返事を返すことだけが精いっぱいだった。
朝ごはんを食べてからぼんやりと縁側で外を眺める。昨日までのように暑い日差しが降り注ぐ中何時間も立ち尽くす気力はなかった。そもそも今までが異常だったんだと思う。僕が健気に汗を掻きながら立ち尽くしてもお母さんが迎えに来るとは限らない、と僕は悟ってしまった。もちろんロシアに帰ることもお父さんたちが生き返ることはもっとない。そう考えてしまってもう立つ気力もなかった。むしろ今まで待ちつづければ迎えが来るとでも思っていたのか、と昨日までの自分を笑いたくなる。
背中からはガタンガタンと物音がする。朝食を食べながらフサエが台所掃除をしている姿を見たから多分それだろう。かなり汚れているのか少し大きな音だった。その音を聞きながら僕はひたすら外を眺めていた。今日もミーンミンミンとアレが鳴いている。
ミーンミンミンミン、ガタガタッ、ガタンガタン、ジージージージー。プルルルルル。はい、ヨシムラです。ミーンミンミッ。
雑音の大合唱が突然鳴り止む。ずっと何かしらの音が聞こえていたのにすべてを取っ払うとこんなにも静かになるのかと僕は思った。なんて静かなんだろう。けれどその刹那、かすかだけど聞き慣れない音を耳にした。人の、笑い声だろうか。とにかく声がした。誰の声だろうか。耳を澄ませる。
……―――。……! ……―!
やはりそれは人の声だった。笑っているように聞こえた。けれどその笑い声に混じってマーシャの声がしたような気がした。そんなはずはないと思ったが耳を澄ませば澄ませるほどマーシャの声はますます僕の中で確信を持った。そういえばここに来てから近所の人に会ったことがない。一度くらいはどんな人が住んでいるのか見るのも悪くないだろう。僕は縁石の上のサンダルをひっかけると再び、けれど昨日までとは違って日照りの中に足を踏み入れた。
声の主に思った以上にすぐに辿り着いた。家を出て右に進むと道路を挟んだ向こう側の家だった。家を囲うように植えられている垣根からそっと覗く。その家の日陰の縁側に僕と同い年ぐらいの女の子がいた。多分声の主はあの子だろう。女の子はマイクを持ちながら自分の隣にあるかごのようなものに向かって踊ったり歌ったりしていた。何をしているのだろう、と思ったのと同時にそのかごから小さな手が見えた。それはマーシャの手に似ていた。小さな手は女の子に向かってバタバタと手を振っていた。キャッキャと笑い声もする。なんだか楽しそうだった。
「……あー、疲れたー! あたし、喉乾いたから飲み物飲んでくるね」
女の子は疲れたのかその場に座り込んでから矢次早にそういうと家の奥へ行ってしまった。籠だけが縁側に取り残された。
僕は籠をしばらく観察していた。すると籠からまたあの小さな手がバタバタともがいていた。さっきの女の子の真似だろうか。そう思った。けれど数分眺めているうちに僕は手が何かを求めていることに気が付いた。僕の間違いでなければそれは女の子がさっきまで持っていたマイクに向かって手は伸びていた。けれどあの女の子は出てこない。手が求めているものを知っているのは僕しかいなかった。けれどここは僕の家ではない。垣根を超えてしまうことにためらいがあった。
「うーううー。あー!」
籠から癇癪の前兆のような声が聞こえた。誰も出てこない。とてももどかしかった。なかったことにして帰ってしまおうかと思った。けれど僕は求める小さな手にマイクを渡したかったし、何より籠の中をちゃんと見てみたい気持ちがあった。悪いことをするわけではない。人助けをして、ちょっと見るだけだから。そう言い聞かせて僕は数秒後に垣根を超えた。
ドクンドクン、と胸が高鳴った。悪いことをしているような気持ちになった。僕は籠の近くに転がるピンクのマイクのおもちゃを取って籠を覗く。そこには赤ちゃんがいた。マーシャに似ていると思った。
僕はピンクのマイクを小さな手に渡した。2つの黒いつぶらな瞳がおもちゃを捉え、そして手を伸ばした。
「わっ」
赤ちゃんはおもちゃを僕の手ごと握った。小さくて柔らかくて温かかった。手を放そうとやんわりと引っ張るが赤ちゃんにぎゅっと掴まれて離せなかった。でもそれが僕にはなんだか心地よかった。
「あー。うーあー」
そう言いながら赤ちゃんはおもちゃを両手で持とうとする。その間をすり抜けて僕は手を赤ちゃんの手から逃げた。下膨れのほっぺた。むちむちだけど小さな手足。白くてすべすべの肌。タンポポの綿毛みたいな黒い髪。黒くて丸いつぶらな瞳。どこを見ても本当に可愛らしかった。
赤ちゃんはどの子も似てるように見えた。だから最初はこの子がマーシャのように見えたしもしかしたらマーシャ本人なのかもしれないと思った。けれど、瞳の色を見て思う。マーシャも僕もお父さん似だから髪の色は茶色に近かったし、瞳の色は茶色と水色が混ざったような淡い色だった。この子は僕のお母さんのような、黒い瞳だ。マーシャじゃない。
それでも僕はこの子にマーシャの面影を映してしまう。もしマーシャが生きていれば、そう考えてしまう。そんなことをしてもマーシャは帰って来ないのに。
「……マーシャ」
妹の名前をぽつりと言ってみる。けれどそんなことはお構いなしと言わんばかりに小さなマイクを強く握って手を振っている。まぁ、そもそも赤ちゃんとうまく意思疎通ができる方がすごいことだし、仮に反応してもマーシャじゃありません、と言われてしまうだろう。
そんなことを考えていると別の視線を感じた。顔を上げるといつの間にか、あの踊ったり歌っていた女の子が立っていた。赤ちゃんと同じ黒い瞳を大きく見開いて僕を見ている。女の子は見開いたまま僕を凝視する。どうしよう、どうしよう。その言葉だけが頭のなかをぐるぐると回った。微妙な空気と籠の中の赤ちゃんの声がその場に流れる。
「どなた!」
ドナタ、という言葉を聞いて僕はその子がなんと言っているのかすぐに理解できなかった。少し言葉を噛みしめてから誰? と言われていると気づき、慌てて僕は声を出す。
「えっと…僕……。近くに住んでて…。その…赤ちゃんの声がしたから…ここに来て……。この子がマイク拾おうとしてたから……ごめんなさい!」
自分が何を言っているのか分からなかったけれど女の子が黙って聞いてくれたから自由に言うことが出来た。女の子は目を見開くことはやめたけれど先ほどと変わらずこっちが恥ずかしくなるくらいずっと僕を見つめている。怒っているのだろうか、そう思ったけれどそういう雰囲気ではなさそうだった。
「…赤ちゃんが好きなの?」
突然の質問だった。けれど声音はやさしかった。
「う、うん」
「ふーん。そっか。でも赤ちゃん可愛いよね」
「うん。可愛い」
「私、カオリ。この子はマオだよ。私の妹」
そう言ってカオリは籠の中のマオを指さす。マオは飴のようにマイクを舐めていた。
「あなたの名前は? なんて呼べばいい? あだ名は?」
「……僕はニコライ。コーリャって呼ばれてたよ」
コウタ、という名前が思い浮かんで沈む。あれは違う。僕はコウタじゃない。そう自分に言い聞かせた。
「え? コ……?」
彼女は訝し気な顔をする。彼女はころころ表情が変わる。そう思った。
「コーリャだよ。コ・ウ・リャ」
「えー! なんか変わったあだ名!」
反応に僕は困惑した。ニコライという名前もその愛称であるコーリャも僕にとっては珍しくなかった。ロシアではニコライは腐るほどいるしコーリャと誰かが言うとたくさんのニコライが振り向いて勘違いを起こしていた。だからこんな名前など珍しくなどないし、むしろ古風なイメージがあった。
「……コウタ、っていうのもあるよ」
「え。もしかして吉村のおばあちゃんのとこの子?」
しぶしぶその名前を出してみると思わぬことにその名付けの主のことを口にされて今度は僕が目を見開いた。なぜ初対面のはずの彼女が知っているんだろう。
「な、なんで知ってるの?」
「ここ、田舎だから情報すぐに回ってくるの。吉村のおばあちゃんが孫を預かってるって話聞いたよ」
「そう、なんだ」
僕ぎこちなくそう答えた。
「あだ名が何個もあっていいと思うけど…だめなのかな」
「だめじゃないけど……。フサ……おばあさんが勝手に決めたから納得いかない」
しっくりくる答えを見つけ声に出す。カオリはそっか、とだけ言うとマオの頬っぺたをつつきだす。僕らの話が長かったのかマオはいつの間にか寝ていた。スースーという小さな寝息が聞こえた。遠くではまたミーンと鳴いている。
「多分、それって君が噂にならないようにするためじゃないかな」
「え?」
「だって、かっこいいよ。髪の毛黒くないし目も青っぽいし。クラスの猿みたいな男子より全然かっこいい!」
カオリはまた目を見開いている。けれど今は目が輝いている、と言った方がしっくりくる。その代わり突然思ってもないことを言われ、僕の目が点になる。一体どういうことだろうか分からなかった。かっこいいから、と理由でコウタを名付けられる。意味が分からなかった。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているとカオリはゆっくりと説明を始める。
「さっきも言ったけど田舎だから親しくない人の情報まで耳に入るし、逆に親しくない人が自分のことお知ってたりするんだよ。ニコライって名前もコーリャって名前も目立つし、君を見たいがためにわざわざ見に来るかも。だから君が目立たないようにコウタってあだ名つけたんじゃないかな」
するん、と彼女の言葉が心に入る。僕がコウタという名前に違和感を感じているように、ここではニコライもコーリャという名前が違和感になる。そんな風に今まで考えられなかった。
「おうちに帰ったら聞いてみな。話さないと分からないよ」
僕は黙っていた。けれどカオリは特に気にするわけでもなく新しい質問をする。
「いつまでこっちにいるの? 夏休み中ずっとここ?」
難しい質問だった。お母さんと別れたあの日、いつに帰って来るねとか連絡するねとか何も言われなかった。いつも綿密な計画を練ってスケジュールを立てるお母さんが言わないなんて珍しいことだった。
「……分かんない。もしかしたらずっとこっちにいるかもしれない」
「え? そうなの? なんで?」
今度は簡単な質問だったけれど言葉がつまった。そして思い出したのはあの日、さよならと言って実家をあとにしたママの姿だった。
『じゃあね、ニコライ』
今、お母さんは何をしているのだろう。仕事だろうか。休みなのだろうか。また家にこもって泣いているのだろうか。お母さんは時折僕に隠れてこっそり泣いていた。僕がわがままを言わなければ、お母さんは泣くことはなかったしお父さんもマーシャも死ななかった。
「僕が、いけないんだ」
「えっ……! ちょっと……」
カオリは慌てだす。それもそのはず、突然僕が泣き出してしまったのだから。人前で、しかも数十分前に出会ったばかりの女の子の前で泣き出してしまうなんて恥ずかしくて仕方がなかった。けれど僕は涙を止めることができなかった。
11月の厳しい寒さに僕は生まれた。6回目の誕生日にお父さんお母さん、マーシャ、おじいちゃん、おばあちゃんで車に乗ってちょっと高級なレストランでディナーを楽しむ予定だった。そのころ、お父さんは風邪を引いて寝込んでいたばかりだったからお母さんが代わりに運転した。楽しみだね、と車内で盛り上がっていた時それは起きた。車が凍った路面でスリップしたのだ。安定を失った僕らの車にスピード違反の対向車線の車が突っ込んで来て車同士が大きな音を立ててぶつかった。僕はそのあと意識を失ったからどうなったか分からない。けれどその事故で祖父母は重傷、マーシャとパパは意識不明の重体で、僕とママだけが唯一軽傷だった。でも結局マーシャとパパは手当ての甲斐なく息を引き取った。娘と夫を失ったママは狂ったように泣き出し、体と心に受けた傷を癒すように眠るのを繰り返し続けた。
ママは自分があの時スリップしなければ、面倒くさがらずにタイヤを付け替えればと自分を責めたてた。祖父母もそうやってママに詰め寄った。でもママが責められるなら、本当は僕が責められないといけない。僕がコース料理というものを食べてみたいなんて馬鹿なわがままを行ってしまったのが元凶だ。だから責められるべきは僕である。
ママと祖父母の溝は埋まらず、ロシアに居場所を失った僕らは日本に帰ることになった。ママは泣く代わりにロシア語を教える先生になってがむしゃらに働き出した。僕はママの迷惑にはならないように、となんでも1人でやるように心がけていたが寝坊して学校を遅刻したり度々忘れ物をするようになった。学校の先生にママを呼び出され、生活態度を改めるようにと注意された。ママはパパ達が死んだときに似た、暗い顔をしていた。そして七月に僕はここに連れて来られ、初めて母方の祖母に会った。ママはフサエに僕のことを頼むと自分は1人、東京に戻って行った。僕を置いて。そして今、僕はここにいて泣いている。
「……僕、きっとママに嫌われたから置いて行かれたんだ」
嗚咽が混じって声が震えてしまう。けれど僕は口早にそう言った。カオリは困ったような顔をしていたがハッと我に返りまた家の奥に引っ込んだ。ダダダダダ、と駆ける音がして、数秒の間が空いてから再びダダダダダと音を立てて戻って来る。手にはお菓子の箱と鉛筆といろんな柄の便箋と三枚の白無地の封筒を持っていた。
「あのね。言えない時は手紙を書くといいよ。手紙なら声も震えないし自分の言いたいことをまとめられるしそのとき思ったことを残すことが出来るんだよ」
カオリは便箋と封筒と鉛筆を差し出した。そんなの、と思った。
「ママが出て行っちゃったんだ。ママは私のことどうでもよくなっちゃたんだと思った。でも忙しいから電話しても出てくれないけど、ママは手紙ならちゃんとお返事来るよ」
そう言ってカオリはお菓子の箱のフタを開く。そこには色とりどりの便箋が入っていて、必ず「香織へ ママより」という言葉が添えられていた。
「カオリのママもニコくんのママも今はいないけど、でもカオリ達がママのこと覚えている限りはきっと私たちのこと忘れないよ」
「……そう、か」
「だから、ニコくんもこれ書いてお母さんに手紙出しな」
そんなの気休めだ。そう思った。書いて手紙の返事が来なかったら。それこそ僕はお母さんに捨てられたという事実を証明してしまうことになる。けれど便箋を差し出す手を振り払うほど意思も強くなかった。僕は彼女の便箋と封筒を受け取った。
少しの沈黙のあと、コウタと僕の新しいあだ名を叫ぶように呼ぶ声がした。恐らくフサエだろう。きっと僕が家からいなくなって探しているに違いない。
「……ほら、吉村のおばあちゃん探してる。行かないと」
「うん」
僕は目をこすって涙を拳で拭う。マオはマイクを握り締めたままスヤスヤと眠っていた。
「またうちに来てよ。家近い友達いないからつまんないの」
「うん、わかった。それじゃあ」
僕はそれだけ言うとカオリの家に背を向けて入ってきた垣根と垣根の間を通っていく。
「…もし手紙の返事が来なくても」
カオリが口を開く。僕は振り向く。カオリのその顔は先ほどとは違って明るくはなかった。
「返事が来なくても、私にはマオとお父さんとおじいちゃんおばあちゃんがいる。ニコくんには吉村のおばあちゃんがいるよ。忘れないで」
「……」
うん、といえるほど僕には自信がなかった。けれど、カオリは追及してこなかった。しばらく見つめ合うとまたカオリが行きな、と声をかけてくれた。僕は頷くと踵を返して家に向かって走り出した。
「コウター! どこ行ったんだかさー!」
家の前で彼女は叫んでいた。僕は息を切らして彼女のもとに向かう。
「コウタ!」
僕の顔をみるなりフサエは顔をくしゃくしゃにしてから僕の頭を拳骨で殴った。ものすごくではないけれど痛い。
「勝手にどこかへ行ったらいけねぇださ! いくらばあちゃんやこの場所に不満があってもそれはいけねぇよ! 心配すんでんよ!」
この家に来て初めて怒られる。僕は黙ってその言葉を聞いていた。深く反省した。思い返せばフサエはいつだって僕のことを思ってくれている。
「……ごめんなさい」
僕はこの家に来て初めて素直に謝った。それにフサエは目を丸くする。そして拳骨で叩いた手で今度は僕の頭を撫でて
「ちゃんと外に行きたいときは声かけるかメモ残さないとだめだでんよ」
と言った。僕はうん、とその言葉に返答した。おばあさんは僕の腕を取って家に向かう。その手はやあり温かかった。
「このカンカン照りの中どこ行ってたんださ」
「カオリちゃん? てこの家」
「……おみゃあ、佐久間さんとこの女の子と仲良くなったんだい?」
「うん。便箋と封筒もらった」
「そうかい。そりゃあよかったなぁ」
「これで、お母さんに手紙、書きたい」
おばあさんが一瞬息を飲んだ気がした。けれどおばあさんはそうかいそうかいと言った。
「それじゃあ切手が必要でん。明日にでも郵便局に行くべよ」
「うん」
「早く手紙、送るべさ。子供からの手紙を喜ばないわけないでんよ」
僕の不安を見抜いていたわけじゃないと思う。けれどおばあさんは僕の不安を少しだけ和らげた。
お母さんになんて手紙を書こう。書きたいことはたくさんある。日本の夏が暑いこと。ロシアの夏が恋しいこと。ミーンミーンと変なものがいつも泣いていること。おばあさんのこと。近所に住むカオリと、その妹マオのこと。いつお母さんは迎えに来るのか。僕のこと忘れていないか。
僕は空を見る。太陽が頭の真上からギラギラと僕らを照りつける。日はまだ高い。僕の夏ははじまったばかりだ。
←
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -