煙
いつだったか忘れてしまったけれどあの日の肌寒さと日の暖かさを覚えているから多分2月か3月くらいのことだったと思う。
「まぁちゃんは芥川龍之介が好きなの?」
私はまぁちゃんにそう質問をした。まぁちゃんは本をよく読むけれど必ずと言っていいほど表紙には『芥川龍之介』という文字が並んでいた。まぁちゃんは本に向けていた視線を私に向けるとちょっと微笑んだ。その頃には私は彼女のわずかな表情と時折見せる微笑の意味をある程度は察することができるようになっていた。今の笑みはおそらくその問いに答えましょう、的な笑みだと思う。多分。
「好き、なのかな」
「違うの?」
「うーん……。好きといえば好きだしそうじゃないといえばそうじゃない」
まぁちゃんは私に意地悪でもしているのかと思うくらいよく言えば抽象的で、悪く言えばひどく曖昧な返答をする。一言の返答だけでは理解できないのだ。私が黙っているとまぁちゃんは床を、少し下を見て物思いにふける。この頃には私が苦々しい顔をして―――まぁちゃんが言うにはそういう顔をしているらしい―――黙ればまぁちゃんが察してもっと詳しく分かりやすく説明してくれる、という無言のルーティンが出来上がっていた。
「一般的に言うとそれが好きという言葉で表現できるのかもしれない。けど私は…先生の本を読むと心が浄化されていくような気分になるの」
どう少しの沈黙があってからまぁちゃんはそう口を開いた。
「というと?」
「私は自分の気持ちを表現することができないの。生きるためには人とコミュニケーションを取らないといけないけれど、そのとき私は無理やり言葉という形に自分の気持ちを押し込んだり、近い言葉を仕方なく選んでであなたに伝えてる。そうしないと他者と分かり合えないから。でも押し込めば押し込むほどどんどん歪になって言いたいことが多かれ少なかれ分からなってしまうの。私はそれが気持ち悪いの。多分、でも先生の本を読むと先生は私のことなんて知らないはずなのに先生の言葉は私の気持ちを気持ち悪いぐらい精密に表現してくれるの。だから先生の本を読んでいると、本を読んでいるはずなのに自分の気持ちが文字化されているような、そう誰かと話して思いが言葉になっているようなそんな気分になるの」
少し難しいことを言うのもまぁちゃんの性質だった。まぁちゃんは頭が良いから難しい語彙や表現を使ってくる。だから出会ったばかりの頃は私の知識不足でまぁちゃんの言いたいことができないときがあった。そう今までは。
「瑠璃。もっと苦い顔してる」
そう最近はまぁちゃんが私に合わせて話してくれるようになったからある程度は理解できるようになった。代わりに今度は納得し難い言葉に変わってしまったのだ。今の言葉だってまぁちゃんは言葉を表現することができない不自由な人生を今、この時間も過ごしていることになる。それってまるで誰もまぁちゃんのことを理解してあげられないということを遠まわしに告げていると私は解釈した。
「瑠璃が悩むことじゃないよ。私自身の問題だから」
まぁちゃんは私を見ながらぽつりとそう言った。けれどまぁちゃんは私ではなく、どこか遠い何かを見ているようだった。
「……ません。すみません」
少し自信なさ気な小さな声を耳にする。本を読んでいたのにいつの間にか眠ってしまっていたようだ。目を開けると図書館の司書のツバキさんがいた。受付に座っているところしか見たことがなかったがまさかこんな形で話すことになるとは。
「すみません。今日は土曜日なので午前で閉めるんで……」
眠気眼でツバキさんは申し訳なさそうにそう言った。私は喉が張り付いているのを感じながらすみません、と謝り本を片付けた。
「借りていきますか?」
本を借りても読まない。だから図書館に何時間も居座って読むのが一番良い。まぁちゃんはそう言っていたし私もそれには同じ意見だった。まぁちゃんは居座りすぎだったけど。
大丈夫です、と言いながら本を棚にしまうとツバキさんがあっ、と声を出す。
「そういえばいつも一緒にいる子の忘れ物を預かっているんですけど」
まぁちゃんの忘れ物。思いがけもしなかった言葉に驚いていると封の開いた箱と安物のライターを渡される。まぁちゃんが煙草を吸っていたことなんて知らなかった。これ、渡しておいてください。物静かな司書の言葉を何回も反復する。そう私は、私たちはお互いを知り合おうとしなかった。
まぁちゃんと迎える季節はたった一度だけだった。まぁちゃんは八月の終わりに誰にも何も告げずに死んでしまったのだ。幸いなことに私がそれを知ったのは九月の初めに私達の学部の学科長を勤める女性教授がわざわざ電話してくれた。まぁちゃんが自宅で自死していたこと、葬式は身内だけで済ませたことを教えてくれた。けれど対価と言わんばかりに彼女から何か話や悩みを聞いていないか、何か変わった様子はないか、という事情聴取にも似た質問をぶつけられた。けれど私は一切答えられなかった。私がまぁちゃんのことに関して知っていることと言えば芥川が好きな理由だとかこの大学に似つかわしくないくらい頭が良くて繊細だとかそんなことだけだ。それを今説明しても仕方ないし、唯一零した弱音もその言葉以上の意味は知らないし分からずじまいだった。結局、私は肝心なことは何も分からない役立たずだった。授業が始まって他の同級生も知るようになり、文学部二年の女子が自殺をしたという話は他学部他学年の人間にも知れ渡るようになる。だがそれも時間が経てばそんなことがなかったかのように変わらぬ日常が流れた。
私はまぁちゃんがいなくなった今もあの喧騒に包まれた日常に戻ることはなく、こうしてあの図書館に通っている。まぁちゃんがいつかふっと帰ってくるんじゃないか、なんてそんなセンチメンタルなことは思わない。まぁちゃんの死を半年が経った今でも彼女というものを知ろうとしていた。どうして死んでしまったのか、何に対して怯えていたのか、まぁちゃんにとって私は何だったのか、まぁちゃんは一体何者だったのか―――考えれば考えるほどまぁちゃんが分からなくなる。
ただ言えるのはどんなに近くにいても、同じ時を過ごしても私はまぁちゃんになり得ない。だから彼女の考えていたことも、私のことをどう思っていたのか、まぁちゃんの持つ不安は結局何だったのか。すべて分からない。聞きたいことはまぁちゃんという生と共に消えてしまった。生きていてもまぁちゃんを理解することはできなかったんじゃないか、と。
煙草を吸う。おいしくはない。むしろまずい。合理的な考えのまぁちゃんが百害あって一理もない嗜好品を吸っていたなんて知らなかった。なんで吸い始めたんだろう、何を考えながら吸っていたんだろう。もちろん考えても答えは出なかった。私は短くなっていく煙草と、その先端から燃える火と昇る煙をただただ見守っていた。本当に私は馬鹿で愚かだと思う。今も、まぁちゃんが生きていたときも。
私は吸殻を煙草の箱の中に入れる。学校の入り口付近に設置されたゴミ箱に全てを投げ入れた。
さよなら、まぁちゃん。もう二度と現れないで。
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