北の海に住む人魚
最近、お気に入りの入り江に変な小屋が建った。少し前から何人かの人間のオトコが出入りしていたけれど、小屋が完成するとまた見知らぬ男が一人暮らすようになった。私は人間をあまり見たことがないけれど特に大きくもなく、でも小さくもない、太ってもいないし痩せてもいない、濡れた土のような茶色の髪の普通の男だった。何をしに来たのだろうか。この男のせいで私はここでのびのびと過ごすことが出来ない。私の場所に後からやって来て好き勝手するなんて許せない。男を追い出すように仕向けてこの場所を取り返さなきゃ!
私は彼を退治するべく、男を観察した。けれど見るにつまらない男だった。
日が昇ると奴は起き、海岸の周りを歩く。そして白い太陽がオレンジになるまで時折、魚や貝を取って食べたり用を足す以外はずっと本を読む。とにかく色んな本を読む。そして日が暮れると蝋燭に火を灯して何かを延々と書き始める。月が夜を照らす日は外に椅子を出し、座って何かを考えている。そして夜の闇が濃くなると深いため息をついて、椅子を持って小屋の中に入り静かに眠る。そんな日々を過ごす―――過ごすというよりは繰り返す物静かな男だった。彼を観察している間、何度居眠りをしただろうか。見つからなかったことが幸いだ。けれど彼が今まで見たり聞いてきた人間とは少し違うということは分かりつつあった。
さて、この人間を追い払うにはどうしようか。
そんなことを考え始めた最初の日。男は小屋のベランダでいつものように本を読んでいた。今度は今まで見たこともない本を読んでいた。そんなに本を読むのは面白いのだろうか。時折、伸びをするけれどそれ以外はずっと脇目もふらずに読み続けている。あまりにもずっと読むから岩になってしまったんじゃないかと思ってしまうほどだった。
「コーディアンさーん」
聞き慣れない声に驚いて慌てて水の中に潜る。陰に隠れているからそんな心配はないけれど、男の仲間かもしれない。おそるおそる水面から顔を上げると男も驚いた表情をしていた。本を閉じてテーブルの上に置くと声のする方向へ―――家の出入り口へと向かう。
「トクシュユウビンタイインですー。お手紙があるので配達に参りましたー。いやー、またすごいところに住んでますね」
「はは、どうも。誰からだい?」
「えーっとですね、結構な量ありまして…」
よく分からない単語が聞こえる。なんだろう。けれど、会話からして仲間ではなさそうだ。訪れた人間の淡々とした声と男が本の紙をめくるときと似た音がする。紙、を渡しているのだろうか。
そこでハッと我に返る。これは絶好のチャンスだ。この人間の部屋を荒らせば男は謎の怪奇現象に気味悪がり入り江から去っていくかもしれない。それか人間が何を企んでここにやってきたのか分かるかもしれない。場合によっては他の人魚たちに相談して追い払う必要がある。なんとしてでも何かしらの行動をしなければ!
まずテーブルの上の本が目に入る。手始めにこの本を見よう。もしかしたら人魚の捕獲方法でも書いてあるかもしれない。水から這い上がり、テーブルの上の本に手を伸ばす。触る本の表紙は厚みがあって硬かった。中のページは私の知っている通り柔らかくてペラペラだ。けれど乾いている。手で触ると水を吸っていつものようになる。体の渇きを感じて慌てて水の中に入る。表紙をめくって中身を見る。開いて愕然とした。私の知っている文字が一つも並んでいないのだ。少しだけ似ている形はあるが全くもって意味の分からない羅列がずらりと並んでいた。なんだこれは。これでは全く分からない。次のページも、その次のページも、他のページも捲るが意味の分からない羅列が紙にひたすら描かれていた。けれどあるページを開いたとき、絵が目に写る。それは人魚が四角い容器に閉じ込められ、それを人間どもが見ている絵だった。容器の中の人魚は悲しそうな顔をしているし、人間どもは嫌らしい笑みを浮かべている。なんてひどい絵だ! この男の企てていることだろうか。だとしたらやはり男の目的は人魚の捕獲か!
さらにページをめくると肉を削がれた人魚と何かの肉を食べている人間どもの絵が見えた。おそらくこの二つを見るにこの絵の人間が食べているのは人魚の―――
「こら!」
そんな声がして肩と手首を掴まれる。驚きのあまり叫びが喉にからまって出ない。抵抗するが強い力は解けない。
「人の家に勝手に入り込んで! 本もこんなに濡れちゃったじゃないか!」
「ぎゃあああああ! 死ぬ! 死ぬぅ!」
「死ぬって大げさな。とにかく悪いことしたら謝りなさい。こら、暴れるんじゃない」
「いやっ! 嫌っ! いやぁーーーーー」
「嫌って君ね。…あー、とにかく水から上がるんだ」
「ぎゃーーーーー」
必死に抵抗するが引っ張られて水から引き上げられ、私はその姿を晒す。
私たち人魚族の特徴である体を覆う鱗と長く大きなヒレを。
「なっ」
私を人魚だと思っていなかった男はその姿を見て驚いた声を上げる。
死ぬ! 捕獲される! 食べられたくない!
「わあぁあぁぁぁぁぁ」
「ちょっ。落ち着いて! 悪かった! いてっ! ちょっと! 待って!」
最後の抵抗として尾ひれを上げて暴れる。男の体も一緒に揺れ始める。何かにぶつかって尾ひれを打ち付けた。痛い。けれど痛みなどここで死ぬよりマシだ。男が何かを言っているがそんなことはどうでもいい。必死に暴れる。尾ひれはテーブルを倒し、床を傷めた。男にも直撃する。
「何もしないから! ごめんって!」
張り上げた声が聞こえて男の言葉が理解できる。しかし、振り上げたヒレを止めることが出来なかった。ヒレは本棚を直撃した。直後に本棚に敷き詰められた本が降って来る。
「うわあぁっ!」
今度は男の悲鳴が上がる。落ちて来た本はすべて男を直撃した。ラッキーなことに私には一冊も当たらなかった。男の手が離れた。その隙に私は床を這って水へと向かう。
「ちょっとま……あぁ!」
本棚が揺れて私の方向へと倒れそうになっていた。きっとヒレを叩きつけたからだろう。逃げ切れない。目をつぶって受け身を取る。けれど、痛みも重みもいつまで経っても襲っては来なかった。
「…早く! ほら!」
目を開けると男が本棚を支えていた。かなり重いのか、手が揺れているのが見える。私は慌てて本棚と男の間を潜り抜けて水に向かって這い、そして水の中に飛び込んだ。その直後に大きな音がして小屋と水面が揺れる。再び水の上に目だけ出すと本棚と男が倒れていた。顔は陸の方を向いていて見えない。背中だけが見える。けれどピクリとも動かない。目だけ出したまま小屋に近づく。男はピクリとも動かない。顔を水から出す。
「……死んだ?」
「うん、死にそうだ…」
そんな弱弱しい声がして背中が動き出す。ぴっくりして慌てて後退る。男の顔が見える。顔には傷や青い痣ができていた。傷は赤い血が少しだけ滲んでいる。男がいつ動いても逃げられる用意をするが、男は一向に動く気配はなかった。
「怪我、ない?」
「……ヒレが痛い」
「えー…」
若干、男は不服そうな声を上げる。だが数秒の沈黙のあと、言葉を続ける。
「…ごめん、分からなかったんだ。君が人魚だったなんて。てっきりこんな僻地に住む僕をからかうために山の村の子がいたずらしに来たのかと思って……いてっ」
男は切れた口端に触れ、痛そうな表情を見せる。なんだか申し訳ない気持ちになる。けれど先ほどの本の絵を思い出して心を律せねばと言い聞かせる。
「何しに来たの」
「…え、ここに?」
「そう」
「うーん。僕も分からない」
的外れな答えに拍子抜ける。けれど本当のことを隠している為の言い逃れかもしれない。厳しく詰問する。
「誤魔化さないで! 人魚を捕まえるために来たんでしょ! 私たちの肉なんて食べてもおいしくないのに! さっきの本を見たわ! あんなひどいことばかり!」
「そんなわけないだろ。アレは僕ら人間が君たちにいてしまった悪い行いについて書かれた本だよ。それにもし本当に君らを捕まえる為なら僕はこの海にあらゆる罠を張りまくるしこんな場所に家建てるわけない。そもそも人魚なら南にたくさんいるしね。それでも怪しいと思うならどうぞこの家をすみずみまで探してくれればいいよ」
返す言葉が見つからなかった。男の言葉はその通りだった。昔と違ってこの場所に人魚など私以外は寄り付かないのだ。捕まえるならもっと人魚が住む場所、人魚の間でも有名な南の海にでも行くべきなのだ。
「でもこの海にも昔は人魚が現れたっていうのは聞いたことがあるからね。もし会えたらラッキーだと思ってたよ」
「っ! 本当はやっぱり…」
「教えてよ。君のこと。何を食べて過ごしていて、どんなものが嫌いなのか。仲間たちとどんな掟があって、それは人魚に共通するものなのか、君の仲間だけのものなのか。本を読んでいるだけじゃ詳しく書かれていなくて分からないんだ」
男は微笑んでそう言った。私の声を遮って言葉を発した男の瞳には一点の悪意もなかった。その瞳に再び言葉がつまる。
「……じゃあ、まずはじめに一つ教えてあげるわ。この海の人魚は人間に関わらないことが掟なの。それにあなたは私のお気に入りの場所になんの断りもなく小屋を建てて勝手に住み始める。……気にくわないのよっ! さっさと出て行って!」
「うわっ!」
嘘は言っていない。かつてはヒトがこの場所でムラを作り生活していた。けれど結局、どの人間たちもこの場所を捨てて去っていった。あるヒトの群れは私達を恐れ、拒絶し、傷つけた。またあるヒトの群れは魚を乱獲し売って金儲けをした後、より良い場所を求めて去って行った。ひどい群れは何人もの仲間を捕獲し連れ去って行ったこともある。そんな悪しかもたらすことのない人間を受け入れない―――それがこの海の掟だ。
ついでに個人的な恨みも言ったらだんだんイライラしてきたから男に盛大に水をかけて海の底に向かって潜った。
話すだけでイライラしてくるのだ。とりあえず言いたいことは言った。言っても動かないのであれば実力行使に出るしかない。
どんな手を使って男を追い出そうかしら!
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