僕にまた夢の続きを
私は孤独だった。母は私を産み落としたと同時に死んだ。父は酒と女に溺れ、私の頭をいつも酒瓶で頭を小突き、成長するに連れて瓶が粉々になるくらいの力でぶん殴ってきた。その後、父の再婚相手で継母となった女にも存在を無視され飯もろくにあたえられない日々が何日もあった。異母兄弟が生まれれば軽蔑され、半分でも血がつながっているのだろうかと疑わしいようなことばかりされた。周りは最初こそは助けてくれたが、庇った隣人の老人が私の代わりに酒瓶とその中身で酔っ払った父の拳を受けたのがもとで三日後に死んでからは町中の誰もが見知らぬふりをした。仕方がない。そう思った私は出来る限りのことは一人でやると心に決めて家を飛び出し生きてきた。新聞屋の売り子として働く中でトーマスとヘンリーという一生涯の友を得てからもそのスタンスは変えないでいた。三人が自立してからも何度も顔を合わせ、よくつるんでいた。トーマスは化学、ヘンリーは工学、私は医学への道に進んでからも私達はいろんな実験をした。特に生体実験は僕らを行っていた。命の不思議を追求すべく幾千のマウスの命を道具同然に扱った。マウスでは飽き足らず猫や犬、さらにはサルを捕まえて実験を行った。
「はじめまして、ビクターさん。アリシアと申します」
アリシアとの出会いはそんな非人道的な実験に三位一体となって精を出していた頃だった。思えば一目惚れだったと思う。彼女の姿に、仕草に、視線に、言葉に、口調に目が離せなかった。自分でもかなり驚いたしそんなはずはない、とアリシアに冷たく当たってみたこともある。けれどそれでも親切に接してくれるアリシアに惹かれないわけがなかったし、私の言葉に彼女が傷つき涙を流せばいてもいたってもいられなかった。紆余曲折を経て私はアリシアに想いを伝え、結婚した。それを契機に私達は実験をやめた。ちょうど3人ともそれぞれの会社や病院の軌道が上手く乗ろうとしていた、大切な時期だったのだ。おかげで私達はそれぞれの分野で誇り高い功績を残し、その名を轟かせた。同時にアリシアの妊娠が分かり、私は生まれて初めて日々がバラ色に変わった。
「今、お腹蹴ったわ」
彼女はそう言って自分の腹をさする。大きく緩やかな弧を描いたその皮膚や内臓の下にアリシアの体に寄生している胎児が少しずつ大きくなっている証だ。私には分からないが我が子をその身に宿した妻が様子を教えてくれる。ここ最近は割とその頻度も高かった。
「もうすぐ生まれるのね」
アリシアは腹を見つめ、さすりながらそう言った。アリシアもまた良いとは決して言い難い家庭に生まれた。父から性的暴行を受け、母には売春婦まがいのことを強制させられた。それでも彼女は幼い妹や弟のために自分を犠牲にして生きるための微々たる賃金を稼ぎ、また子供から老いぼれにも優しい健気な女性だった。
「ビクターも触って」
私は自分よりも細く綺麗な形の爪がついた手に手を取られ、その膨れ上がった腹にそっと触れる。手の甲には手のぬくもりが直接、手の腹には服越しのじんわりとした体温を感じた。温かい。生きている証か、とふと思う。
自分が妻を持つことも、ましてや子供を持とうとしていることなど想像もつかなかった。家族と言う名の絆などというものは幼い頃から十分な愛情を与えられず、命を弄ぶ生体実験しかしてこなかった自分には遠い存在だし必要ないとさえ思っていた。けれど、私の隣にはアリシアがいて、手の向こう側にはまだ見ぬ子どもがいる。それだけで心が満たされた。
「……やだ、ビクターったら。なんで泣いてるの」
困った声を出しながらアリシアが笑う。私は嗚咽を出して泣いた。子供みたいだしこんな年にもなって、と思う。けれど自分でも分からないほど涙も嗚咽も止まらなかった。手しか感じられなかったぬくもりが背中にまで広がる。温かくて優しい抱擁だった。僕はアリシアの華奢な背中に手を回し優しく抱きしめた。
「愛している」
その言葉に嘘偽りはなかった。アリシアの顔は見えない。けれど、少しの間があって再び私を抱きしめる腕に力がこもったのを感じた。
「私もよ」
そんな言葉と共に私は、私達は幸せに包まれていた。いつか、君と別れる日が来るかもしれない。どちらかが死ぬか、愛想を尽かすか。それとも全く考えにもおよばない何かが起きるかもしれない。けれど今日感じたこと、忘れてはいけない。そう胸に刻み込んだ。
けれど神様はいつだって残酷で。私は幸せなど噛みしめられるような人間ではないこと、そして私自身の心のうちに潜む残酷さと対峙させられた。
アリシアと私の子は生まれてこなかった。生まれられなかった、とでもいうのだろうか。彼女は強盗か何かに殺された。強盗なのか、強姦魔なのか、たまたま私の家だったのか、それともアリシアを狙ってなのか分からない。とにかく私のいない間に家に侵入した何者かに妻は刺され、子供を引きずり出された。アリシアは瀕死の重傷を負いつつも生きていた。辛うじて残っている意識の彼女は子供を求めた。自分のことなど一言も聞かず、子供の安否を聞き続けた。産声はおろか息すらしない息子を抱き、虫の息のアリシアは泣き崩れた。三日三晩泣き続けて、彼女もまた息子を一人にさせまいと言わんばかりに息を引き取った。
妻も息子も一気になくした私は息を吸うことしかできなかった。歩くことも話すことも寝ることもできずベッドに横になったまま時を過ごした。どのくらい経ってからか、やっと少しだけ考えることができるようになって、私もあとを追えばいいという簡単な結論を見出し実行した。アリシアに出会う前に使っていた劇薬のうちの一つを飲んだ。致死量だった。これを飲んで生きている方が難しいくらいような強い薬だった。けれど私は助かってしまったのだ。友人の手によって。
「ビクター。神が認めても、僕より先に死ぬなんて許さないよ」
私が意識を取り戻して一番初めに見たのはトーマスの顔だった。けれどトーマスがなぜここにいるのかということより自分が生きていることの方に私の意識は向いていた。そして次に異様なまでの身動ぎの出来なさに思わず顔を上げる。私は簡易ベッドの上に拘束具具で縛り付けられ両手首両足に手錠と枷がついている。ご丁寧に手錠と枷の
「だがまぁ、君が後追い自殺をするなんて思ってもみなかったなぁ。恋や愛というものは後を追うほどそんなに良いものだったのかい? なぁ、教えてくれよ。ビクター」
うるさい。そう言おうと思ってからトーマスの背後にあるものに目を奪われて思考が再び停止する。そこにあるのは愛するアリシアだった。私が最後に見たあの血まみれの姿とは打って変わって、一糸纏わぬ生まれたばかりの姿のままで眠っている。けれど気持ち悪いくらい透き通った真っ白な肌と、彼女の腹にある大きな傷を見て、彼女があの時のままの状態にあると理解する。
「な、ぜ」
その二文字を発するのがやっとだった。それでも私は裸の亡き妻を見続けた。トーマスが笑う。まるで何かを考え付いたような、無邪気な笑みだった。
「お前は頑固だからな。自分が死ぬまで何度も諦めずに死ぬだろう。だから僕は考えた。君が死なない方法を。そこで思いついたんだ。僕も君も幸せでいられる最良かつ最善を」
トーマスはアリシアに近づき、そっと頬に触れる。同時に嫌悪感を覚え、妻に近づくなと怒気を孕ませて言おうとした時だった。
「うん。これくらい美しければ生き返らせ甲斐があるってわけだ」
言葉を詰まらせた。私の言葉より先に紡がれたトーマスの言葉に混乱する。そんなこと、と僕は思った。トーマスの指先がアリシアの頬を上から下へ、そして下から上へとなぞっていく。
「さぁ、ビクター。一緒に彼女で死者を蘇らせようじゃないか」
トーマスはにっこり微笑んで僕にそう言った。
無理だ。そんなこと出来るわけがない。実験の計画を練るとトーマスとヘンリーは僕に対してそう言っていた。でもこの世に出来ないこと一つもない、とそんな二人を説き伏せた。今、私はきっと不可能だと唱えたあの時の彼らと同じ顔をきっとしているのだろう。
そしてトーマスの顔はあの時の私の―――否、私以上の自信を持って彼は言いきった。
「どうした。僕らが力を合わせれば出来ないことなど何一つないだろう?」
どう考えたって―――そう思いつつも私はトーマスと動かないアリシアを見つめる。無理だ。そんな言葉が喉元まで湧きあがる。けれど、私は一つの可能性を捨てきれずにいた。
「―――分かった。分かったから、枷を外してくれ。自殺ももうしない」
トーマスは一瞬、眉をひそめてから私を見つめる。そしてゆっくりと私に近づくと枷や拘束具を外していく。縛られていたせいか体の節々が痛かった。けれど今もこうして突きつけられている現実に比べたらその程度の痛みなどどうでもよかった。私はアリシアに近づく。
アリシアという女も、彼女と出会ったのも、結ばれたのも、家庭を持ちかけたことも私が勝手に抱いた夢だったのかもしれない。夢なら覚めてくれればそれでいい。柄にもない夢を見た、と笑い飛ばすだけだから。
アリシアのもとへ近づく。生気のない肌は触れると冷たかった。瞼も紫色の口も堅く閉ざされ開くことはない。そう、こんな夢など許さない。アリシアのいない夢など考えられない。考えたくもない。
「アリシア。僕は君を生き返らせる。そして、また、僕に」
夢の続きを見せてくれ。
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