終わりは見えていた

紅葉の美しい山道を歩む彼女の足取りは決して軽いものではないのだが、表情は明るい。矛盾を孕んでいるように思われるが、ある種、彼女の場合は間違いではない。

武田信玄の娘であるナマエはある日、出家を決意した。今は寺に向かう為にこの山道を進んでいるのだ。
以前のように贅沢が出来なくなることは承知だと言うけども慣れない生活に苦労するのではないかということで幼い頃からの側女は彼女の出家に付き合い、仏道に身を投じた。

それを純粋にナマエは喜ぶことが出来なかったが側女の心遣いを無下になど出来ない。屋敷でナマエは笑顔でそれを受け入れた。しかし本心としては最早、権力争いの絶えない俗世から隔絶するためには彼女の存在はありがた迷惑である。
このように付き尼になった者は、基本として家との繋がりを切らないことが多い。

それはすなわち、武田とナマエは未だに鎖に囚われたままになるということだ。

そのようなナマエの考えなど露ほども知らずに側女は彼女を心配するような言葉をかける。


「姫様、足は大丈夫ですか?」
「平気よ」


甲斐の虎、武田信玄のような苛烈さはないが温かな笑みを返すと、ナマエはふと侍女の足を見て歩みを急に止めた。侍女は不思議そうにナマエを見つめる。


「やはり休みましょう」
「しかし……」
「もう足が鉛のようなの。駄目かしら?」


足が鉛のようなのは側女の方であった。そのことをナマエに見抜かれたことを恥じるよりも先に、側女は彼女の心遣いを喜んだ。

柔らかに笑むと、ナマエは大きな木の根元に腰を下ろした。風の音に混じり鳥の鳴く声が鼓膜を揺らす。
ふと、顔を上げナマエは何もない枝に笑顔を向けた。側女はその行動を不思議に思いながらも体を休めることに専念した。


「いるんでしょう、佐助」


側女には聞こえないほどに小さな声で言った言葉は確かに目当ての者へと届いていた。
少し洗い風の音とともに木陰に現れたのは顔にペインティングをほどこした男。外見は麗しく、どこか冷たい印象を受ける。

ナマエはそんな男を見ると花がほころぶようにほほ笑んだ。


「やはりついてきていたのね。誰の命かしら?父上?幸村?まさか貴方の独断でもないでしょうに……」
「……姫さんさぁ、分かってんの?自分の置かれている今の状況」
「わかっている……つもりよ」


視線さえも合わさずに会話を交わすのは、側で体を休める側女に佐助の存在を悟らせない為だ。

佐助は彼女が自分を見ていないことを確認すると、表情を濁らせる。忍である彼が心の内を晒すわけにはいかないのだ。
声音こそ平気なふりをしているが、彼もこの出家を望まない一人なのだ。


「なぁ、姫さんはこれで自由になれるとでも思っているわけ?なれないから。姫さんはこれからも今までと同じ篭の中の鳥だよ」
「……」
「たとえ寺にいても武田を脅かそうとあんたを殺そうとする者が現れる。それから、力のないあんたがどうやって逃げるつもり?誰かにあんたを殺されるくらいなら……」


首筋に苦無をあてがわれてもナマエは慌てるそぶりも見せない。肝の座った彼女の姿に佐助は眉を潜める。
最早、忍としての仮面を被っている余裕などなくなっていた。


「あんたはいつだってそうだ!」


思わず声を荒げてしまい、側女が佐助に気がついた。ナマエを守らんと、小太刀を構え彼に襲いかかるように地面を蹴り上げる。

ナマエの悲鳴が山に響いた。



どろりと身体に纏わりつく鉄臭い、赤黒い液体に佐助はさして興味もなさそうに払う。着物に血は一滴だってはねておらず、臭いだけがナマエについてしまっている。
佐助はいつものような笑顔を浮かべていなかった。かわりに冷徹な忍が、そこにはいた。

そんな彼を見るのは、ナマエにとって初めてではなかった。今でははるか昔の、彼女がまだ幼かった頃に命を狙われたときに見せたものと同じだった。


「あの女が間者だってこと……気がついてたんだろ?」
「……さぁ」
「ナマエはいつもそうだよ。俺様があんたをどう想ってんのか知ってるくせに……」
「佐助、」


凛と、よく通る声――
いつだってこの声に呼ばれたかった。いつだって彼女の視界の中に入りたかった。

その願いが今、叶うなんて佐助は予期していなかった。

血に汚れたこの手じゃ、ナマエに触れることなど出来ない。


「気がついてたよ。ずっと、知っていた」
「……ナマエ、」
「だけど、貴方は私の想いを知らないでしょう」


血に濡れた頬を拭ってやれば佐助は眼を真ん丸くさせた。彼のそんな表情を見るのはナマエにとっても新鮮で、思わず口許が緩んだ。


「さぁ、私を殺してちょうだい」



終わりは見えていた
(さよなら、ナマエ。そしてよろしく。新しい君、)

(title byメルヘン)
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