夜更けのハネムーン



「標的は?」
「…前方、300メートル先です」
「それほんとに見えてんの?」
「……」
「黙んじゃねーよ」

人々が寝静まった真夜中。昼間は家族連れや小さい子供、カップルや友達同士で賑わうこの場所も、夜には別の顔を覗かせる。表通りではいやらしくネオンが街中を彩り、欲にまみれた人々を次々と誘い込んでいた。でもそれは表通りの夜の顔。

「ちょこまかと…めんどくせーの。もうここで良くね?」
「まだ人通りが多いので無理ですよ」
「ちぇー」

繁華街の路地裏。無機質なパイプやらが剥き出しになって表とは違う寂れた場所。こんなところにまで街のネオンが届くはずもなく、青白い月明かりだけがそこらへんに散乱する空き缶やゴミ袋を照らしている。雨が降ったあとなのか、ところどころには汚い水溜まりが自身の存在を主張するかのように空に輝く月を映し出しては醜く輝いていた。

スクアーロさんに呼ばれた私たちは談話室へと向かうと、この場所へ行けと指示が下され地図を渡された。「何これ、超楽勝じゃん」と余裕を表すベルさん。なるほど、任務を受けるときはこんなふうになるのかと理解したところで何故私がここに呼ばれたのかと問うと、どうやら私も一緒に行けとのこと。ベルさんも私もその指示に疑問をもってお互い顔を見合わせたが、作戦隊長の命令なら仕方ないとこの場所へ赴いたのである。

「私、こういうの初めてなのでベルさんにリードして頂きたいのですが」
「…言い方どーにかしろっつーの」
「は?」
「何でもねー。とりあえず挟み撃ちすっからお前そっちな」

水溜まりに脚を取られないように前へ前へと突き進む。目の前に薄汚れた建物が差し掛かったところで私は右へ、ベルさんは左へ。脚を止めることなく進んでいくと前方からこちらに向かって走ってくる今回のターゲットの男。私は脚を止めてその様子をじっくりと伺う。男は後ろばかり気にしているようでまだ私の存在には気付いていないみたいだ。

「こんばんは」

私たち以外誰も通らないこの路地裏に私の声だけが静かに響く。やっとこちらの存在に気付いた男はまるで化け物を見たかのように目を大きく丸くさせ見事に引きつっており、ここからでも歯をガチガチと鳴らす音が聞こえてくるほどだ。
男はその恐怖からじりじりと後ろへとさがる。でもある程度さがったところでその脚はピタリと止まった。

「おまえとの鬼ごっこ、もう飽きた」

月明かりに照らされてキラリと輝く銀の糸。無数に張り巡らされているその場所に一歩脚を踏み入れてしまったら最後、もう逃げ出すことはできない。招かれた客には最高のおもてなしを。

「たっ…たす、け…」

言葉にならない震えた声が耳に届いては消え、男が震え上がるたびに銀の糸はその身体に絡みつく。

「助けてやってもいーけどさ…それは、」

ブシュリ、と糸を伝って投げられたナイフによって肉が裂ける音とともに鮮血があたりに飛散する。見るも無残な光景を見届けるといやらしく唇の端を舌で舐めとる姿が目に入った。

「王子にとっては"楽にしてやる"って意味だぜ?」



この男はどうやらヴァリアーに潜入していたスパイだったそうだ。こんな逃げ腰の男にスパイなんて重要な任務を任せてそのファミリーとやらは大丈夫なのかと疑問を持ったが、ファミリーにもやり方は色々とあるようだ。この男の場合は要するにスパイという任務を与えられた"捨て駒"に過ぎなかったのだろう。

「あー、すっげー無駄に走った…」

汚れることも気にせず、ベルさんは後ろの建物の壁に背中を預けてズルズルとしゃがみこみ、膝の間に頭を入れて大きくため息をついた。

「いっとくけどなまえのせいだからな」

一気に声を低くしたベルさんに私はギクリとする。私はただの使用人なのだ。それなのにこうやって幹部であるベルさんと任務をこなしているとはどういうことだろうか。そんな中ベルさんは大きなため息と共に顔を下に向けたまま口を開く。

「フツーに考えて標的の居場所を把握してねーのは論外」
「……」
「背後をとられる数多すぎ」
「……」
「致命的なのが、お前脚遅い」

なかなか酷い言われようだ。全て正論なためにぐうの音も出ない。私はそもそも元は母親がアルテの研究員だったこと以外は普通の人間だ。実験体にされたことで人間離れした脚力は持ってしまったものの、それを活かす戦法なんて教わったことは無い。ただ必死に生きるために必要な知恵だけはつけた。それだけなのだ。
散々文句を言われたところで、ふとベルさんが顔を上げると私の脚をじっと見つめる。

「そういや、痣は消えても脚力はそのまんまなんだな」

そういえば、と私自身も気付く。あのチップによって純度を高められた晴の炎。活性という特徴は痣や傷など表面的なものは治してくれるが、病気や私のようにすでに"力"となってしまったものに対しては無意味のようだ。まあ、ヴァリアーで仕事をしている以上、ただの無力になるよりはマシであるが。

ふぅ、と小さく息を吐く。初めての任務、手応えはゼロであり出来栄えは酷いなんてものではない。脚力はあってもスピードが遅いため一度は追い詰めたものの逃げられてしまい、こんなところまで追いかけることになった。ベルさん単独であればこんな初歩的なミスはしないだろう。完全に足でまといとなってしまった。わかりきってはいたものの、スクアーロさんは何を思ってこんなことをさせたのだろうか。

「…このあとは?」
「あとはこの事を報告書に書いてスクアーロに出せば終わり」

ああ、いつもスクアーロさんを悩ませているやつかと納得する。ベルさんはこう言っているが、この人が真面目に報告書を書くわけがないのだ。そういう面倒なことは全て部下に任せて何とかかたちになった報告書をスクアーロさんが本部に送るために頭を悩ませて書き直してから提出しているということを、以前ルッスーリアさんから聞いたことがある。
デスクワークには全く向いていない。それでも幹部を任されるのはそれに見合った戦闘スキル。ド派手に動くタイプのスクアーロさんとは対照的にベルさんはその身体能力と戦闘スキルで繊細に且つ確実にこなしていくタイプ。
…何だろう、とても嫌な予感がする。

「こーんな楽な任務に数時間もかかったのはなまえのせいだってスクアーロにチクっていい?」
「…駄目と言ってもするんでしょう?」
「ししっ、まーね」

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