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バシャバシャと蛇口から流れる水の音が薄暗い通路に響いている。体育館の中からは明るい話し声がいくつも聞こえており、あんなに試合をしたのにどこにそんな体力があるのかと驚きを隠せない。

「みんな元気だね」
「そっちには体力オバケもいるみたいだしな」

一体誰のことだろうなあと考えなくてもなんとなくその人物が頭に浮かんだ。

「そういや前会ったとき探してたのってあのチビちゃんか」
「え、うん。覚えてるんだ」

ゆるく雑談をしながらも洗う手は止めない。鉄朗くんが水でボトルをすすいでくれているので私は終わったそれを洗剤で洗うという分担になった。

「俺らを見たときの紬の顔も覚えてる」

くつくつと喉を鳴らす鉄朗くんに私は口端をひきつらせた。だってあのときは、と数日前のことを思い返す。
日向くんを探しに一人でいたところを話しかけられたのだ。見たことのない赤いジャージに、自分より背の高い男の人ふたりに囲まれたら何事だとなるわけで。

「…ナンパかカツアゲかと思った」
「なんで」
「だってオネーサンなんて言うし…見た目も全然昔とは…、」

そこまで口にして、あらためて隣に並ぶ鉄朗くんを見上げた。いつのまにか私よりずっと背が高くなっている。ボトルを洗うために捲っている袖からのぞく腕にはしっかりと筋肉がついていて、体格も逞しくて、それに…声だって。

私の記憶の中にいる鉄朗くんとは全然違うなあと。

「なーに見てんの」

じぃっと見ていたのに気づいたらしい鉄朗くんは意地悪そうにニヤニヤする。

「うーーーん、成長したなあと」
「親戚か」

若干ジト目を向けられたけど、だって本当に違うんだもの。今まで文字での連絡だったりたまに電話はしていたから、ずっと会っていなかったことでの気まずさみたいなものはないけれど、目から入ってくる情報は数年ぶりなのだ。


手を泡だらけにしながらもボトルをひとつずつ丁寧に洗っていく。まだ洗い終わっていない残りのボトルの数を見ながら、もう少しかなと思っていると、「なあ、」という声が混じった。

「試合、どうだった?」

鉄朗くんのほうに振り向くけどその視線は私ではなく自身が洗っているボトルに注がれていたので、私も泡だらけになった自分の手元に視線を戻す。

すごかった。かっこよかった。
あまりにも幼稚な感想しか言えないのはバレーの知識が乏しいからだけど、いろんな言葉が頭に浮かんではもっとしっくりくるものは、とかきわけていく。たしかにそれもあるのだけど私の今の気持ちはそれでは到底足りなくて。試合を見たあと一番最後に思ったことは…。

「…あっという間だった」

ちょっとだけ、洗う手が止まった。


どこを見ていればいいのかわからない。そんな目まぐるしく動き回る人やボールに私の目は何度も置いてけぼりをくらった。
ボールを追いかけたり、そこに向かう人に目を向けたり、次はどこに行くのだろうと頑張ってじっと見ていたけれど、ずっと追い続けることはまだ私にはできなかった。

目の前がぐるぐるして、頭がいっぱいになって。見るところも考えることもバレー用語についても何もかもいっぺんに情報が舞い込んできて、たまに今何を見ているのかわからなくなることもあった。
そういうときは一旦冷静になろうと、何も考えないでボーッとコートの中を眺めるだけにしてみたり。

そんなときにいちばん多く目に入ってきたのは、たぶん日向くんだ。
あのはやい速攻のときもそうじゃない速攻のときも、中心になってコート内を駆け巡っていた姿は一際目を引いていた。

日向くんには得点のほかに"囮"の役目もあると聞いたけど、まさに私はその囮にまんまと引っかかっていたんだ。

「見るところがたくさんあって、ずっと目移りしてた」
「そっか。ならよかった」
「よかった、って…?」

再び洗う手を動かしながら耳を傾ける。なんとなくだけどその声はすこし優しげだ。

「紬がマネージャーになったって聞いたとき、そんなバレーに興味あったっけかって思って」
「……、」
「でもあっという間ってことは退屈しなかったんだろ?」

退屈なんて、してない。することなんかできない。あんなに必死になってボールを追いかけて、繋げても落としても全員で一喜一憂する。
私が今まで関わってこなかった知らない世界があの限られたコートの中で起こっていた。それをいちばん近くで見ていたのだから。

「前よりちょっと興味出た?」

その声にすこし目を見開いた私は思わず鉄朗くんに振り返ると、ふ、と目を細めて同じく私を見つめていた。

そう、なのかな。興味出てきたのかな。ゆっくりと視線を手元に戻してわしゃわしゃとボトルを洗っていく。
まだ試合が終わったばかりでふわふわした気持ちが続いているからまともに応えられないのだけど、そうだといいなあと自分の頬もゆるんでいた。



「…んで、」

話がひと段落ついたところで、鉄朗くんはすこし声を強調する。

「試合、どうだった?」
「…え?」
「音駒のほうな。電話でも言ったろ、カッコよくなりましたーって」

私はきょとりと目をまるくする。さっきと全く同じ質問ではないかと頭をぐるぐるしてしまったけどそういえばそんなことを言っていた。
私は烏野のマネージャーだから基本的には烏野を見ていたし応援もしていたけど、音駒のことも見ていたくて応援もしたくて。
やっていることは同じバレーボールだけど烏野とはこんなにも違うんだなと感じていた。

「音駒はね、なんというかこう…安心する」
「安心?」

私はあのとき烏養さんが言っていた言葉を思い出す。音駒には必ずセッターの頭上に返ってくる安定したレシーブ力があるらしい。だからいろんな攻撃を仕掛けられるのだと。そう伝えると「へぇ、嬉しいね」と返ってくる。

「鉄朗くんと研磨くんの連係もすごかった。うーーん…スムーズ?リズミカル?みたいな」

言葉の知識が足りなくて似たような単語を探せているのか怪しいのだけどどうやらニュアンスは伝わってくれたらしい。「ほぉー?」と含みのある声が返ってきたので鉄朗くんのほうを見ると、また意地悪げな笑みを浮かべながらゆっくりと私の顔を覗き込んでくる。

「それは"カッコよかった"と受け取っても?」

ぱち、とひとつまばたきをする。一瞬思考が止まり、今言われたことを噛みしめながらぱちり、ぱちりとくりかえした。
ふわっと頭に浮かんださっきの練習試合。たしかAクイックとか一人時間差と呼ばれていたと思う。ほかにもいろいろあったと思うけど、そのどれもが軽やかに見えたのは間違いない。

今まで一度だってみたことがなかった幼馴染のバレー姿。小学生のときにみていたそれよりもずっと成長していて必死に頑張っている姿は、

「うん。かっこよかった」

自信を持ってそう言えると、顔を覗き込む鉄朗くんに対して私は自然と口元をゆるめた。

そんな私とは裏腹に、ピシ、という音が聞こえたかのように鉄朗くんの笑みが固まった。次第にその頬や耳がじわじわと赤く色付いていき、なにかに耐えるかのようにその表情にはさっきまでの余裕がなくなっていく。

「…ッ素直かよ!」

そしてたった今鉄朗くんが水洗いしていたボトルを強制的に押し付けられた。



「…サボりのクロ」

ぱちくりとしながらもわたされたボトルを受け取り、これで水洗いは全部済んだのかなと思っていると突然後ろから声がした。驚いて振り向くと、じっとこちらを見ている研磨くんが立っている。

「サボってねーよ、ちゃんと手伝ってますぅー」

ほら、といいながら水洗いし終わったボトルをみせる鉄朗くんに研磨くんは「そ」と一言だけ返した。

「今ちょうど試合についてはなしてたとこ。な?」
「うん。すごかったよって」
「へぇ」

最後のボトルを洗いながら研磨くんにも同じ話をする。ふたりの連係攻撃は本当に息が合っているように見えたし、そのためにたくさん練習したんだろうなと思う。

「研磨くんのあれ、…あの、ネットの近くからちょんってするやつ…、」
「ちょん………、ツーアタックのこと?」
「つー…?うん。たぶんそれ、かな」

技名がわからなくて曖昧な説明になってしまったけどなんとか伝わってくれたみたいで、そのつーあたっく…というものも意表をつかれてびっくりしたと伝えると、ちいさな声で「…そう」と返ってきた。

ちょうどそこでボトルを全て綺麗に洗い終わった。ここに干しておくわけではないのでしっかりと水を切ってから軽く拭いて、あとで干さなくては。

「片付け終わった人から帰る準備するって」

全部終わったタイミングで研磨くんがそう告げる。もしかしてそれを言うためにここに来てくれたのかなと納得した。

…そっか。もう帰る時間なんだ。

「じゃあ私は戻るね。鉄朗くん、手伝ってくれてありがとう」
「え、あ、おう」

久しぶりに会えたからちょっぴり寂しいけどわがままを言うわけにはいかない。洗い終わって拭いたボトルをまたケースにいれて抱えた私はふたりに軽く手を振るとそのまま烏野のみんながいるところへ小走りで向かった。





「クロ顔真っ赤」
「………知ってる」
「でもあの流れだと、おれも"カッコよかった"の中に入ってるよね」
「いやいつから聞いてたんだよ!」

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