09
体育館に入るとさっきまでは聞こえなかった女の子たちによる黄色い声援で盛り上がっており、及川さんはネット越しに影山くんに手を振っているところだった。
みんなの視線がそちらにいっている間にと私はこそこそと背を低くしながら元のベンチへと戻る。
「あ、おかえり紬ちゃん。スマホあった?」
「はい、ありました。すみません、お騒がせしました…」
「見つかったならよかった」
おそるおそるベンチに腰をかけると清水先輩はホッとしたように目を細める。
スマホ以外で悩めることがまだあるのだけど今は試合に集中しなければとおしゃべりはここまでにして私たちはコート内へと視線を戻した。
練習試合の結果は烏野の勝利だった。
でも当然簡単に勝てるはずもなく、及川さんが入ったあとはサーブで攻められレシーブが苦手な一年生たちはなかなかに苦戦していた。それでもなんとか一本返して最後は日向くんと影山くんによるコンビネーションでなんとか勝つことができたのだ。
試合が終わったあとも私の頭の中はずっとぼけっとしていた。それはこの前の三対三を見たときの感覚とすこし似ている。
シンプルに、すごいな…という気持ち。
危ない場面でもなんとかボールに食らいついて必死に追いかけて。そのときは苦しそうな表情なのに相手コートにボールが落ちたときはみんなで破顔する。それは中学のときにも何度か見た光景だ。
私のこのすごいなという気持ちはいったい何に向けての言葉なのだろうか。
まだ練習試合しか見たことはないけれど、それでもこの言葉はいつも不思議と浮かんでくる。
まるで眩しいものをみているかのような。そんな気持ちになるのだ。
−−−
「そういえば白咲、スマホは見つかった?」
練習試合も無事に終了し、互いに挨拶も済ませたあと私たちはバスに戻ろうに校門へと向かっていた。
それぞれで試合の感想やこれからのことを語り合いながら歩いていたとき、一番後ろにいた私に歩調を合わせた菅原さんがたずねてきた。
「あ、はい。見つかりました。すみません、お騒がせして…」
「全然。気にしてないし。どこにあったの?」
「あー…えと、及川さんが拾ってくれまして」
えっ?と菅原さんは目をまるくする。でもすぐに「あぁそっか、中学同じなんだっけ」と納得したので、どういう繋がりだと疑問に思ったのかもしれない。
そんな会話をしながら歩き続けていると、ふいに前にいたみんなが足を止めた。どうしたのだろうとその隙間から顔をのぞかせると、今まさに話題にしていた及川さんが校門のところからこちらの様子を伺っていた。
もしかして待ち伏せ…?とみんなの空気が一瞬でピリついたような気がする。
意地悪そうな顔をしてこちらに微笑みかけるその姿に隣にいた菅原さんはちいさく「うわ、出た」とこぼす。まるで人をお化けみたいにとちょっぴりおかしく思いながら私はみんなと及川さんが何やら挑戦的な言葉を交わすのを聞いていた。
影山くんを名指しして見事に宣戦布告をしたあと満足そうな笑みを浮かべる。
そして──…、
「紬ちゃんもね」
突然及川さんが私の名前を呼ぶものだから反射的に肩がビクついた。当然ここにいるみんなからの視線を集めてしまい、いたたまれない気持ちが膨れ上がる。
「さっきの話。イイ返事待ってるっていったでしょ?」
ああ、そのことか…と視線が泳ぐ。マネージャーになるかどうかをこんなにもずっと悩み続けているために、この短期間では答えが出せていなくてなんとも言うことができない。
でもそのことについて考えていたとき、まだ及川さんに言っていないことを思い出した。
「それ、何の話ですか」
ふと、横からそんな声が上がった。思わずそちらに目を向けると影山くんが眉間に皺を寄せながら及川さんを見ていた。でもそんな表情に対し及川さんはふふんと得意げに笑っている。
「トビオちゃんには関係ないよ。俺たち二人だけの話だから」
「……っ」
わずかに唇を噛みしめ、ぐ、と堪えるような顔をした影山くんをみて、……ん?と私はゆっくり首をかたむけた。
関係無くはないよね?むしろ大ありなんじゃ、とそろりと及川さんに視線をうつすとなぜか楽しそうに口元を緩めている。
「も、もしかして引き抜き、ですか!?」
なんだかよくわからないことになっているようなと思っていたところで田中くんの後ろに隠れていた日向くんが声を上げた。
「……え?」
「だ、ダメですよ!白咲先輩は烏野のマネージャーになるんですからッ、絶対にダメです!」
ぽかんという音が似合いそうな空気が流れる。及川さんはもちろん、影山くんもおおきく目を見開いてまばたきをくりかえしていた。
日向くんはいい終わったあと即座に田中くんの背中に隠れてしまったけど、私はその言葉を少しずつ噛み締める。
なる、と確定しているわけではないけどその言葉はまっすぐに届いて、不思議とあたたかい気持ちになった。
「あの、及川さん。ちょっといいですか…?」
話がどんどん違う方へいっているので止めるためにもおそるおそるちいさく手を挙げて私はあらためて声をかける。及川さんは日向くんに驚いている様子だったけど、すぐにいいよと頷いて一旦みんなからすこし離れることにした。
その際に日向くんからは「行っちゃうんですか!?」とものすごいショックを受けた顔をされ、影山くんからは何か言いたげな視線を思いっきりもらってしまったけど、違うからねと否定しておいたのでたぶん大丈夫だと思いたい。
「あのチビちゃんにはほんとに驚かされるね」
みんなから離れて校舎のほうにきたあと、ちいさなため息をつきながら「もうちょっとで面白くなりそうだったのに」と及川さんは口をへの字に曲げた。
でもバレー関連でイイ返事ときたら引き抜きと連想してもおかしくはないと思う。ただ選手ならまだしもマネージャーを引き抜きということがあるのかはわからないけど。
「まあトビオの面白い顔がみれたからいいけどさ」
「…眉間にシワがよった顔、ですか?」
「うん、そうだよ」
そのときの表情を思い出しながらこたえてみるものの、それっていつもじゃ…?と疑問をぶつける。でも、くすりと楽しそうに笑みをこぼすだけで何もこたえてはくれなかった。
「それで?なんで俺を呼んだの?」
「あ。えっと、スマホありがとうございました。ちゃんとお礼言えてなかったので…」
本題を忘れるところだったとぺこりと頭を下げると及川さんはきょとんとした顔をする。まるでそれのために呼んだのかと言いたげだ。
「いーよ。俺もたまたま拾っただけだから」
そういったあと、一泊置いてから「そーれーよーりっ」と間延びした声が響く。
「イイ返事、聞かせてくれるの?」
こてん、と首をかたむける及川さんに私の表情はぎくりと固まる。マネージャーになるか否か。選択肢はふたつしかないのに未だに私はどちらにすることも出来ていないからだ。
「それは、まだ…」
「あははっ、だと思ったー」
楽しそうに笑う及川さんはやっぱり意地悪だと思った。私はこんなにも悩んで迷ってどうしたらいいのかわからなくなっているというのに。
どちらかといえば今の気持ちはとても苦しい。私はいったい何がしたいのか。なんでここにいるのか。何を選べばいいのか。
選ぶ道が用意されているなんてとてもありがたいことのはずなのに、複数の道があるからこそその場で立ち往生してしまう。
いっそ、道の先が崖だったらこの場に留まっていても何も言われないのに。
ずっと俯いて黙ったままの中、それに見かねたようにため息が聞こえてきた。もしかして呆れられてしまったのだろうかと思いおそるおそる顔を上げると、その整えられた眉が申し訳なさそうに八の字に下がっているのが見えた。
「ちょっと急かしすぎちゃった?」
どうこたえればいいだろうかと言い淀む。仮入部期間という時間制限がある以上、どちらにしても最後は選ばなきゃいけないことではあるけれど、それを早く決めなきゃいけないと圧がかけられた気がするのは…全く無かったといえば嘘になるかもしれない。
でも裏を返せばあらためて自分の考えを見つめなおすきっかけになったと思う。急かす、というと言葉は良くないけどある意味でちゃんと考えなければいけないと背中を押してくれたことにもなった。
「…いいえ。そんなことは、ないです」
「じゃあヒントを教えてあげよう!」
「えっ」
そんな簡単に教えちゃっていいんですか、と自分のことなのにすこし戸惑ってしまった。でもこのままひとりで悩み続けていても決まらなかったのだからなにかあるのならと期待を込めて顔を上げた。
「…特別、ね?」
唇に人差し指を当てながら内緒話をするような仕草をする及川さんにちょっぴり心臓が跳ねる。中学のころからわかっていたことではあるけど、やっぱりかっこいい人だなあ。
ただ特別なんて言いながらも申し訳なさそうにしているのは変わらなくて、急かすという言葉を使ったということはそれのお詫びだったりするのかなあと思いながら私はゆっくりと頷いて耳を傾けた。
「…あれ、」
だいぶ日は傾いて橙色の空がとても鮮やかに輝いていた。地面に落ちた自分の影をなんとなく見つめながらとぼとぼと歩いていく。バス…どこだっけとキョロキョロしていると少し先に見慣れた姿が目に入った。
「月島くん?」
きょとんとしながら声をかけるとじとりとした視線が私を見つけた。
「待っててくれたの?」
「…本当は王様たちが残る予定だったんですけど、」
はあ、と面倒くさそうに月島くんはため息をついた。
私たちが校舎へいったあとみんなはひとまずバスに向かうことになったようで、誰かひとり私を待つ人を決めることになった。
そこでこちらの様子が気になっていたらしい影山くんと日向くんが挙手をしたけど、ふたりとも一旦落ち着いたほうがいいということで月島くんが選ばれたそうだ。
「なんで僕が…」
「あ、はは…ごめんね」
「別にいいですよ。迷子になって探すよりは」
ぐ、と痛いところをつかれた。まさに今バスの場所がわからなくなっていたところだ。本当にこれではどっちが先輩なんだか。
月島くんは今日ずっと試合に出ていて疲れているはずなのに私のことで余計な疲労まで与えてしまった。もう一度「…ごめんね」と小さくこぼせば、「何度も謝らないでくださいよ」と呆れたような声がかえってきた。
なんか、ダメだ。今日は。
初めての他校で失敗しないようにと意気込んでいたはずなのにむしろ失敗しかしていない。せっかく及川さんに教えてもらったこともまだ完全に受け止めきれていない。
自然と零れ落ちるため息。それと一緒に悩み事が全部出ていってくれたらいいのに。
そんな願いを込めて再び息を吸い込む。そろそろ本当にバスに戻らなくてはみんなを待たせてしまう。重たい頭をゆっくりと上げて私よりずっと背の高い月島くんを見上げる。
絵の具で塗りつぶしたような橙色の空を背にした月島くんの影は私をすっぽりと覆い隠していた。
「待っててくれてありがとう」
「…いえ」
「バス、戻ろっか」
「………」
ジャリ、と地面の砂粒を踏みしめて一歩足を踏み出せばそれに続くように月島くんもゆっくりと着いてきた。
地面に落ちるふたりぶんの影は歩くたびにゆらゆらと揺れている。当たり前だけど月島くんの影のほうが長い。…足も長いや。羨ましい。
「月島くんて身長いくつ?」
「188です」
「うわあ、おおきいね。牛乳たくさん飲んだ?」
「飲んでません」
あんまり話したことはなかった月島くん。他の一年生、とくに影山くんに対してはなかなか言葉がキツめのときもあったり人を煽ったりとある意味いい性格なのは伺えたけど、先輩相手だと敬語になるぶんそこまでのキツさは抑えられている印象があった。
だからこれは先輩特権みたいなものだということでバスまでの帰り道、どうでもいい話をダラダラと振った。
沈黙が気まずいとかそういうのもたぶんあったと思う。でも今日の私はとことんダメダメのようであんまり気の利いたことはできない。
だから、特権。少なくとも無視はしないだろうという私のずる賢い考えだ。
「普通の牛乳も好きだけどコーヒー牛乳も好き」
「そうですか」
「学校の自販機にあるからよく飲んでるんだ」
「へー」
ほんとうに、本当にくだらない話。月島くんが無視できないのをいいことに私はどうでもいい話を続ける。もちろんそんな話を聞かされる月島くんは全く興味がなさそうで返事も雑だ。
それでも返事をしないということはしなかった。特別嫌そうな顔もしてないけど、その表情からは何を考えているのかはわからない。
地面に落ちる長さの違う影は相変わらず歩くたびにゆらゆらと揺れている。それは近づくことも遠ざかることもなく、ずっと隣に並んでくれていた。