スポーツの疎い私に、運動部という選択肢は存在しなかった。持久走でも50メートル走でもいつもビリ。球技なんてもってのほかで、まず私にボールがまわってくることなんてなく、チーム戦のときはボールに触る機会すら与えてもらえずにいつの間にか負けていた。


放課後、日直だった私は日誌を職員室に届けるついでに外へゴミ出しをしていた。外に出ればぽかぽかとした春らしい風がするりと頬を撫でる。
校庭ではサッカー部や陸上部、少し離れたところからはテニス部の掛け声がここまで聞こえてきていた。
スポーツができる人は羨ましい。点を決めたときの感動も負けた時の悔しさも、応援している側ではわからないものがきっとあって、それを一番に感じられるから。
しばらく校庭に向けていた視線を校舎へと戻す。そういう私は入学式が終わって少しした今でも何部に入ろうか決めかねていた。
中学の時は帰宅部だった。あちこちから聞こえる真剣な、そしてどこか楽しそうな声を背に一人で校門へ向かっていた。
高校に入ったらどこかの部活に入ってみようかなという気持ちはあったものの、今まで上下関係とは無縁だった私がどうやって入部届けを出せばいいのか、そもそも一人でその場所へ向かえるのか。そう思ってしまってからは一歩前に進み出せないでいた。

──スパンッ!

あたたかい風に撫でられながら歩いていた私の耳にすんなりと入ってきたのはボールが床に叩きつけられる音。あ、ここ体育館だ。都合よく扉が少し開いていたのでそこから覗き込むと床一面にボールが転がっていて、コートの端に立っている男子生徒が一人。
あれ、影山くんだ。同じクラスで席が隣ということでたまに話したりする。授業中ちんぷんかんぷんな顔をしている彼にこっそり教えたりとか。顔は怖いし近づき難いオーラを常に醸し出してるけど、会話をしてみれば「あざッス」と返ってくるので、最初は拍子抜けしたのを覚えている。
まだ他の部員は来ていないようで彼の影だけが長く床に伸びていた。

「…みょうじ?」

じーっと見ていたのがいけなかった。おそらくサーブを打とうとボールを構えた瞬間ちらりと視線が合った。うわっ、やっばい気付かれた!いや、別に隠れて見てたわけじゃないけども!

「ご、ごめん…!邪魔しちゃった、かも」
「何がだ?」
「え、だって練習してたときに止めちゃったから」
「?別に邪魔じゃねぇよ」

本当にそう思っているようにきょとんとする影山くんに私はホッとした。よかった、怒ってないみたい。
そこで会話がとまり微妙な空気になる。ど、どうしよう…帰った方がいいはずなのにそのタイミングを見失ってしまった!相変わらず影山くんはこちらを見て何か用かと言わんばかりの表情を向けてくる。

「えっと、ここで見ててもいい…?」

何を話せばいいのか全くわからない。帰るつもりだった。でも、さっきのボールの音がやけに鮮明に耳に残っていて、あの綺麗な音を目の前のこの人が出したもので。気がつけばそう口に出していた。
またしても首を傾げた影山くんだったけど、とくに問題はないようで「おう」と一言だけ返すとまたボールを構え直し、その視線はネットの向こう側を捕らえる。

──一瞬だった。
ボールを上げて助走してジャンプして、打つ。たったそれだけのシンプルなことなのに、ボールが叩きつけられた音を聞いた時、何か熱いものがぶわりとこみ上げて弾けるようなゾクゾク感が身体を貫いた。
教室で喋っているだけでは絶対に知りえなかった、バレーに食らいついている怖いくらいに真剣な表情。ただの丸いボールが手に当たった瞬間、そして板張りの床に叩きつけられた瞬間にまるで生き物のようにぐにゃりと形を変える。
すごく怖くてゾクゾクして、ワクワクして、ドキドキして、そんなオノマトペで埋まってしまうくらいたくさんの感情が一気に私の中に押し寄せてくる。たったサーブ一本、これがバレーボール。

「もしかしてマネージャー希望!?」
「うわああああ!?」
「おわああああ!?」

突然後ろから大きな声をかけられ反射的に叫んでしまった私と、そんな私に驚いて叫ぶ男子生徒。あ、この人はよく影山くんと一緒にいる…、

「え、あ、えっと…」
「あ、おれ日向翔陽!もしかしてマネージャー希望の人ですか!?」

ま、マネージャー?なんの事だろうか。自己紹介をしたと思ったらぐいぐいとくる日向くんにたじたじになってしまう。影山くんと同じ黒いジャージを着ているし、背中に"烏野高校排球部"と書いてあるからこの人もバレー部なんだろう。

「お前、マネージャー希望だったのか」

いつの間にかこちらに来ていた影山くんにさも当然のように言われてしまい、私は目をぱちくりさせる。影山くんと日向くん、四つの目に串刺しにされそうな勢いで見られている私は一体どうすればいいの。

「日向、影山!相変わらず来るのが早ぇーな!」

あわあわしているとまたしても体育館に知らない人が入ってきた。坊主の人とか優しそうな顔をした人とか、ああああめちゃくちゃおっかない顔した人もいるけどあの人もバレー部…!?

「田中さん、新しいマネージャー希望の人が来ましたよ!」
「何!?ま、マネージャーだと!?」

ぐりんと勢いよくこちらを向く坊主の人。そして私とあんまり身長の変わらない人の二人でおっかない顔の人の後ろから食い入るように見られている。え…何これ、私マネージャーになるなんて一言もいってない…。

「えっと、名前なんだっけ?」
「え、あ…みょうじなまえです」
「みょうじさんか!これからよろしくね!」

太陽みたいな笑顔で私の両手を握りながらブンブンと上下に振ってくる日向くんにつられて私は思わず頷いてしまった。あ、しまった!え、嘘!?
いや待て待て、まだ部長さんらしき人には伝わっていないから大丈夫かなと思ったところでタイミング良く部長さんらしき人が現れ、私がマネージャー希望だという嘘が伝わってしまい、「おお、そうなのか!」と嬉しそうな笑みを頂いてしまった。

「君、ルールわかるの?」
「え、いや全く…」

すごく背の高いメガネの人に話しかけられ私はビクつきながら首を横に振る。うわうわなんか見下されてるように感じるけどこの人は先輩なのかな…?
でもそんな私の返答に対してメガネの人の隣にいた黒髪の人に「大丈夫だよきっと!」とフォローされ少しだけホッとする。…いや違うよ、ホッとしてる場合じゃないよ!…でも。

こんな所を通らなければよかったという後悔と、もう一度あのサーブ、そしてプレーを見てみたいという好奇心、その二つの気持ちが混ざりあって複雑な気持ちになる。
そうだ、これは勘違いなんだ。ちゃんと話せばわかってくれるはず。板張りの床を一歩踏みだすと、キュッといい音が響く。その音を噛みしめている私の口元は弧を描いていた。
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