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▽ 甘い香りに寄せて


 玄関の扉を開けた瞬間漂ってきた、甘い匂いに目を丸くしてしまう。

 誰かがお菓子でも作っているんだろうか、バターの良い匂い。勝手にお邪魔して良かった。

 ここは私の家じゃない。
 お隣の幼馴染の家だ。いつも勝手に出入してしまっているおかげで、もう第二の私の家状態だけれど。

 さて、それはそうとして、台所の方に行ってみよう。もしかするとおこぼれを頂戴できるかもしれない。そんな期待をしながら歩きなれた廊下を歩く。どんどん強くなる香りに思わず頬がゆるんだ。
 台所の扉の向こうには、きっと彼がいる筈だ。

 扉を開けた向こうには、想像通り康太君がいた。
 キッチンのテーブルに腰掛けて、雑誌を開いている。シンプルなエプロンをつけているし、お菓子を作っていたのはやっぱり康太君だろう。不思議そうにこちらを見ている康太君にかるく手を上げて挨拶。

「や」
「…………おはよう」
「もうお昼過ぎだけどね」

 寝起きなのかもしれない。

「何作ってるの?」
「…………クッキー」

 なるほど。バターのおいしい匂いの正体はクッキーか。

 何のためにクッキーを作っていたのだろうか。まさか誰かにあげるため、とかじゃないよね。それじゃ私の分はないかもしれない。それは、やだなあ……
 ……いや味見の名目で一枚くらいはもらえるか。

 康太君の座っているテーブルの向かいの椅子を引いて座る。どうやら康太君はお菓子の雑誌を見ていたようだ。美味しそうなクッキーが紅茶の横に並んだ写真が映っている。横にはクッキーのレシピも付いているみたいだし、きっとその雑誌に載ってるクッキーを作っていたんだろう。

「それ作ってたの?」

 康太君が頷く。

「私の分は?」

 きょとんと私を見ている康太君。何をおかしなことを、とでも言い出しそうだ。あれ、もしかして図々しい? でも康太君はいつだって私にお菓子をくれるじゃないか。……あれ、もしかして、逆の意味か。

「…………食べないのか?」
「あ、元々私の分?」

 もう一度康太君が頷いた。どうやら何の心配もいらなかったらしい、そうだよね康太君にわざわざクッキーをあげる相手なんていないよね。

「…………何か、失礼なことを考えてないか?」
「ん? 康太君にクッキー上げる相手なんている訳ないとか考えてる」
「…………失礼」

 とはいえ、康太君は男だらけのFクラスだし。Fクラスの女子は島田さんと姫路さんだし(木下君って女子扱いするべきなのかな)わざわざクッキーを作ってあげるとは思えない。あの二人が吉井君を好きだってことは、Fクラスじゃない私にもよくわかっていることだ。

「…………俺にだってそれくらいいる」
「私でしょ」
「…………」

 むっと顔をしかめる康太君。
 どうやら図星らしい。私は大歓迎だしとても嬉しいんだけど、私に先に言われてしまったことが不満なんだろうか。
 高校生になっても康太君の挙動は相変わらずかわいらしい。

「…………凛子」
「なに?」
「…………お茶の用意」
「ああ、うん」

 康太君の可愛さに笑ってしまったのが一層不満だったのか、期限を損ねたらしい康太君がそう要求してくる。しかしクッキーを私にくれるというなら、言われなくてもお茶の用意はするつもりだった。

 いつも使わせてもらうおかげで、康太君の家のティーポットや茶葉がどこにあるかは把握している。椅子から立ち上がって勝手にお湯を沸かした。ポットに茶葉を入れて……あれキッチンタイマーはどこにいったんだろう。

「康太君、キッチンタイマーは?」
「…………これ」
「ありがとう」

 受け取ったキッチンタイマーをセットして、放置。同時にオーブンの方から焼き上がりったらしく音が聞こえてくる。どうやらちょうどいい時間のようだ。
 クッキーを取り出しに行った康太君。ミトンを手につけてオーブンからクッキーを取り出している。遠目に見ても、綺麗な焼き色をしていた。

 康太君がクッキーを用意してくれている間に、私はお茶をカップに注ぐ。

「…………用意できた」
「うん。私も大丈夫ー。はい、康太君の分」

 お皿に乗った美味しそうなクッキー。康太君がさっきと同じ場所に座って、その前に私もお茶を置く。ああもうクッキー良い匂い!

「もう食べちゃっていい?」
「…………どうぞ」

 許可を頂いたので、さっそく一枚。焼きたてのクッキーは熱いけれどとても美味しかった。さくさくと音を立てて口の中でくずれるクッキーが私は大好きだ。

 目の前には、カップに口をつけて柔らかく微笑む康太君。その顔、好きだなあ。

「…………お茶おいしい」
「康太君のクッキーに負けないでしょ」
「…………ん、好き」

 いつも淹れているお茶だけど、いつもいつも、康太君は喜んでくれて、私の大好きな笑顔をくれる。
 お茶を淹れるのだって康太君が喜んでくれるから上達したようなものだ。お茶を淹れるのは好きだけど、でも結局康太君と一緒にいる時くらいしか淹れないし、結局康太君のためって訳ですよ。

 だって、康太君は今も昔も大好きな、幼馴染。ずっとずっと一緒にいる彼に、好きだなんて今更口にするのは恥ずかしくてできないけど。

 だから代わりに、私は康太君のお菓子が大好きだって言うよ。

「やっぱり康太君のお菓子大好き」
「…………そうか」
「あ、照れてる?」
「…………そんなことはない」

 そんなよくあるお茶会の光景。


甘い香りに寄せて
(キミも同じ気持ちだといいな、なんて)

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