図書館にはまだちらほらと読書に耽る生徒が残っていたものの、校舎はもぬけの殻だった。
 だので関口と中禅寺が教室の戸を開けても、案の定もう誰もいなかった。
 教室は茜色に染まり、しんと静まり返っている。
 寮の夕食に遅れないよう、二人は例によって取るに足らないことを侃々諤々と話しながらも、それぞれの机に下げたままの鞄を取りに行く歩みは止めない。
 そして関口は、彼の机の上に紙が置き去りにされていることに気付いた。鼈甲色の机が夕日によってさらに濃い色になっており、その上にぽつねんと置かれた紙切れは、それ自体が発光しているかのようだ。
「『こっくりさん』だね」
 関口の目の前には中禅寺が立っていた。
 いったいいつの間に。
 音もなく移動するのは中禅寺の常のことながら、関口も毎度毎度ひくりと跳ねる肩を抑えることができない。
「ウィジャ盤か。こんなことをするなんて、硬派の風上にも置けないんじゃないか」
「降霊術というものははるか昔っから行われてきたよ。怪談だって人を引き付けてやまない」
「彼らが降霊術を試みたか、それとも単に肝試しの要領だったのかは知らないさ。でも人の机ですることはないだろ。はた迷惑だ」
 関口と中禅寺はでまじまじとこっくりさんを見つめた。こうして二人で机を囲んでいると、まるで今まさに自分たちがこっくりさんをしているかのようだ。なんだか間抜けな絵面だなと関口は思った。
 一銭銅貨がこの紙の上を勝手に這い回るなんて、いかにもぞっとしない。硬貨の動く仕組みが果たして思い込みなのか、筋肉の収縮なのかは知らない。しかしひとたび重ねた指の上に得体のしれない獣が乗っかっている想像をしてしまえば、それはもう頭の中から離れなかった。
「これは不備だな」
 関口の脳裏で狐がぴょんぴょんと跳ねだした時、中禅寺が口を開いた。
「こっくりさんってのは使った硬貨はもちろん、この紙だって処分しなきゃならないんだ。呪術の失敗の代償は高くつくぞ」
 呪術。降霊術からいやに言葉の重みが増してしまった。紙の上を踊っていた狐がにわかにガルルと牙を剥く。待てよ、これじゃあ狐がまるで犬じゃないか。
「どうでもいいよ。少なくとも、もし僕らが見つけなかったら、明日後ろ指を指されて笑われたのは僕だったんだぜ。そっちの方がよっぽど恐ろしい話だ」
「人目なんて気にしないくせに」
 ふん、と小馬鹿にしたような鼻息。それとも狐の威嚇だろうか。はたまた嘲笑か。
「僕は君が思ってるよかずっとずっと繊細なんだぜ」
「じゃあ、処分してやるかい? 彼らの代わりに呪いを僕らがこうむって」
 白い紙の上に、不意に中禅寺の指が落とされた。牙を剥いた狐が「それ来た」と中禅寺の指に飛び移る。何てことだ。
「何かお尋ねすることは?」
 紙の上中央に書かれた鳥居に指を置いて、中禅寺は不敵に関口を見やった。片眉をあげて、口角をニッと吊り上げてみせるのは中禅寺お得意の悪人面だ。
 この顔はいつも関口をどきりとさせる。お前のよこしまな思いも知っているぞ、全てお見通しだぞと言われているような心持ちになる。しかも今は中禅寺の手元のこっくりさんが相まって、いっそ千里眼か、妖怪変化か、呪術者にすら見えた。
 もしかして、もう少し上を見たなら、中禅寺の頭からニョッキリと狐の耳が生えていたかもしれないぞ……
 ゾッとするような、やっぱり間の抜けたような。いずれにせよ、頭に乗ってるのが狸の耳よりは狐の方がマシだろう。
「ないよ」
「そうか。じゃあ僕が尋ねさせてもらおうか」
 中禅寺は関口に向けていた目を下げ、机の上の「こっくりさん」へ向ける。
 すると関口の指が本人の思考を置き去りに、すいっと机の上に吸い寄せられていくではないか。
 狐が己の指を持ち上げ運んでいるのか知らんと、いよいよ関口は強い眩暈を覚える。
 ヒタ、と。
 中禅寺の人差し指の上に、関口の人差し指が重なった。どれほどの力を込めていいものやらと関口は逡巡するが、お構いなしに中禅寺の指がソロソロと動き出した。今や狐は数匹に増えて、中禅寺と関口の指を一緒にせっせと動かしている。

「 は い 」

 二本の指はそこで止まった。
 一体何が「はい」なのか。関口は中禅寺を見やる。
 どうやら中禅寺も関口を見ていたらしく、目が、ガッチリと、合った。西日のせいで真っ黒な、しっとりと濡れた中禅寺の瞳としっかりと目が合ったのだった。
 途端、関口は指先から得体のしれない痺れが腕を伝って登ってくるのを覚えた。ジワジワと、恐るべき速さで伝わるそれはあっという間に関口の頬一面に広がった。狐がやんややんやと、関口の視界の端で踊っている。中禅寺は狐たちの踊りに目もくれず、一心に関口を見つめていた。
 「なあ中禅寺、狐が神輿まで持ち出しそうだぞ」視界の端で、狐の耳と尻尾を生やした関口がお祭り騒ぎの狐たちに交じって軽口を叩いている。だが肝心の関口本人は中禅寺の真っ黒な瞳から目をそらすことができないでいた。せっかく狐の関口が冗談を言っても関口の耳には入らなかった。時が止まってしまったかのように、ただ中禅寺を見つめ返すことしかできなかった。
 沈黙に耐え切れず、あわあわと震える口が勝手に開こうとした時、関口の人差し指が震えた。ハッとして手元に視線を落とすと中禅寺がこっくりさんから指を離したらしかった。
「さ、帰ろう。今日は水曜だから、用務員室でごみを燃やしている。そこに入れよう」
 こっくりさんを引っ掴むと、中禅寺はあっという間にクシャクシャと丸めてしまった。脇に置いていたらしい鞄を掴むと「いくぞ関口」と何でもないように教室を出ようと歩いて行ってしまった。
 関口はただ茫然と中禅寺の背中を目で追うことしかできなかった。中禅寺の背中が戸の向こうに消えて、廊下から「置いてくぜ」と彼の普段通りの声が聞こえるまで、動くことすらできなかった。
「……意気地なしめ」
 ようやっとこれだけ口の中でつぶやくと、関口は鞄を持って教室から駆け出した。前を行く中禅寺にはもう人間の耳しか生えていなかったが、髪から覗くそれは真っ赤に染まっていた。
 もうこっくりさんなんてやるもんか。
 関口は中禅寺の隣に並んで、すっかり日の沈んだ廊下を歩き出した。


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