高嶺の花

魍魎の匣っぽいやつ


 空が青澄む前に綺礼は起きる。日課である父との鍛錬のためだ。夜がもうすぐ明けようかというこの時間は夜露がまだ空気の中に漂っていて、服がしっとりと肌にはりつく。決して心地良いものではないが、鍛錬の後に待っている父親の言う美しい朝日を眺めるよりはずいぶんマシだと、綺礼は思う。
 綺礼は決して裕福ではないけれど、決して不幸ではない教会に生まれた。父は厳格であった。母はもういなかった。しかしそれが、綺礼が抱える孤独にも似た虚無感の原因というわけではない。
 綺礼は埋めようの無い虚無感を常に抱いていた。まるで心のあるべきところにポッカリと穴が空いていて、恐らくこの穴は自分以外の人間にはないのだと綺礼は気づいている。綺礼はこの穴を埋めようと生きてきた。しかし勉学に励もうと、父から教わる武術に打ち込もうと、人の言う美しいものに耽溺しようと、綺礼の持つ虚無の穴が埋められることななかった。ただ最近、綺礼はその穴を埋めてくれることを、ある人物に期待していた。
 遠坂時臣は孤高な生徒だった。休み時間だろうと他の生徒と話すことは稀で、いつも難しそうな外国語の分厚い本を読んでいる。おまけに彼は秀才で、何よりもその容姿が美しかった。外国の血が混じっているらしく、髪も肌も色素が薄く、決して中性的ではないが陶器のように滑らかな輪郭と肌をしている。そして、彼の瞳の青の何よりも美しいこと。建造から数十年、男生徒のむさ苦しさを貯めてきた学舎にはまるで似合わない、清廉な雰囲気を漂わせている。
 だので誰も彼もが遠坂時臣を高嶺の花でも眺めるように、彼の周囲はいつもポッカリと切り取られたかのように何か違う空間のようだった。
 誰とも関わらない彼は一切が謎である。だからイメージから連想される妄想とも空想ともつかない噂話だけが遠坂時臣像をつくっていた。シセイジだとか、本当は他校の不良と付き合いがあるだとか。
 愚にもつかない。所詮はうわさ話だ。そんな話を聞くたびに綺礼は馬鹿らしいと切り捨ててきた。私生児なんて、それをいうならば綺礼だって父・璃正だけに育てられた。片親だ。遠坂時臣と何が違うというのだ。
 でも、それでも彼は綺礼と違っていつもひとりだった。周囲の人物にさほど興味がないが、集団生活に身を置く以上人とは関わらざるを得ない。関わらざるを得ない以上、わざわざ他人に邪険に当たって不興を買うなんて馬鹿な真似はしない。ならば、自然と連む人間が一人や二人出来ておかしくないというのに。遠坂時臣は違う。
 彼は、孤独なのだろうか? 好き好んで人と関わらないだけなのだろうか。それとも孤独を抱えてはいるが、気にしていないというのだろうか。それなら彼は、孤独を、心の穴を如何にして埋めているのだろうか。
 綺礼は彼を眺めることが日課になっていた。


 ◇◇◇


「言峰くん、良かったらいっしょに帰らないかい?」
 放課後、綺礼が鞄に教材などを詰めていると、目の前に誰かが立った。
 聞かない声だ。
 いや、そんなことはない。こんな、喧騒に包まれる教室の中で彼の声を聞いたことがなかったから、綺礼は一瞬判別がつかなかったのだ。
 落ち着くために一度大きく息を吸って頭を上げると、そこにはやはり遠坂時臣がいた。
「他に、誰かと帰る約束をしているなら別だけど」
 再び遠坂時臣が声を発した時には、彼が唯一発言する静まり返った授業中のように教室は異質に静まっていた。突然の出来事に驚いているのは綺礼だけではないらしい。
 綺礼は何とか、「いいえ、大丈夫です」とそれだけ応えた。
「そう。それは良かった。それじゃあ、帰ろう」
 遠坂時臣はそう微笑んで言うと、綺礼が支度を済ませてしまうのを黙って待ち始めた。
 綺礼は急いで教科書を詰める。教室はいつの間にか再びざわめきを取り戻しつつあった。ただそれらは遠坂時臣と綺礼のことを勘繰るものであることは特別耳をそばだてなくてもわかる。
 遠坂時臣はそれに気づいているのか、はたまた気にしていないのか。俯く綺礼にはわからないし、そもそも考えも及ばなかった。心臓がバクバクと音を立てて、生徒たちの無遠慮な話し声を遠ざけてくれていた。
 今まで毎日毎日、綺礼は遠坂時臣のことを眺めてきたのだ。そんなことをされていては普通、気持ちが悪いと感じるだろう。遠坂時臣はそれを言うためにわざわざ綺礼を誘ったのかもしれない。
「いつもいつも気持ちが悪い。二度と私のことをその目に映すな。異常者め」
 遠坂時臣があの青い目をこれ以上ないほど嫌悪に染めて綺礼に向ける。声は冷え切っていて、きっと綺礼の身を容赦なく切り刻む。
 そんなことを想像して、綺礼の手はたびたびワナワナと震え、そのたび教科書を取り落としそうになり、帰り支度にいつもの何倍もの時間がかかった。
「おまたせしました」
「うん。じゃあ、帰ろう」


 綺礼は遠坂時臣とドキドキビクビクしながら通学路を歩く。いつ自分は糾弾されるのだろうかと、まるで処刑台に向かうような心持で綺礼は遠坂時臣の後ろに従っていた。
 しかしいつまで経っても、遠坂時臣は何を言うでもなく、背筋をピンと伸ばして綺礼の先を歩くだけだ。
「私はこっちだけど、君は?」
「私はこっちです」
 まだ春には早い季節、日暮れは早く、道はすでに赤く夕日に染まっている。埃じみた、坂道へ続く分かれ道でようやくふたりは言葉を交わした。時臣は左の道に、綺礼は右の道に家がある。教会に住んでいるからと一言言えば、この町には教会はひとつしかないのだから手っ取り早かったのかもしれない。しかしそれだと時臣に「教会の子」だと、嫌われるかも知れない。敬遠されるかも、とそんな事が頭を過ぎり、綺礼は言えなかった。
 時臣は「そう。それじゃあ」とたったそれだけを言うと、また背筋をピンと伸ばしてスタスタ行ってしまった。綺礼も何とか時臣の背中に挨拶を返して、自分の家へと歩き出した。


 ◇


 翌日登校して席に着くと、前の席の生徒がくるりと背を翻した。
「君、あの遠坂時臣といっしょに帰ったんでしょ? 知り合いだったの?」
 容姿も物腰も成績も良い孤高の存在がある日、綺礼のような普通の生徒に話し掛ければこうなるのも当然だろう。
 綺礼は少しためらってから、「いいや。彼が勝手に」と何でもないように答えた。遠坂時臣はまだ登校して来ていない。前の席の生徒(確か雨生だ)は「へえ」とそれだけ素っ気なく言うと、前に向き直ってしまった。
 綺礼はその日、雨生のような質問がたくさん来るのだろうかと考え自席に座っていた。しかし周囲の生徒たちは興味深げに雨生と綺礼の会話を窺っていたというのに、皆何か聞きたそうな視線を向けてくるだけで、実際にそんなことを聞いてきたのは結局雨生だけであった。案外、どうってことないものなのだと綺礼は拍子抜けした。
 しかし、放課後になってまた時臣が「言峰君、一緒に帰ろう」と誘ってくれば昨日のように心臓がバクバクと唸りだす。教室が昨日のように静まり返ることはなかったが、昨日よりも自分たちを見る目は多い気がした。綺礼はその幾重もの視線をくぐり抜けて校舎を出た。
 しかし噂が何と囁かれようとも、ふたりは友人だとか、そんな関係ではまだないのだ。ただ一緒に帰っているだけの奇妙な関係だ。だから、その日もやはり無言で分かれ道まで歩いて、「ここまでだね。それじゃあね、言峰君」「ええ、それでは」と言葉少なに別れを交わしただけだった。



「ねえ、友だちになったの?」
 雨生だ。翌朝のことである。例に寄って雨生は背もたれに腕をついて振り返り、周りは興味深そうに綺礼と雨生を窺っている。遠坂時臣はまだ来ていない。
「俺もそれ、聞きたい」
 綺礼がどう答えようかと考えあぐねていると、上から声が降って来た。ぶすっとした、詰問するかのような口調。闖入者は見ない顔だった。
 「きみ、誰?」綺礼が尋ねるまでもなく雨生が言う。
「別に。隣のクラスの間桐。──で、どうなの? お前、時臣と何なの?」
 そういうこいつは、遠坂時臣とどんな関係なのだろう。
 雨生もそうは思ったのだろうが、何かを言う様子はなかった。さっさと質問に答えて隣のクラスに帰した方が早いと思っているのかもしれない。それか、間桐が尋ねる内容は自分と同じだから、特別気にしないことにしたのだろうか。案外合理的なやつだと綺礼は思った。
「さあ。ただ、彼……時臣さんから、誘われたからいっしょに帰っているだけだ」
 綺礼が努めて無表情で言うと、間桐は苦虫を噛み潰したような表情をした。奥歯を噛み締めて、目を細めて綺礼を睨むと「そうか」とだけ言って、教室を出て行った。いくつかの視線が綺礼と共に間桐の背中を追い掛ける。
「何だろう。遠坂のファンかな」
 もともとそこまで興味のない様子だったから、雨生は前に向き直ってしまった。
 綺礼はしばらく間桐が出て行ったドアを眺めていた。しばらくすると件の遠坂時臣が登校してきたから綺礼は急いで視線を教科書に戻した。

 その日の放課後も綺礼は遠坂時臣に誘われた。夕日で赤茶に染められた遠坂時臣の丸い後頭部も綺礼の視界にすっかり馴染んでしまった。
 しかし今日、しきりによみがえるのは、間桐のことだった。お前、時臣の何なの。間桐の言葉がグルグルと頭の中を回って離れない。
「あの」
 遠坂時臣は歩みを止めて振り返る。
 彼の青い目がキラキラと輝いている。
「何かな」
「遠坂さん、」
「……ねえ言峰君。時臣って読んでくれよ」
 遠坂時臣は、綺礼のことを見上げて、猫のようにキュッと目を細めて、そう言ってみせた。
 綺礼は少し低い位置にある遠坂時臣の目を初めて、まじまじと見つめ、彼と目をしっかりと合わせたことに喉を小さくコクリと鳴らせた。
「じゃあ、私のことも、綺礼と呼んでください」
「わかった。綺礼か。言峰君じゃなくて、綺礼」
「はい」
 遠坂時臣は、時臣は、「綺礼、綺礼」とどこか楽しそうに幾度となく口ずさんだ。
 綺礼は、図らずも自分が望む展開となったことに顔が緩むどころか、キョトンと、茫然としてしまった。こんなに簡単にことが運んでは、何だか悪い冗談のようだ。あるいは、時臣は、綺礼のことを、あの間桐のことさえも弄んでいるのだろうか? 時臣ほどの少年ならばそれをやっていても何の不思議もなかった。それをやっても許されるというのが時臣なのだ。
 時臣はいつの間にかまた前へ向き直って歩き出し、時たま綺礼の名をひっそりと呟いている。
「綺礼、綺礼」
 そんな後ろ向きな(それか、綺礼の思考がトんでいるから、これこそが至極まっとうな考えなのかもしれない)は、この時臣の声によってどこかへ霧散していってしまった。
 綺礼は現実味のないままフワフワと感覚もろくにないまま時臣の後に従った。
 ただその内、時臣があまりに楽しそうに、嬉しそうに自分の名前を口の中で転がすものだから、なんだか恥ずかしくなって、返事をしてみた。
「なんですか、時臣さん」
 時臣は綺礼を振り返る。自分と同じように彼も恥ずかしがるのか知らと考えたが、時臣はユルユルと、先ほどまでの声音よりももっと嬉しそうに微笑んだ。綺礼は俯きそうになるが、なんとかそれを堪える。

「それじゃあね、綺礼」
 時臣はそう言って左へ曲がった。いつの間にかいつもの分かれ道だったようだ。
 いつもの別れの挨拶に加わった短い一単語。自分の名前。
 綺礼は時臣の揺れる後ろ髪をもう今日は見る事が出来ないことをとても残念に思った。
 綺礼は名残惜しがる首を反転させて、ゆっくり踏みしめるように家へと帰った。


「時臣さん。……時臣さん」
 部屋で、綺礼は何度も何度も口の中で転がした。そのたびに目蓋の裏で時臣が綺礼を振り返る。「何だい、綺礼」そう名前を呼んでくれる。夕日の橙に照らされた、時臣の髪の毛の一本一本までが美しく綺礼に微笑んでいた。
 そして同時に昼間の間桐の、羨ましそうな顔を思い出していた。
 無意識に、綺礼の顔はにやけていた。……



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