湖の亡霊




 泰山の麻婆豆腐を手に、綺礼は湖に訪れていた。
 ボートを進水させて、湖のちょうど真ん中のあたりまで来たところでオールを漕ぐ手を止める。隣に座らせておいた岡持ちから取り出した麻婆豆腐はやはり冷めてしまっていた。しかしこれは半ば予想できたことだ。気まぐれの行動にいちいち小さな粗に腹立てていては馬鹿である。月と湖とを愛でながら食してみよう、その考え自体馬鹿なのだから。
 綺礼は己の奇行にほくそ笑みながら蓮華を動かし続けた。

 麻婆豆腐を食べ終え、しばしぼうっと食休みをとっていた綺礼であったが、突如背後に気配を感じた。そして辟易した。
 もちろんそれの正体が人間だとは思わない。何せここは湖のど真ん中だ。ただの人間がどうやって湖の真ん中へひょいとやって来ようか。きっとあのサーバントであろう。大方綺礼の奇行を笑いにやってきたに違いない。
 しかし、追いかけてきたのか。暇人め。
 平生ならばこのまま向こうが行動を起こすまで無視を決め込むところだが、ここは湖の真ん中。岸から遠い。水深もある。この新たなサーバントの不興を買ってボートごと沈められては、もちろん死ぬわけなどないが面倒は避けられないだろう。綺礼は溜息と共に振り返った。

「……これはこれは。し慣れないことをしてみるものですな。まさか、あなたに会えるとは」

 静寂が未だ湖を包んでいる。綺礼の後ろに姿を現したのは例の姦しいサーバントではなかった。だからといってやはり人間でもない。この世の人間では。

「時臣師」

 口角が吊り上がる。目が細まる。最近覚えた「笑顔」を浮かべ、両腕を広げて、綺礼は湖面から浮かびあがる死者を迎えた。はたから見れば、迷える死者を慈悲深く迎え入れる神父といったところだろうか。
 しかし死人は何の反応もよこさなかった。生前彼がさんざ浮かべていた上品な笑顔さえなく、表情も抜け落ちたままである。

「時臣師? よもや、私をお忘れに──」
「柄杓を貸して下さい」

 無機質な声だった。綺礼のせっかくの笑顔は抜け落ちた。
 ……柄杓?
 なぜ求められたのか、まったくわからない。だが柄杓は確かにあった。真夜中に湖へと行く不気味な男に、ボートの貸し主が親切にもわざわざこの土地の迷信とそれに抗う術とともに授けてくれたのだ。
 最近になって現れた湖の怪。ボートに乗って水を進むと、水面から音も無く男が現れる。この世の住人にあらざるその男は、柄杓を求める。馬鹿正直にそれに従って柄杓なり、それに準ずるものなりを与えてしまうと、柄杓によって水を船の中に入れられ、そのまま船を沈められてしまうという。
 ありきたりである。しかしこの手の怪談の舞台はもっぱら海だというのに湖なのだから、どうにもちぐはぐでしっくりこない。また漁場でもないこの湖に人は来ないのだから、化けて出るだけ損である。だからこそ、遭遇率は高いそうだが。

「それにしても、酔狂なんだか馬鹿なんだか、わからん舟幽霊だろ。でもまあ今の時代には珍しいこてこてに型通りの妖怪だろう? こっちも奴さんにあわせて、正攻法で行こうってね」

 貸し主はそう締めくくって綺礼に底の抜けた柄杓を渡してきたのだった。

 死してなお、誰も気に留めない作法なんぞを守り、そして肝心なところを間違える。
 舟幽霊なんぞになった経緯の不明さも相俟って、綺礼はボートの上で声をあげて笑った。こんなに可笑しいことがあるだろうか。

「ああ、ああ、我が師よ、あなたはなんと愚かなのでしょう! いっそ愛おしささえ湧いてくるほどに!」
「……柄杓、柄杓を……柄杓をください……」

 目を伏せて遠坂時臣に似たそれは虚ろに柄杓を求め続ける。綺礼はゆっくりと一度呼吸をすることで、体を震わせる愉悦をなんとか収めた。酸素を得た頭はくっきりとした思考をよび戻す。
 綺礼は腕を伸ばして幽霊の顎に手を添え、顔を持ち上げた。初めて、いや久し振りにその蒼い目を見る。焦点こそ結ばれていないようだが、幽霊が綺礼を認識したことに変わりはあるまい。
 それなのに、幽霊は何の反応も寄越さなかった。憎悪も、怨嗟も、悔恨も、嫌悪も、何も。
 綺礼は胸の内にあった興奮が急に形を変えて行くのを感じていた。
 感情も何もない人形。いや今も手に触れている不愉快な肉の感触からして人形以下だ。なり損ない、だ。
 ボートの底面に転がされていた底が抜けた柄杓を手にすると、綺礼はそれを無造作に幽霊に渡した。幽霊は無感動に「ありがとう」と柄杓を受け取ると、己の半身が沈まる湖の中に浸した。しかし柄杓にはその水を受け止めるはずの底がない。幽霊は不思議そうに柄杓を見て、再び湖に浸す。
 静かな夜にバシャバシャと幽霊が生む水の音のみが騒がしかった。綺礼は無表情にそれを眺め続けた。
 例えば、今ここで綺礼がオールを持ち、岸まで退散したとする。そうすれば、この幽霊はどうするのであろうか。追いすがってなおボートを沈ませようとするのか。あるいはボートを転覆させるのか。陸に上ったとして、幽霊はその後も追いすがってくるのか。
 今までにこの幽霊に遭遇した人間たちがいくらいようと、果たしてその結末が綺礼にもあてはまるかはわからないことだ。たとえこの遠坂時臣の姿形をした幽霊が綺礼という存在を認識しておらずとも、綺礼が遠坂時臣を殺した張本人である限り、何が起こるかはわからない。
 綺礼は柄杓に水を満たそうとする幽霊を眺め続けた。
 空も白み始めた頃、幽霊は柄杓を湖面に残して消えていた。


 ***


 翌晩、綺礼は再びかの湖に足を運んでいた。貸しボート屋の主は綺礼を見て、やはりというべきか、驚いたようだった。

「お客さん、また来なすったな。今夜は岡持は持ってないようだがね」

 それじゃあせめてものお供にコイツをどうぞ。
 冗談めかして笑いながら、貸し主は例の底の抜けた柄杓を掲げた。
ボートの底に置かれた柄杓がコトンと音を立てた。


 ***


 遠坂時臣の幽霊が出てくるか否かはまちまちであった。
 どうしても外せない用事がある時以外、綺礼は湖を訪れては遠坂時臣の幽霊を待った。
 毎晩のように訪れる綺礼に貸しボート屋の主は、夜毎駆り出されることを厭うたのか、気味悪く思ったのか、金を入れる箱を誂えると綺礼に底抜けの柄杓とボート一艘を好きに使わせるようになった。煩わしい人付き合いがなくなったことは綺礼の湖通いに拍車をかけた。
 毎夜出掛ける神父に不審を感じたギルガメッシュが一度綺礼に同行したこともあった。何の変哲もない美しい湖に、よもや未だ「普通の幸福」への執着が捨てられぬのかと嘲笑を受けた。綺礼は笑ってみせたが、ギルガメッシュはそのまま消えて、それから湖に来ることはない。一度興味を失ったものにあの男が再び高じるというのは考えにくいから、そういうことだ。
 もう、来るはずなどない。
 ギルガメッシュの目をかいくぐった遠坂時臣の幽霊は、今夜も綺礼の眺める前で底抜けの柄杓で水を掬い上げている。


 ***


 いつしか綺礼の生活は一変していた。彼の中で、日数の経過を知らせる太陽は月に代わり、目覚めの朝は夜に代わった。昼夜が逆転した。それもこれも魔術師というこの世の理から外れた存在であったくせに、死後は律儀に一般に言う幽霊と同様、ただただ夜のみに現れる時臣の幽霊のせいなのだ。
 愚かしい。
 しかし綺礼が考えるに、彼の師は未だこの世を漂う残留だ。
 この世の住人ではないが、あの世の住人などでも、ないのだ。
 そんな半端者のくせに一丁前にそれらしさを気取るなんて。
 綺礼は愛おしげに幽霊の頬に手を添える。体温はない。湿った、ぬるりとした固い肌の感触がじんわりと指先に染み込む。時臣の幽霊はただ柄杓を上げ下げすることに邪魔だからと綺礼の腕を退けた。


 ***


 綺礼が湖に通うようになってどれほどの夜が過ぎていったのだろう。遠坂時臣の遺言により綺礼は昼間は遺された遠坂家のために働き、夜は決して近くない湖へと通う。睡眠は少なくても済む体であるが、そもそも人間という生き物である限り不眠の証は体に嫌でも現れるものだ。今や幽鬼のような有り様になりつつある綺礼に、跳ねっ返りの時臣の娘もさすがに少しばかりの心配を見せている。

 綺礼の頭の中には混乱が生まれていた。
 時臣の遺言。死者が遺す言葉。
 二度と言葉を発することのできないからこそ、遺言というものは守られるべきものとして力を発揮する。
 だが、その言葉を発することのできないはずの死者は、確かな質感を持って綺礼の前に現れる。あまつさえ(馬鹿の一つ覚えでしかないが)言葉も発する。
 果たして時臣が遺した言葉を守ればよいのか、今目の前にいる時臣に付き従えばよいのか。綺礼は判じかねていた。

 以前は数回に一度会えればよい方だったが、その頻度も今や逆転してしまった。時たま時臣に会えぬ日は、綺礼の焦燥をひどく駆り立てた。会えなかった次の日には、綺礼は時臣を掻き抱いた。
 あなたの弟子ですと、そう言ったこともあった。名前を呼んで、綺礼と呼んでくださいと懇願したこともあった。
 それでも時臣はただ柄杓を求める声をあげるだけで、綺礼に抵抗もしなければ、綺礼を受け入れることもなかった。まして綺礼の服が濡れることを気にとめる様子もない。綺礼も己の服の如何を気にかける頭は少しもなかったから、名残惜しくも湖から陸地に上がったばかりの綺礼の服は、シタシタと裾から水を垂らすという、どちらが幽霊だかわからぬような有り様だ。しかし教会に帰る頃には重い司祭服も粗方乾いているものだから、幸か不幸か誰にも事の真相を掴ませず、綺礼の生気のみが日に日に消えていった。


 ***


 ***


 その夜は、綺礼が最後に亡霊に会えずに三日が過ぎた晩であった。
 眩しい月があまねく湖を照らし、湖は月の光を照らし返したので、近くに電灯の類は皆無だというのに、存外明るい晩であった。
 毎日会えていたはずのものが突然に無くなったことは、綺礼の目の下に湛えられたどす黒い隈を一層濃くし、細った頬を一層窶れさせた。ただ目だけが爛々と鈍く光っていた。
 今夜こそ、今夜こそと、綺礼は湖面に向かいひたすら彼の師の名を呼び続ける。

「時臣師、時臣師。いらっしゃらないのですか。私めにその姿を、声を、どうかお聞かせください。時臣師、時臣師、時臣師──」






 綺礼の声が掠れて来た頃、音もなく亡霊は現れた。
 今まで虚空を映していた蒼い瞳は綺礼を見つめ、いつかのように穏やかに細められていた。
 綺礼は、あああ、と感歎の言葉を吐き、亡霊の名前を呼んだ。亡霊は応えるように両腕を綺礼に広げる。それは彼らが初めて湖で出会った時の役割を取り替えて繰り返したようだった。

「おいで」

 初めて柄杓以外を求める声は、やはり亡霊が魂を肉体に宿していた頃のものと寸分違わなかった。綺礼は膝立ちになり亡霊へと近付く。
 綺礼はもう一度「時臣師」と言うと、迷うことなく亡霊の胸に飛び込んだ。
 重心が著しく偏ったことよって水の侵入を許し、あえなく船内に水を充満させたボートは、ちょうど大きな柄杓に水が満たされるようであった。


[了]



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