まるでそこは時間が止まっているかのようだった。朝焼けの空は、灰がかった薄いブルーの中に、朝日で焼かれたように赤い雲が浮いている。
あたりは静かで、道路を走る車のエンジン音と鳥の鳴き声しか聞こえてこない。人の話し声が聞こえないせいか、私だけがポツンと異世界に飛ばされた気分になる。

だいたいオール明けはこんな感じだった。肌寒いなぁと、自分で自分の体を抱きかかえるように、さすっては温めようと繰り返す。あまり効果はなかった。
少し震え、秋から冬にかけてゆっくりと準備をはじめているこの気温に耐えながら、ポツポツと自宅への歩みを進める。

それにしても、今日は災難だった。やっぱりずるずると長く居座って遊ぶのはよくないのかもしれない。大人に近付いて遊びたい年頃でもあり、日をまたいで遊ぶ事が多くなった。前半はしゃぎすぎるのもある。いつも最後の方で話題やテンションが玉切れして、脱力してしまう。場が持たなくなった私は、ゆっくりと自分の携帯に手を伸ばして、なんの用事もないのに弄ってしまう。どうにもそれが気に入らなかったらしい。

仕方ないとは思った。ただ、長い付き合いの友人に初めてそれを咎められ、気まずい空気のまま別れることになってしまい、後味が悪いまま別れになってしまったのが気がかりでしかたない。謝罪のメールに「また遊ぼうね」という簡潔な言葉を紡ぐことがどうしてもできなかった。そして、「また予定が合えば」なんて他人行儀な言い回しをしてしまったことに後悔する。



いつだって私は人と心の距離を多く取ってしまう。それはきっと、嫌われるのが怖いからなのかもしれない。もう、幼い頃から自分のキャラクターは決まっているようで、私はだれかの操り人形のように、このとき私ならこうするんだろうなあって憶測で動いてしまっている。

私がこうしたいからこうしている。という実感があまりない。たぶんみんなが思ってる私なら、こう動くんだろうなっていう周りの想像するような自分であろうとしてしまい、もう随分と本当の自分に向き合えていない。そもそも、本当の自分なんてものが果たしてあるのかさえ危うい。

ただ、今の生活が苦しい事に変わりはなかった。それでも、私は考え方が変わっているようだから、まともに相談できる人もいやしない。そして私もまた、自分の求める答えをくれる人がほしいと思っているのだから、もうどうしようもなかった。

「あれ」
ちりんちりん、とベルの音が鳴った。歩道の中心を歩き過ぎていたのかもしれない。すこし右にずれる。後ろからきた自転車が、ゆっくりと私の隣をすり抜けようとして、抜け切るのかと思いきやそのまま徐行を始めた。
俯きがちに歩いていたため、自転車であることに間違いないのは分かるが、どうにも自分のペースに合わせて徐行しているように思える。違和感に顔を上げれば、見慣れた顔が自転車にまたがって私を見ていた。

「白石先輩…?」
「おはようさん。オールか?」
「おはようございます。オール…ですね。」
「若いなぁ。」

そう言って、務める仕事先が同じの白石先輩は微笑んだ。私は、会社の独身寮で生活をしている。白石先輩も同じだった。先輩は自転車から降りて、自転車を押しながら歩く。一緒に帰ってくれるようだ。先輩と話す事はあまり多くはないが、仲良くしてもらいたいと日頃から思っていたので、内心ラッキーとピースしてみる。何故なら私は白石先輩に密やかに想いを寄せていたからである。にやけてきた口端を隠すように、空が綺麗ですよと上を見上げた。

淡い濃淡を描く青にうすだいだいに色付いた雲がゆっくりと流れている。私たちが雲を追うように歩けば歩くほど、雲は遠のいていくのに、それでも雲はゆっくりと時間をかけながら私たちの頭上を通過していく。

「ほんま、最初名前ちゃんかなぁって思って声掛けようとはおもててんけど、ちゃう人やったら恥ずかしいやん?やから顔確認してから話しかけようと思って」
名前ちゃんずっと俯いてるからほんまなかなか顔見れんくてどうしようかと思った!と意気揚々に話す先輩は、徐行していた時と同じように私の歩幅に合わせて歩いてくれている。

「っくち、」
「あー、大丈夫かいな。寒いんやったら俺の上着着ぃ」
「え、でも先輩が…」
「えーねんえーねん。俺は風邪ひかんから」

先輩は、私にジャケットの上着を着せてくれた。白石先輩は引き締まっていて、どちらかといえば細身なイメージだったのに、意外にも彼の上着は私を十分すぎるほどスッポリと覆って寒さから守ってくれた。彼に着られていたとは到底思えない。ふんわりと香る先輩のかおりも、ジャケットを脱いだ事によって晒されたぴっちりとしたデザインのワイシャツにも、私の胸はついつい高鳴ってしまう。

「先輩は、オール、ですか」
「ま、せやなぁ。ゲンミツに言えば仕事終わりや。」

白石先輩はにっこりと笑って、私の頭にポンと手を置いた。元気ないやん。見透かすような瞳の奥は、真剣で、それでも私が交わしやすいよう冗談交じりに話してくれる。そんな気遣いが誰に対してもできる白石先輩のことが、私は好きだ。

「ちょっと最近、うまくいかなくて。もっと頑張らないと…とは思うんですけど、どうにも空回りするっていうか。」

ポツリポツリと漏れ出す弱音に、先輩はただウンウンと頷いていた。時たま、へぇ〜だとか。ほう、だとか。反応は変わっていたけど、最後まで私の言葉に口出ししないで聞いてくれる。一通り話し終えると、彼はただ一言「辛かったね、よく頑張ったよ」と言って私を自転車を押しているほうじゃない手で私の頭をひと撫でして、抱き寄せた。
急な出来事にさらに心臓は早鐘を鳴らすが、先輩はそんなのお構いなしだ。

「ほんまに名前ちゃんはよー頑張ってる。俺、いっつも見てるもん。可愛いなーとか、今日は落ち込んでんなーとか。やからなんか名前ちゃんが落ち込んどー姿みたらどうも胸がくるしゅーて、つらいわ!なんなんやろうな、ほんま。ごっつ好きやねん。」

良く噛まずに言えるなぁと聞いてはいたが、ん?よくよく考えてみるといろいろ爆弾発言しているような…。ちらりと先輩の表情を覗きこめば、しまったとばかりに顔を赤くして手で覆い隠す先輩がいた。

「し、しもたぁ〜〜〜」
「せ、先輩?」
「ちゃうねん。ほんまはそんなん言うつもりじゃなかってん。何のカミングアウトやねん!ってな。堪忍してや。」
「先輩、何の話だか…」

へなへなとへたり込む先輩に狼狽えていると、先輩は覚悟を決めたようなキリッとした面持ちでもう一度私に向き直った。

「あんな、名前ちゃん」

私もそれを、固唾をのんで見つめる。まるでそこだけ時間が止まっているかのようだった。朝焼けの空は、灰がかった薄いブルーの中に、朝日で焼かれたように赤い雲が浮いている。
あたりは静かで、道路を走る車のエンジン音と鳥の鳴き声以外無駄な音は聞こえてこない。奇妙な静寂に包まれるなか、私と先輩だけがポツンと異世界に飛ばされた気分になる。あんなにも遠かった雲は、もう頭上を通り過ぎようとしていた。


「名前ちゃんのことが好きっちゅー話や」




朝焼けの溜息
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