人生は忍耐だ。

日は暮れてエスカバは倒れるようにソファーに寝転んだ。全く、こんな朝早くから来て、何もせず一日を過ごすとは御苦労なこった、と名前は心の中でエスカバに対して悪態をついた。
さっきまで食べていたオムライスは残さず平らげ、美味しかったと一言添えてから眠りについたエスカバは、相当疲れているようだ。
しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。長い睫毛に高い鼻…むかつくけど綺麗で整った顔。ミストレとはまた違った魅力が、名前の心を掴んで離さない。


「はぁ…」


ため息が立ち込める。どうしてこんなに執着しまったのだろう。安心しきった寝顔でこうして名前が隣に座っても起きない、信用しきったように眠るエスカバを見ていると、思わず頬の筋肉が緩む。
きっと今すごく気持ち悪い顔で笑ってるんだろうなと、名前は無意識のうちに自分の顔を手で覆った。


もう一回だけ、視線をエスカバに向ければそれはもう子供みたいに寝ている彼がいる。胸の奥をくすぐられるように、愛おしさが込み上げてくる。これ以上、一緒にいたらどうにかなってしまいそうなほどだ。


もう寝よう、と思って名前は自分のベッドに入った。それでもチラつくエスカバの顔。これはやばい。気を落ち着かせようと台所へ向かうがソファでどうも立ち止まってしまう。
どうしてしまったんだろうか、私は。もう少しだけ、と足を屈めて名前はエスカバの寝顔を拝んでみる。クシャクシャと頭をなでても起きる気配なんてない。
ゴワゴワとした芯の太い髪が、指に絡みつく。頭からは、名前の使っているシャンプーの香りがした。そこで、自分たちは今日から同じ屋根の下過ごすのか、と自覚する。顔が熱くなっていくのが自分でも分かった。そんな自分にまた嫌気がさして、スヤスヤと眠るエスカバに名前は独り言のように呟いた。



「どうしてまた来たの?せっかく忘れることができそうだったのに私一人好きなんて馬鹿みたい…」

目尻に涙が滲んでいく。じわじわ熱くなってちょっと溢れた。涙を拭い、ヤケになって名前はベッドに無理やり体を深く沈めた。





一方でエスカバは自身と葛藤していた。

全く嫌な女だ。
こっちは未練もなにもかもを残してこの家にやって来たというのに、肝心の女は隣のベッドで無防備に寝てやがる。呆れて物が言えない。俺が、どんな気持ちで、この家に来たのかすら、知らない癖して。勿論、知られて困るのは俺だけど。

俺はこんなに未練がましい男だったのだろうか。規則正しい寝息を立てて眠りにつく名前はもうどうしようもなく愛しい。

エスカバは、浅い眠りから覚めてしまい、暗闇の奥をただぼうっと見つめていた。耳を澄ませば、微かだが名前の息をする音が聞こえてくる。たったそれだけの事でも、胸の奥にチラついた欲望は渦巻いていく。それを、理性で押しとどめるのは、欲望に忠実に生きてきたエスカバにとってひどく骨が折れることだった。


きっと名前は未練も何もなく、もうとっくの昔に吹っ切れているんだろう。エスカバは、名前の眠りを妨げない程度に足音を抑えて忍び寄る。
こいつが俺のことをまだ好きでいてくれているのなら、抱きしめて、キスして、全てを俺で埋めてやりたい。
もちろん今のエスカバにはそんなことができるはずもない。エスカバは、自分の頭を支配していく本音に苦しめられていた。



…――あぁ、もうむしゃくしゃする。



一人でイライラしているエスカバをよそに名前は少し口を開いた。

「エスカバ…く、ん」

名前を呼ばれてエスカバビクリと反応した。けれど当の本人は夢の中で。

「すき、」

ポソリと零れた泡みたいに消えそうな言葉と、溢れた涙。昔の夢を見ているのだろうか、昔から俺は名前を傷つけてばかりいた。エスカバは昔の自分を掘り返して、殴りたい衝動に駆られる。

何かひとつでも幸せになるようなことをしてやれただろうか。
頭の中はもう名前のことでいっぱいになった。理性なんてものも吹っ飛んでしまい、ただ涙を流して自分の名前を呼んでいる名前の唇を自身の唇で塞ぐ。

俺はここにいる、何の邪念にも縛られないよう、過去の俺だけが名前と俺を繋ぎ留めていれるのならば、せめて夢の中でだけは泣かせたくない。
唇を離せばハッと我に返る。


「っ、…っとに俺は馬鹿だ…」


名前の涙を拭って、夢の中でだけは幸せに、とエスカバは呟いた。罪悪感に苛まれながらも再び眠りにつく。
エスカバは、何が起きても自分の気持ちに嘘をついていけると思っていた。