二限目終わりの休み時間、クラス分のプリントを抱えて教室を出ると
向こうの廊下から緑間と高尾が歩いて来るのが見えた。
どうやら私に用事があるようで、高尾は私を見つけるなり笑顔で駆け寄ってきた。
ちなみに緑間は自分のペースを全く崩さず無表情のままやってきた。

優雅に歩いている緑間を見届けていると、横から高尾が「なあなあ!」と声を上げた。
普段から元気だけど今日はいつもにましてテンションが高いらしい。


「今日な、ウチで他校との練習試合があんの!」

「おー、頑張ってね」

「おう!…じゃなくてさ、今日ウチで試合があんだけどー?」

「そしたら今日は居残り練習ないんだね」

「………おっ前マジで居残り練しか興味ねえのな!
試合の方にもちょっとくらい興味持ってくれないかねー、って真ちゃんが」

「言ってないのだよ」

「顔に書いてあっから」

「書いてないのだよ」


「相変わらずだね二人とも」

「まーな。…じゃなくって試合だっての!見に来ねえ?って話なんだけどっ!」

「え?そういう話?」

「そ、お誘いに来たの。どうよ?」


「うーん、試合かぁ」

「練習試合だしそんな難しく考えなくていーって」

「っていうか私が見に行ってもいいの?」

「別にお前の好きにすればいいのだよ」

「とか言ってるけど、練習試合のお誘い行ってくるわーっつって教室出たら
無言でついてくる程度には真ちゃんもお前に来てほしいって思ってるから」

「…余計なことを言うな、高尾」


いつもと比べて変に静かだなと思ったらそういうことか。

言われてみたら、バスケ部の試合って見たことないかも。
中学の時も高尾に誘われたことあったけど、あの時は委員会があって行けなかったんだっけ。


「二人がそんなに言うなら、一度見に行ってみようかな」

「おっマジ!?誘ってみるもんだな!
うっしゃ、今日は頑張っぞ!なっ、真ちゃん!」

「人事を尽くしていれば、負けなど有り得ないのだよ」

「そこは、そうだな頑張るぞ高尾!だろ!?」

「高尾、そのテンションの緑間は気持ち悪いと思う」

「あぁ、確かに気持ち悪ぃわ」

「勝手に想像して勝手に人の評価を下げるとは何なのだよ」



そんな会話を交わした数時間後、私は、キャイキャイと雑談をする他の女子に紛れて
タンタンタン、と音を鳴らしながら体育館の金属の階段を上っていた。

隣の女子軍団は会話の内容から察するにどうやら上級生の集団らしい。
緑間たちがセンパイと呼ぶ上級生たちを呼び捨てしたり、クン付けして呼んでいる。
ああ、思い出した。この人たちあの時体育館の前で見学してたグループだ。

目の前で繰り広げられる会話の中でたくさんの名前が挙がっていく。
その中にはタカオクンだとかミドリマクンだとかそんな名前も混じっていた。
例え一年生でもレギュラーとなると上級生のお姉さま方からはチェック済みのようだ。


ギャラリーには既に何組かの女子がいた。男子もちらほらといる。
自分の知り合いがいないかちょっと探してみたけれど、みんな知らない顔だった。
今更だけど、たった一人で男子運動部の試合を見るのってちょっと勇気がいるかも。
誰か誘えば良かったなと思いながら、先ほどの女子グループの陰にこっそりと隠れた。

秀徳側らしきベンチに視線を送ると、見知った顔がユニフォーム姿で固まっているのが見えた。
へえ、ユニフォームもオレンジ色なんだ。
なんかウチのバスケ部ってオレンジ色が多いけど学校のカラーなのかな。

ベンチから少し離れた場所に見慣れたジャージを着込んでいる人は何人もいるけど、
今の時点でベンチ付近でユニフォームを着ているのがスタメンってことだよね。
主将さんに、見慣れた上級生の先輩たちに、高尾に、緑間。
ベンチに座ってた中谷先生もその集団に向かって何かを話し始めたから多分そうだと思う。
ああ二人って本当にバスケ部のレギュラーなんだな。二人には失礼だけど今頃実感してる。

でもこうやって緑間を上から見下ろすのって初めてだな。って高尾とか他の人もそうか。
いくつもの頭のてっぺんを見つめて、緑間もいつもこんな視界なのかなと考えていると、
審判らしき人の声がかかって、秀徳と相手のチームがコートに向かって集まりだした。


周りが上げる声援の中で、主将さんと、それと同じぐらいの身長の相手選手がボールに向かって
飛ぶのを見つめながら、私はやっぱりバスケ選手っておっきいんだなと一人で頷いていた。

* * *


試合が始まってから、私は妙な違和感に包まれていた。何なんだろうこの違和感は。
どこかもやもやとしながらボールの行く先を視線で追っていたけれど、
相手が弾いたボールに向かって飛び出して行った高尾のスピードを見て、気が付いた。

動きが違うんだ。
私が見慣れていた動作はベストの状態ではなかった。考えてみれば当たり前のことだ。
普段見ていた彼らは過酷な練習の後でどこかしらに疲れがあったこと、
そして今までの部活や居残り練習はこうした試合で発揮するためにやっていたのだと。

私が見ていたのは裏でしかなく、どう考えても表はこちらだ。


高尾からパスを受けた彼がシュートを打つ体勢に入る。ゴールを引き寄せる。
普段の居残り練習の彼の姿と重なる。あれはこの瞬間の為の鍛練なのだと今なら分かる。
そうだ、理解していなかった。私が見ていたものは此処に向かうための努力だったのだと、
そんな当たり前なことを私はきちんと分かっていなかった。

彼の動きは、私の記憶の中の動きと重なって、そして少しずつブレていく。
目の前の彼は私の記憶の中の彼を少しずつ引き離していく。

けれど彼が放ったボールは、全く変わらない。
美しい放物線を描いてゴールに向かっていく。
外れることなど毛頭考えていないらしい彼は背を向けてコートの中を歩いていく。

視界の外でボールがゴールネットを揺らして地面に落ちる。
湧き上がる歓声の中、近寄っていった高尾と何か言葉を交わしているのが見えた。


どんな素人目にだってわかる。彼は上手い。
このコート内で一番上手い人を挙げろと言われたら、誰が見ても彼を挙げるに違いない。
でも見ていると飛び抜けているのはシュートだけじゃないことも分かる。
彼がマークする相手はシュートやパスをうまく出せない。

自嘲気味に自分とバスケセンスを比較していた高尾の言葉が、その気持ちが、ようやく理解できた。
けれどこの強豪校で他の二・三年生を押しのけてレギュラーになっている高尾だって、
絶対的な実力を受け入れてその領域に喰らい付いていって、
自分の力全てを注いで、彼を生かしチームを生かしている高尾だって凄い選手だ。

高尾や他の人たちが下手なわけじゃない、そんなわけない。ただただ彼が凄すぎるんだ。
高尾たちの世代で五本の指に入るプレーヤー、それがどういう意味なのかようやく分かった。


「緑間ナイシュー!」「もう一本行くぞ」

「緑間にひるむな!取り返すぞ!」 「はい!」


緑間、…緑間?
なんでみんな彼の事を緑間と言うんだろう。今プレーしてるのはミドリマって人なのに。
あれ、なんでミドリマじゃなくて緑間って聞こえるんだろう。

おかしいな、と思いながら彼へと視線を移すと、
コート中央で相手選手にディフェンスをかけている彼の姿がゆらゆらとブレていた。

あれ?なんだろう。ホントにおかしいな。
彼から何か見慣れた人物の姿がちらちらと揺れて見える。

今、6番のユニフォームを着て、眼前のコートを駆けているのは誰なんだろう。


「…クソッ!緑間ァ…!」「止めろ!!」


「………、緑間、」


夜の体育館でシュートを放っていた彼、汗だくの緑間。
手からボールが離れる瞬間の彼の指先、いつも左手にテーピングをしている緑間。

心の奥がざわざわする。なんだろう、これは。

あの日ランニング終わりに水飲み場で話をして、それからシュートを放っていたのは。
渡したタオルを持って近付いて来たのは、そのタオルを肩にかけてシュートを打っていたのは。
運動終わりの温かい手を私に差し伸べたのは。これが意味することは。

今までバラバラに沈んでいたピースたちがふわふわと動き出す。
別々の場所に大切にしまい込んでいた記憶のひとつひとつが邂逅し、意味を持って沈んでいく。


『別に邪魔とは言っていないのだよ』
『今日も残るのか』
『ボールへの爪のかかり具合でオレのシュートが決まる、と言っても過言ではないからな』

頭の中で緑間の声がする。
ピースがひとつずつはまっていく音と何かが崩れていく音がする。


『オレはオレの為にやっているのであって、それでお前から礼など受ける筋合いなど無い』
『お前は、本当に飽きないのだな』

『もう、練習はしていないはずだが』
『お前がオレの方を見る理由がそれ以外にあったかと思ってな』


「―――――、」


緑間の声と共に最後のピースが静かに沈む。ジンジンと疼いていた頭の奥がすうっと冷えた。

ああ、緑間だ。

あの人は体育館でしか会えないスーパースターなんかじゃない。
緑間だったんだ、最初からずっと。私がよく知ってる、あの緑間だったんだ。

ああそうか、そうだったんだ。最初からずっと、彼は緑間だったのか。


今になってようやく気付いたその事実に胸がいっぱいになって、吐き出す息が微かに震える。
今まで見えていた世界が全く違う色で彩られてゆく。何も変わってないのに何もかもが違う。
どうして、こんな簡単なことが見えていなかったんだろう。

今、コートの中で試合をしているのはあの緑間でしか有り得ない。
そう理解すると奥底から何かが次々に湧き上がってくる。
初めて緑間を見た時のような感情が、次から次へと湧いて出てくる。

バスケをしている彼と普段の緑間が切り離されていたのは、
シュートを打つ練習をしている後ろ姿しか見えていなかったからなのかもしれない。
あれが彼の世界の全てだと、そう思っていたからだ。

視線の隅、秀徳側のベンチに妙なクッションが置いてあるのに気が付いた。
きっとあれは蟹座の緑間の今日のラッキーアイテムだ。
あれで今日の運気を補正しているのだろう。


目前のコートでは、高尾からパスを受けた先輩がダンクを決めていた。
隣で黄色い歓声が上がって、そこで私は自分が立っている位置に気が付いた。

ああ、そうか。私ってバスケ部でも何でもない一般人だった。
緑間のシュートが好きなただの一般人は、本来ならここにいるのが正しいんだ。

あれ、どうして私って彼らと同じ目線の場所にいれたんだろう。
そうだ、先輩も優しい人たちばっかりだったし、高尾とも友達だったから、
それを通行許可証のようにしてバスケ部だけの空間に無理やり割り込んで行ってたんだ。

ふと、いつかの緑間が言っていた「オレは全てにおいて人事を尽くしている」という言葉が頭を過ぎった。
出来うる人事を全て尽くして、天命を、運命を待つのだと。
そういう、自分とは見ている世界が違うのだと今になって痛感してる。

ううん、最初からずっと世界は違った。緑間だけじゃなくて秀徳のバスケ部とも。
けれど彼らと交流をしていく内にどこかが麻痺していったんだと思う。
部外者である私なんかがあんな凄い人たちの傍で見ていられること自体が有り得なかった。
今、私がこの場所で彼らを見ているのが全ての答えだ。

ギャラリーに囲まれ秀徳のユニフォームを着て、
夜の体育館では意識した事のなかった特殊なラインが引かれた場所で
審判やスコアボードを横目にバスケットボールのゲームをしている姿を見て
私はどうしようもなく気付かされる。こちらが正しい世界なのだということに。
どうしてあんな凄い人たちを邪魔しながらへらへらと見ていられたんだろう。


どこかから声が降ってくる。『身の程知らず』『自己中な女』。
誰でもない、心の奥底に鍵を付けて見ないふりをしていた自分の声だ。
彼らの優しさにつけ込んで、今日までずっと彼らの世界の扉をガンガンと叩いていた自分自身だ。
入れるわけないのに。入る資格など、私には最初から無かったのに。

今までの私はどうしてあんなに簡単に彼らの傍に近寄ることが出来ていたんだろう。
私はこの周りの女子たちと何一つ変わらない立場なのに、何を勘違いしていたんだろう。

今までの記憶がぐらぐらと揺らぎだす。
これが全てなのだと思い込んでいた狭くて凝り固まった箱庭の外は、本当の世界は
どうしようもなく広くて、眩しくて、私の世界が真っ暗になるほど真っ当に生成されていて。
自分は彼らと何の関係もないただのギャラリーの一人でしかないのだと
ただそれだけの当たり前の事実に、心が締め付けられる。


呆然としながら、私がいつも座り込んでいる位置へと何気無しに視線を送ると、
ボードを持ちながら真剣に彼らを見つめる女子マネージャーが凛と立っていた。

それを見た瞬間、全ての止めを刺されたような気がした。


「…っ、」


自分はなんなんだ。あの面子と同じ目線で体育館に居座っていていいのか。
周りの優しさに甘えて、勘違いして、居座って。
自分が緑間を見たいから。それだけの理由で彼らに迷惑をかけ続けていいのか。

本当に好きなら、こうやって試合をしている彼らを遠くから見ているだけで十分じゃないのか。
マネージャーでもない自分は彼らの体調を管理することも補佐することも出来ないのに。
何を勘違いして、あの世界に潜り込んで、あの場所に居座っていたんだろう。

なんで、なんで私は彼らとの世界の違いにショックを受けているんだろう。
彼のバスケを見ているだけで充分だったはずなのに。
その壁は弁えていたはずだった。なのに今はその壁の前で茫然と立ち尽くしている。


秀徳が圧倒した状況で突入したしたインターバル。
緑間の隣で汗を拭いながら、真剣な表情で監督の話を聞いている高尾は
紛れもなく秀徳高校バスケ部のレギュラーで、
その横で水分補給したり汗を拭いているユニフォーム姿の先輩たちはもちろん、
ベンチに座っている選手ですら居残り練習で見た事のある人ばかりだ。

監督の声と共にメンバーがベンチから立ち上がった。
コートへと戻って行くメンバー、その中の緑間が不意に顔を上げて
何かかを探すようにこちらの女子ギャラリーの方を見た。


その瞬間、私は思わず女子のギャラリーの後ろに隠れていた。

思わず、隠れてしまった。
なんでだろう、普通にしていればいいのに。
ううん、違う。隠れた理由は自分が一番よく分かってる。
色んな事に気が付いた今、散々振り回していた相手に合わせる顔なんてない。


再びホイッスルが鳴る。
依然として我が校が圧倒する中、私は心在らずの状態でコートを見下ろしていた。

秀徳の選手が機敏に動き、ボールが回り、視界の隅から緑間がシュートを打つ。
試合で勝つ為に、誰よりも人事を尽くしている緑間のシュートが外れるわけがない。
外れる、わけがない。
何も考えられなくなった私は、目の前で行われていく試合をただぼんやりと見つめていた。


しばらくして、秀徳高校の勝利を告げる笛が鳴った。周りのギャラリーが沸く。

うなだれる相手の選手達と、やりきった表情で胸を張る秀徳のメンバー。
そして選手たちに向かって微笑んでいる、敏腕であろう女子マネージャー。
強豪校のマネージャーとしてあの場所に一人で立つあの人はとても優秀なのだろう。

近付けたのだと思っていた。いや、近付きたかった、近付けるわけがなかった。
最初から自分には踏み入れる権利のない場所だったのだと思い知った。
私は、どうしようもない愚か者だった。

最初から隔たりはあったはずだ。
時を重ねるにつれてそれは透明になっていったけれど、無くなったわけではなかった。
無くなるわけが、なかった。私と彼らの間には初めからずっと絶対的な隔たりが鎮座していたのだ。

自分の小さな世界が崩れていくのを感じながら、私はギャラリーからゆっくりと離れていった。


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