昨日のことが頭から離れない。
あの後どうやって家に戻ったとか、昨夜食べたはずの夕ご飯の内容とか、
彼との邂逅以降の記憶の色んなところに靄がかかっていて
あのスーパープレイだけが鮮明に頭の中でリフレインし続けている。
『ぼーっとしてるけどどうしたの、』って、少なくとも今朝から3人には聞かれた。

せっかく取りに行った課題ノートも結局一度も鞄から取り出されることはなくて、
その存在を思い出したのは、教卓にいる先生が課題の提出を促した時だった。
他の授業の合間に少しずつ手を付けようと開いてみるも、どうしても途中でペンが止まる。
全てが手に付かない。全部昨日のことのせいだ。
あれって夢じゃなかったよね?と促すように思い返しても、
どうにもあの時の記憶が定かじゃない私の脳みそが、夢じゃない?って囁きかける。
もうわけがわからない。頭がぐるぐるしてパンクしそうだ。


放課後になって、私は再び昨日と同じ時間にあの場所に向かっていた。
もしもあれが紛れもない現実でまたあの人がいたとして、
醜態を晒した昨日の今日で、という思いも少なからずあったけれど
あれが夢でなかったと確認したいという気持ちが何よりも強かった。

運動部の生徒ですら殆どが帰宅しているであろう時間、
煌々と光が漏れる体育館の重たい扉に手をかけてそっと覗くと
昨日と全く同じ光景がそこにはあった。

体育館の中で、ボール籠を従えたあの人がぽつんと一人でゴールポストに向かい合っていた。

夢、じゃなかった。昨日と、同じだ。
感動で身体が震える。やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。
興奮でブレる視界を制御しながら目の前の光景を必死に投射する。
彼が昨日のようなスーパープレイ、シュートを放った瞬間、ぶわああ、と一斉に鳥肌が立った。

やっぱり、すごい。彼は、彼のシュートは本当にすごい。

黙々とゴールと向き合う彼からはまっすぐな空気が伝わってくる。
ここに響くのは、シュートを打つ時にバッシュが擦れる音と
ネットがきれいに鳴く音とボールが地面に落ちる音だけで。

上手く言えないけど、なんだかここはとても神聖な場所のような気がした。
バスケ部でもなく関係者でもない私なんぞが踏み入れていい場所ではないのだと、
そういう雰囲気をひしひしと感じ、昨日の自分の醜態を思い出してじわじわと青ざめる。
彼が一本一本シュートを決めるたびに、
さっきまで心を占めていた感動が反省へと反転していく。

本当にみっともないことをしてしまった。
小さく大きなため息を吐きながら一歩後ずさろうとした、ところで
転がっていったボールを拾おうとたまたま屈んだ彼が私に気が付いてしまった。
硬直している私を見て彼は一瞬驚いた顔をした後、ため息を吐いた。


「またお前か」

「わっ!…ごっ、ごめんなさい!」

「何故謝る」


「邪魔をしてごめんなさい!」

「別に邪魔とは言っていないのだよ」

「で、でも、私、昨日も」

「………」


あなたの邪魔をして、と二の句を継ごうとしたけれど
無言でこちらをじっと見つめてくる彼の無感情な視線に、言葉が詰まってしまった。
私の事など何も興味はないと言わんばかりのその無表情さに冷や汗が流れる。

彼は、何も言えずに口をぱくぱくとしている私をしばし見つめたあと
また小さくため息を吐いてから、何事もなかったかのように私に背を向けてしまった。
元々さほども無かったらしいこちらへの興味は完全に尽きたようで、
先ほどまでのように何の乱れもなくシュートをパスパスと決め始めた。
体育館の入り口で固まっている私の事など微塵も意識が無いらしい。

興味が無い、ということをひしひしと感じた。
それは単純に私という人物に対してなのか、この場に人物が存在していることに対してなのか。
もしかしたら、いやもしかしなくてもどっちもかもしれない。

「帰れ」だとか「邪魔だ」だとは言わなかったけれど、
そういった反応を何もされなかった分、どうしたらいいのかが全く分からない。
私自身の心に素直に従うならば、ここに居たい。ここで見ていたい。
それに彼の発言や表情に、嫌悪だとかあからさまな敵意は感じなかった。はず。

このまま見ていても大丈夫なのだろうか。
彼に見つかる直前から回れ右の体制に入っていた右足に、じり、と力が入る。
快い反応は何一つ無かったけど、その真逆の反応でも無かったと思う。
もしかしたら何も言わなくても場を察しろってタイプの人かもしれないけど、
そうだったなら私はまた図々しいことをしているのかもしれないけど、でも、

自分で自分に復唱するようにじわじわと認可し続けて、
何度目かの暗示をかけた頃、ずっと彷徨わせていた視線をまっすぐ彼に見据えた。
図々しいとは思う。でも、私は見たい。

だって――――

リングに吸い込まれるボールに、全身がぞわっと粟立つ。
胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて、頭の中がシュートのことでいっぱいになる。
なんで彼の放つシュートはあんなに美しいんだろう。なんであんなに絶対的なんだろう。
なんで私はこんなにも心を惹かれてしまうんだろう。


今から数時間前のこと。同じクラスにバスケ部員がいた事をふと思い出した私は、
放課後になったと同時に教室から出ていこうとしていた
バスケ部の男子を引き留めて、彼のことを知っているかどうか聞いてみたのだ。

長身で眼鏡でシュートが、と言った時点で皆まで言うなと制された。
「分かる?」と聞くと「分かるも何も俺らの学年の有名人だからなー」と渇いた笑いを零された。
そこでちょうど彼を迎えにきた男子に遮られてしまったので、
どういう風に有名人なのかは聞けなかったけど
男子の言葉から名前を知ることが出来た。どうやらミドリマというらしい。
やっぱり同学年だったんだな。
でも自分のクラス近辺では全く見ないから、クラスは結構離れてるのかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えている間にも私の目の前でスーパープレイが決まっていく。
それにしても、バスケット選手ってみんなあんな事が出来るの?
中学の時にバスケ部の知り合いはいたけど、彼らもこんなにすごいの?
ううんきっと違う、あの人のプレイは普通の人とは違う。

だって私は、こんなにも目を離せない。



「はい、どーも!真ちゃんのファンならオレに顔通して下さー…っと、アレ?」


突然、斜め上から声が振ってきて、思わぬ出来事に体がビクッと跳ねた。
おどけているようでどこか鋭い意志を持った声色が私の耳を貫いた。

けれど何故かこの声には馴染みがあった。
相手もなんだか妙な反応をした気がしたので顔を上げると、
とある見慣れた男子がポカーンとしながらこちらを見下ろしていた。
その顔を見て私もポカーンとしながら互いにじっと見つめ合う。…あれ?

語尾に疑問符を付けながら、ついさっき頭に思い浮かべたばかりのその人物の名を呼ぶと、
その人も同じような語尾を付けながら同じような間抜けな表情をしつつ、私の名を呼んだ。


「びっくりした!高尾じゃん」

「おー、……っぁ゛ー、なんだよお前なのかぁー…」

「何、どしたの?」

「いやね、緑間が変な女子に絡まれたって聞いてさ?
ヤバそうな奴ならオレが追っ払ってやろうかと思ってたんだけど」

「変な女子…、はは、やっぱり練習の邪魔だったよね…」


「んー、緑間は何か言ってた?」

「特に…何も」

「なに、まさか無反応?」

「またお前かって、言われた」

「だけ?」

「邪魔してごめんって言ったら邪魔とは言ってないって言われたけど、でもそれぐらい」

「じゃいいんじゃね?マジで邪魔だったらフツーに追い出すと思うし」

「でも、昨日はすごく迷惑かけたから」

「…何あったか知らねーけど、アイツの反応見る限り気にしてないっぽいけど?
俺は別に黙って見てんなら構わないけどな。先輩とかはわかんねーけど」

「センパイ…、昨日もだったけど、残ってるのって緑間だけなの?」

「んー?昨日と今日は先輩たちいないんだよ。いつもは3年とかもいるよ?
まー、先輩たちにやんわりと追い出されるかもしんねえけど、
ちゃんと弁えるんなら大丈夫っしょ、ま、お前なら大丈夫だと思うけど」

「…じゃあ、ちょっとお言葉に甘えようかな」

「おー、てか緑間のどこが良かったの?
ってあれか、色々反則的だもんなアイツ」


「そうっ、あのね、なんかねすごくて!
すごく綺麗で、もうね本当にびっくりして…!」

「ハハ、マジ乙女顔、なんか琴線に触れちゃった感じ?」

「…感じ?」

「ふーん?つーか高校入ってからちゃんと話すの初めてじゃねオレら」

「そうかもね、高尾のクラス遠いし」

「そんぐらい愛の力で飛び越えて来いよー」

「愛ないから」

「ひっで!相変わらず過ぎんだろお前!」



「…気が散るのだよ!高尾!」

ギャアギャアと騒ぐ私たちの方へ、鋭い声が飛んできた。
練習をする彼からしたら至極もっともな怒声に顔を青ざめていると、
何故か高尾はへらへらと笑って、「ヘーキ、ヘーキ」と小さく呟きながら私の両肩を掴んだ。


「あー、わりぃわりぃー!」

「っ…、あ、あの、」

「あれが本気で邪魔だって思った時の態度な。
でもマジ切れじゃねーから心配しなくてもダイジョーブな。
うっし、ちょっとこっちで話そうぜ」


そのまま扉の外までズルズルと引っ張られていく最中に
練習を続ける彼の方にちらっと視線を送ると、そんなにかよ!と高尾に突っ込まれてしまった。
高尾はひどく愉快そうに私の肩をばしばし叩いた後、
「んなすぐに終わんねーから、緑間の練習は」と物ありげに目を細めた。


こんな騒ぎを物ともせずに黙々と練習を続ける彼を体育館に一人残し、
私は高尾に連れられ体育館の外廊下へとやってきていた。
ボールが床に落ちる音と彼がボールをつく音が少し遠くに聞こえる。

申し訳程度に灯りが点る壊れかけの蛍光灯の下で高尾を見上げた。
ろくに会ってなかったこの何か月の間に、高尾はちょっぴり大人っぽい顔つきになっていた。

そう言えば高尾と最後に話したのは中学の卒業式の時だったな。
あの時は高校でもよろしくー!なんて言ってたけど、
いざ高校入ったらクラスも遠くなっちゃったし
全然よろしくする機会が無かったんだよなー、とか色々と考えていると、

高尾はどこか神妙な顔をしながら体育館の方を指差して、少し小さな声で私に話しかけた。


「な、マジで惚れたの?」

「え?うん、シュートがすごくて…、私、あれと結婚したいかも」

「ブハッ!ストレートすぎねっ?」

「だって、それくらいすごいよ」


「はー…それにしてもお前が緑間狙いとはねー、アイツはかなり難しいと思うぜ?」

「難しい?」

「いやだってさ、…あ、でもあの性格を逆手に取れば結構いけっかもな?
ま、少しくらいならキューピッドしてやってもいいぜ、お前の乙女顔スゲー笑えるし」

「…は、何の話?」

「だ・か・ら!緑間と付き合いたいんだろ?」

「なっ、何で!?」

「何だよその反応、だって今結婚したいって」


「うん?それぐらい好きだよ、あのシュートが」

「シュート?」

「うん」

「……シュート?」

「いえす」


「……もしかして、"緑間"じゃなくて、"あのシュート"に惚れたってこと?」

「最初からそう言ってるけど」

「わっかりにくいんだよ!つか、それってつまり緑間に惚れたって事じゃねえの?」

「えー何それ、違うよ」

「なんでオレの方がおかしいみたいになってんだよっ!普通はそれ込みでだろ!」

「普通って言われても…」


「はぁあ…マジ脱力…、せっかくオレがひと肌脱いでやろうと思ったのに…。
でもま、緑間のバスケがそこまで人を惹きつけるってのは分からなくはないけどな。
実際、スゲーよアイツは」

「そうなの?」

「ああ、……悔しいけど、単純な能力じゃオレは絶対にアイツに追いつけない」

「え、高尾でも?」

「そう、あいつはキセキの世代だから」

「奇跡?」


「…わかんねえか、とにかくスゲェんだよ。
あー、中学バスケで頂点にいた人種って言えば分かりやすいか」

「えっ!そんなすごい人なの!?」

「そ、オレらの世代では間違いなく五本の指に入るプレーヤーで、
シューターとしては実質NO.1」

「うっそ…」


「だから、お前がそういう風になるのもまぁ分からなくはないって話」

「うはぁ…そんなにすごい人なんだ…」

「って今更驚いてんのかよ!?さっきまで結婚したーいとか言ってたのに」

「いや、だってそんなにスゴいプレーヤーだと思わなくて、
…そっか、じゃあ、私がこう感じるのもそこまで特別な感覚じゃないんだね」

「んー?まぁ、そうかもな。
あ、そういや顧問からの連絡アイツに伝えにきたんだわ。ちょっとごめんな」


腑に落ちたように呆ける私に高尾は適当に相槌を打ち、体育館の方へと向かっていった。

そっか。そう感じた自分が特別なわけじゃなかった。
彼があまりにも特別な人間だったんだ。
今まで純粋に感じていたキラキラは論理的に裏付けられるものだったんだ。

視線を前に上げると、少し先に見える体育館の扉で高尾が中に向けて何か喋っている。
高尾が今声をかけている相手を想像して、口から思わずため息が漏れる。
こんなにも目が離せないのはこんなにも心を奪われるのは当たり前の事だったのだ。
日本の高校一年生で一番シュートが上手な人。そりゃすごいに決まってる。

数か月ぶりの旧友から唐突に知らされた納得の回答に衝撃を感じつつ、
私がおかしかったわけじゃないんだと、どこかホッとする自分がいた。


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