「まぁーだ練習してんの、バスケ部は」


明日が提出期限のまっさらな課題ノートを取りに私が学校にやってきたのは
放課後と言うよりは夜と言った方がしっくりくる時間帯。

校内のほとんどの場所は真っ暗で、生徒の影はどこにもない。
今学校にいるのは、夕ご飯の前に慌てて家を飛び出してきたまぬけな私と、
先ほど自分が忘れ物を取りに来たことを告げた職員室にいる何人かの先生と事務員さんだけ。
なのだと思っていたけど、どうやらバスケ部はまだ練習しているらしい。
体育館の方からバスケットボールを跳ね返す音が聞こえてくる。

夜でも煌々と光を放つ体育館に、なんとなくそろそろと近付いていく。
中をそっと覗いてみると広い体育館の中で一人の男子が練習に励んでいた。
こんな時間まで精が出るなぁ、と思いながら感嘆のため息を漏らした。自主練とかなのかな。

私の視線の先の男子は遠目でもわかるくらいの長身で、
体育館の中心で大きく腰を折りながら足元の丸いボールを拾い上げていた。
そういえば同じ学年にあんな感じの子がいた気がするなあ。
学年の集会の時に見た記憶があるようなないような。
多分、同学年だったような気がするんだけど。たぶん。

私が首をかしげている間に、彼は己の手と馴染ませるようにボールをバウンドさせ、
何度目かのバウンドでそのままボールを掌に収めて、キュッとバッシュを鳴らした。
そして直線上にあるゴールを見定めながら、ゆっくりと膝を曲げていく。
ぐっと彼の全身に力が入ったかと思うと、彼の手からはボールが柔らかく放たれていった。

それはごく普通にゴールに向かっていくシュートシーンだと思っていた。
あのネットの内側に入ったり入らなかったりする
そういう何気ないバスケ部員のシュートシーンだと思っていた。
ぼんやりとその光景を眺めていた私は、
そこからのボールの動きに目も思考も心も、全てを奪われていった。


高く高くどこまでも高く、天井に届いてしまうのではないかと思う程に高く、
そして美しい軌道をボールは描いていく。
始めから決まっているレールをなぞるかのように、ゴールラインへと向かっていく。
ボールに込められた力はゆっくりとゆっくりと抜けてゆき、
そしてごく当たり前のようにゴールリングの中心を通る。
ネットと勢いよく擦れた音が、静かな体育館中に響いた。


なに、今の、

役目を終えたボールは
スローモーションのようにゆっくりと回転しながら床に落ちてゆく。

今、わたしの目の前で、なにが起こった?

電流のようなものが一瞬で全身を走り抜ける。
脳天から足の爪の先まで、正体不明の何かが私を貫く。どくどくと何かが巡っていく。

今の、は、何なのか
あんなにも綺麗で、圧倒的で、体が震えるものを、私は、知らない。

彼は足元に転がってきたボールを拾って、再びシュートを打つ体制に入る。
膝を曲げて、ボールを持った腕を少し下げて。
結果は最初から決まっているかのように、動作には何一つの迷いもない。
それらの全ての動きは洗練されていて無駄がなく私はただただ目を離せない。

その手から柔らかく放たれていったボールは先ほどと同じように高く美しい放物線を描き
ゴールネットのみを揺らし、そこに波打ちだけを残して重力のまま地面に落ちた。

今目の前で起きた出来事は白昼夢ではない。たまたま起きた奇跡でもない。
あのシュートは、彼が、あの彼が 意図的 にやっていることだ。

脳がそう認識した瞬間、全身が一気にゾワッと粟立った。



「……すご、…い」


思わず手を叩いていた。確認しなくても分かるくらいに全身に鳥肌が立っていた。
なんなのだろうこれは。今自分の前で起こっている現象は。
なんなんだろう。わからない。すごい、すごいよ。

沸き起こった拙い拍手に気付いたその人は
一体何事かと思い振り返り、呆けた表情で手を叩く私を視野に入れた。
しばしその状態で固まった後、酷く困惑した様子で声を絞り出した。


「…誰なのだよ」

「…え……あ、 ご、めんなさ…!邪魔をするつも…じゃ」

「何か用か」


緊張感の糸がプツリと切れたらしいその人は、ゆっくりと私の方に近付いてくる。
ゆっくりとゆっくりと近付いてくる。まるで先ほどのスローモーションのように。

その人は想像していた以上に背が高くて、近付くにつれて見上げる首に負荷がかかっていく。
彼が天井からの光を遮り、私に影が落ちる。近付いてくる彼を私はただただ見上げる。

私の両目と彼の両目が合った瞬間、
自分の中の何かが弾け、堰を切ったように目から何かが溢れ出した。
ぽろぽろと何かが零れ落ちる。急に悪くなった視界の中で、
目の前にいる人ともう一度視線を合わせようとする、
けれど視界がぼやけて視線がぶれる。目線が彷徨って彼を捕えられない。
唇が、身体が震える。

ぼやけた世界の中で自分を叱咤し、もう一度その人の目を見据える。
眼鏡の奥に見える瞳はただ困惑の色を見せていた。そう、彼はとても困っていた。


「天上人 かと、思った」

「…頭は大丈夫か」

「すごい、なに、あのシュート、綺麗で、 も、私びっくりして、」

「…わかったから、落ち着け」

「なんか、鳥肌立って、あ、れ なんで涙でて、すご、ほんとに」

「もういい、わかった、わかったのだよ」


何で泣いているんだろう。わからない。ただ、胸の奥が熱くて苦しい。
小さく頭を振ると、床に涙がぱたぱたと零れた。何で涙が出るんだろう。

さっきまで、美しいフォームで見たこともないシュートを打っていた人が
今私の目の前でひどく困っている、私がひどく困らせている。
違う、困らせたいわけじゃないのに、自分が伝えたいことを上手く伝えられない。

あなたの先ほどのプレイにどうしようもないほど心を奪われてしまったと、
伝えたいのに、声が上手に出てこない、しゃっくりを上げてしまう。
どうして自分は泣いているのか、わからない。
すごかった。それだけなのに、その単純さが自分の理解を超えてる。


己の目の前で賛美の言葉をぽつぽつと紡ぎながら涙を流す女に彼は酷く狼狽していた。
何がどうなってこうなったのか自分は今どうしたらいいのか、
お互いにわからなかったけれど彼は特に混乱していた。
当たり前だ、きっと彼はごく普通に練習をしていただけなのだ。

彼は眉間に皺を寄せながら誰かに助けを求めるように周りを見渡したけれど、
今この体育館にいるのは私と彼だけで。

ひっく、と情けなくも私が何度目かのしゃっくりを上げたところで、
彼はヤケクソのように言い放った。


「…っ、オレにどうしろと言うのだ…」


混乱した彼に、落ち着け、と言わんばかりに強引に身体を引き寄せられた。

その勢いで涙が床に飛ぶ。
少し体温の高いその大きな胸の中で、何を感じたか、何を考えていたか、覚えていない。
記憶に残っているのは、一歩近付いた彼のバッシュが
私の足元で光るいびつな水玉をかき消したことだけだった。


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