例えるならば、たった一寸先すらも確認できないような
底の知れない暗闇へと投げられたかのようで。

暗黒がどろりどろりと自分のまわりを包み込んでいる。
逃れようと闇雲に手を動かしてみても、
意志を持ったかのような空気が腕にねっとりと纏わりつくだけで、
そしてその纏わりついた空気がじわじわと自分を侵食していくようで。

呼吸が出来ないわけではないのに、息を吸うたび何故か苦しくなって息が詰まる。
自分の息遣いが暗闇に呑まれて、消える。


どこもかしこも闇に支配された空間で、
今、本当にこの場所に自分がいるのかさえ不安になった。

ひとつの言葉がぐるぐると頭を巡る。

こわい、


---

闇に呑まれる。
声にならない悲鳴を上げながら、私は瞼を上げていた。

私は自分の部屋にいた。数時間前と何も変わらない、何の変哲もない自分の部屋にいた。
意識が朦朧とする中、ぼんやりと部屋を見渡すと
壁に掛かっている時計の長針と短針は英数字のLを指していた。


「…………、」


私は枕元の携帯に手を伸ばし、アドレス帳を無意識に開いた。
そしてある人物の名前まで無意識に指を滑らせて、発信ボタンを無意識の内に押した。

ぎゅう、と携帯電話を握りしめながら耳に押し付ける。プルルル、と音が鳴りだす。
その音が四回ほど鳴ったところで、ふいにコールが途切れた。
途切れたと同時に私は携帯をさらにぎゅっと握り、助けを求めるように声を上げた。


「なる、ほど くん」

『…毎度毎度、君は今何時だと思ってるのかな』


「夢、すごい、すごく怖い夢、見て」

『…うん? うん、』

「あの、見て、……見て、」

『うん』


「………、……?」

『…うん、それで?』


「……なるほどくん」

『何?』

「…が、どうして喋ってるの?」

『……君がぼくの番号に掛けたからかな』


「あれっ?私、電話した?」

『君って本当にこの時間帯に電話襲撃するのが好きだよね』

「あ、いや、したから
今こうしてなるほどくんと喋ってるんだから、したんだよね、
うん、電話したんだ、…したんだよね?」

『頼むから早く起きてくれないかな…』


段々と目が冴えてきて徐々に意識がはっきりしてきた頃、
先ほどまで見ていた夢がぶわっとフラッシュバックした。

そうだ、私は妙な夢を見て、それですごく怖いと思ったんだ。
でもそこでどうしてなるほどくんに電話をかけたんだろう。
自分でもよく分からない。なるほどくんはもっと分からないに違いない。


「…あの、こわい夢を、見て」

『夢の内容を話したらちょっとは楽になるんじゃない?』

「えっと、…こわい夢、で…」

『…それ以外の情報は無いのかな』

「イヤな…感じの…」

『…うん、全く分からないけど十分伝わったよ』


ほんの少し前まで見ていたはずなのに、
恐怖感は伝えられるのに、内容を言葉に出来ない。
思い出そうとすると、夢の状況がしゅるしゅると頭の中から消えていく。
残っているのは、不可思議で不可解で絶対的な恐怖感だけだ。


「…はぁ、もう今日は眠れそうにないや」

『ふあぁ…、そうだろうね』

「あ…、なるほどくん、ごめん!
もう切るから、ごめんね、こんな時間に」

『いや、今のあくびは切れって意味じゃないけど』

「ううん、切る、ごめんね」

『おい、』

「本当にごめんね、また今度事務所に遊びに…」


『こら、切るなって言ってるのがわからないのか』

「だって私はともかく、なるほどくんは寝た方が」

『まあ眠いは眠いけど…、朝日が昇るまでなら付き合ってあげてもいいよ』


え、と間抜けな声を上げると、そっちから掛けておいてぼくじゃ力不足ってことかい?と
怪訝そうな声が返って来たので、慌ててその言葉を否定した。

いいの?と聞くと、ダメならそのまま切らせてるよ、とそっけなく言葉が返ってきた。


「…でも電話代は…」

『君持ちだね』


「……うーん」

『切るね』

「ごめんなさいごめんなさい!
このままで!このままでお願いします!」


掛けてきたのは君なんだから当たり前だろ、なんて悪態を吐いたのはこの時だけで
数分もすれば、こっちから掛けなおすから一度切るよ、と何気なく言われた。

通話が途切れた携帯電話を耳から離して、
画面を見つめながらなるほどくんからの着信を待つ。
ふと、先ほどまで纏わりついていたはずの恐怖感がどこかへと消え去っている事に気付いた。

その事実にきょとんとしていると、手のひらの中の携帯が震えだした。
【成歩堂龍一】の文字が画面に現れ、私はその名前をじっと見つめる。
きっと私は、無意識の内に助けてくれる相手を、なるほどくんを選んでいたんだ。

携帯をぎゅっと握りしめる。この気持ちをなんと言ったらいいのか分からない。
とりあえず分かるのは私はとても現金な人間で、
なるほどくんはとてもお人好しだと言う事だ。

私は手元の画面に映る【着信 成歩堂龍一】の文字を見つめながら、
ありがとう、なるほどくん。と唇を小さく動かした。


そうして闇の底から助けてくれた救世主は、
通話が始まったと同時に大きなあくびを私に届けて、「眠いね」と笑った。


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