「…その、気持ちよさそうに眠っているところを悪いのだが、
そこは君の家のベッドではなくて私の執務室のソファなのだが」


閉じた瞼越しに感じていた天井からの光が突如ぷつりと途絶えたと思いきや、
困った子供を宥めるような御剣さんの声が頭上から降ってきた。

上級検事執務室のふかふかな高級ソファで幾度目かのノンレム睡眠に入りかけていた私は、
その声を受けて、無意識に眉を歪めながら
もうしばらくは開ける予定の無かった瞼をうっすらと上げた。


今日は御剣さんが美味しい紅茶をご馳走してくれると言うので、
なるほどくんと共に、検事局にある御剣さんの執務室へ遊びに来ていた。

最近は大きな事件が無いのでこの程度の余裕ならあるのだ、と言いながらも
一杯目の紅茶を飲んだ後はずっと机に噛り付いてデスクワークをこなす御剣さんを
なるほどくんはどこか遠い目をしながら見つめ、
「追われるほど仕事があるのは羨ましい事だけど、
ここまで来るとさすがにな…ぼくは今ぐらいの量で丁度いいよ」としみじみ呟き、
その呟きを聞いた御剣さんは書類に視線を落としながら
「そんな状態でよく事務所を維持出来ているな」と冷静にコメントを述べ、
なるほどくんは「うるさいな」と眉を顰めながら紅茶をすすった。


そんないつも通りの二人の会話を聞き流しつつ
私が三杯目の紅茶を飲み終えようとした頃、突然なるほどくんの携帯が鳴った。
けたたましく鳴るトノサマンのテーマを引きつれて慌てて廊下に出て行ったなるほどくんは
しばらくしてから部屋に戻って来て、大きなため息を吐いた。

この間の依頼人とこれから会う事になったよ、本当は明日の予定だったんだけど、と
参ったように肩をすくめてから、慌ただしく帰り支度を始めた。
それなら私も一緒に帰らなければ、と立ち上がろうとしたところ
なるほどくんに「君はまだゆっくりしてなよ」と軽く制され、
書類をめくる御剣さんにも「君はまだゆっくりしているといい」と滞在を促されてしまった。


そんな二人の気遣いの結果、私だけがここに残ることになった。
けれどもなるほどくんが出ていって数分、
私が紅茶にレモンを浮かべて遊んでいたわずかな無言の時間の間に
御剣さんは完全にお仕事スイッチが入ってしまったらしく、
黙々とモリモリと仕事をこなし始めてしまったのだ。

ゆっくりと言ってくれたけれど、この状況でどうゆっくり過ごしていいものか。
御剣さんもお仕事モードだしそろそろ帰った方がいいのかな。
でもこの程度の時間で帰るなんて言ったら、
暗に居心地が悪いから帰ると宣言しているようなものだしな。
かといって長居するのも、長居、長居ってどれぐらいから長居になるんだろうか。
それすらも分からなかった私はそれからしばらくの間、
書類と書類が擦れる微かな音とそこに書き込まれていく文字の音をバックミュージックに
紅茶の底に沈んだ薄切りのレモンをスプーンでくるくると回していた。

けれどやっぱり帰るタイミングは掴めなくて、
無意味に御剣さんに話しかけることも出来なくて
もう仕方がないのでいっそのこと彼の仕事に区切りがつくまで根気よく待っていようと、
それまでソファで本でも読んでいようと、そう思って。
そう、そう思っていたんだけど。

どうやら私はふっかふかな超高級ソファの、
全てを包み込むような眠りの誘惑に負けてしまったらしい。
人様の厳格な仕事場で眠りこけるなんて、普通ならどう考えてもあり得ないことなのに。
いや、このソファが、まるで高級ホテルのベッドのような素晴らしき反発力で
私を誘うこのソファが卑怯なんだ。
うっとりするような触り心地に吸い込まれるような座り心地、そして抜群の寝心地。



「……ん」


うっすらと瞼を上げると、靄がかかった世界の中でぼんやりと映る御剣さんがいた。

彼の背後は、先ほどまで外からの光が差し込んでいた
窓ガラスが分厚い重厚なカーテンで覆われていた。
いつの間にか部屋の明かりもしっかりと灯っている。どうやら時刻は夜のようだ。

状況をぼんやりと認識しながら、彼の視線と交わらせる。
けれど、その目にこの目を合わせたのはほんの数秒のことで
瞬きをするように瞼を下ろした私はそのままソファの背もたれへと顔を埋めた。

まだ、ねむい。

そう思いながら、もぞもぞと体を丸めると困惑を告げる小さな息遣いが右耳に届いた。
(あ、御剣さんを困らせてる) と頭のどこかで声がする。
何かしゃべらなきゃと、ブラックアウトしたままの思考を
遠目に見つめながら、どうにか口を開いた。


「分かって…ま…、けど…」

「分かっているのなら起きてもらえないだろうか、…そろそろ帰る時間なのだが」

「、……ぁ、い」


まだ眠ったままの体に鞭を打って、ソファに体重をかけながらどうにかして上体を起こすと
御剣さんは私のいるソファの前で膝を折って、
困ったような表情をしながらこちらの様子を窺っていた。

開いてるのか開いてないのかわからないような、
極限まで細くなった私の目から発せられる虚ろな視線に気付かないまま、
御剣さんは、何かが落ちているのかソファの下のとある一点を見つめて
「やけに大人しく本を読んでいると思っていたら寝ていたのか」と
納得したように笑っていた。

ゆらゆらと揺れる身体を制御しながら、虚ろな視界で彼の背中をぼんやりと捉える。
私が床に落としていた本を拾おうとして体を屈めている、大きくてたくましいその背中。

御剣さんの大きな背中ってなんだかとても安心する。
「何があっても私に任せるのだ」とでも言うような。そんな、男の人の背中。


「………ん、」

「そう言えば、先ほど成歩堂から――――、」


吸い込まれるように、ゆっくりとその背中に顔を預けると
何かを話し始めようとしていた御剣さんの声がピタリと止まった。

一瞬で強張ったその身体を頬で感じていると、
御剣さんは一呼吸を置いた後、困り果てたような声色で私に語りかけた。


「…寝ぼけて、いるのか」

「……」


「3×1は」

「……うぁーぅ…」

「………」


頭の中では「さん」と完璧に答えたつもりだったけど、どうやら上手く行かなかったらしい。
少し間があった後に御剣さんが苦笑いをしたのがわかった。
参ったな。今の息遣いはきっとそんな感じ。

御剣さんと触れ合っている場所からスーツ越しに体温が伝わってくる。
その温かさに、知らない間に凝り固まっていた自分の中の何かがゆるゆると溶けていく。
人の体温って、こんなにも安心するんだ。

彼自身からほのかに香る匂いが、私の周りをふわふわと包み込んでいく。
御剣さんの匂いって、この部屋に漂う洗練された上品な香りだと思ってたけど
そうじゃなくて、こっちの方が本当の御剣さんの匂いだったんだ。
今までどこかで何度も嗅いだことのあった 何故か心惹かれる、この落ち着く香りが。

そして何気なく御剣さんが呼吸をするたびに、私も一緒に大きくゆっくりと動く。
その呼吸はゆっくりと深くて、その動作が揺りかごのようでまた心地いい。

御剣さんの体温が、匂いが、動きが、このまま眠っていいんだって私に囁いてる。
彼は全くそんなつもりはないのに、彼の全てが私を寝かしつけようとしている。

少しずつ少しずつ意識が遠くなってきたところで、
寝かしつけてくれていた本体が「ここで寝てしまうのか?」と声をかけてきた。


「…このまま置いていくのは私としても不本意なのだが」

「……や、」

「…嫌ならば起きたまえ」

「…、ん」


「君は、寝ぼけるといつもこうなのだろうか」

「………、…」


「…参ったな」


普通なら会話を交わすほど覚醒へと近づくはずなのに、
どうにも覚める気配はなくて、現実への扉がどんどん遠ざっていく。
私を支える御剣さんの温もりが存在が眠りの扉へと誘導する。

うとうとして気持ち良くて、御剣さんの背中はぽかぽかと温かくて
まどろんでいる私に対する御剣さんの声はいつも以上に優しくて。
そうだ、出張ミツルギ背中まくらとかやったらすごく繁盛するんじゃないのかな。
だけど今以上に引っ張りだこになったら大変だよね。
たこ、そういえば凧上げってもう随分とやってないなあ。

微かに動く頭で、よく分からないことをふわふわと考えながら
さらに彼に体重を預けると、御剣さんは観念したように優しいため息を吐いた。


諦めたように腕時計を見下ろしながら「…10分、だ」とその優しい人は言った。

思考の明度が下がって行き、隣にいる何かが誰かであるかもあやふやになってきた中、
たった今自分に向けられた言葉、意味はよく分からなかったけども
その音声が、まるで敵意の無いとても優しい声色であったことを感じた私は、
どこか幸せそうな、腑抜けた表情をしながら、その人の大きな背中に小さく頬を擦り寄せた。


「…!?」


まどろみの中で

そして再び彼の体が硬直するのも気付かぬまま、私は眠りの世界へと落ちていった。