「信楽さん、だるいです」

「…思ってても口に出すのやめようよ」


オジサンまでやる気がなくなっちゃうじゃない、とため息を吐きながら彼は呟いた。

既に窓の外は真っ暗で、これは所謂、いわゆらなくてもこれは残業である。
けれど我々は一般的な残業風景とはかけ離れた光景の中で黙々と作業をしている。
ファイルと書類が床という床に散乱しており、片付けても片付けても一向に底が見えない。

テレビで流れていた一昔前の音楽を懐かしんでひとりダンスパーティーをしていた信楽さんが
テンションが高ぶったのか突然ファイル棚に盛大なターン、という名のタックルをかまして
最近の書類から開設当時の年代物の書類まで、
それはもう見事なまでにぶちまけてくれたのだから、簡単に終わるわけがない。


「どうしてあそこでいきなり回転したんですか」

「…なんかね、テンションあがっちゃって」

「大事な書類の棚だってのは信楽さんが一番よく知ってるでしょうに…、
もういい歳なんですから落ち着いて下さい」

「いい歳のはずなんだけどね…、なんかねオジサン、テンションあがっちゃって…」

「同じこと2回言わなくても大丈夫です」

「な、なんか、今日ちょっとコワくない?こういう時こそ笑顔だよ」

「笑顔で書類が片付くなら、とっくに微笑んでますよ」

「オ、オジサン、こっちの書類を片付けるね…」


この大量の書類を整理し始めてどれくらい経つんだろう。

床に体育座りをして、書類を一つ一つ確認しながら
いつになったら終わるんですかね、とため息混じりにぽつり呟くと
私の後ろの壁に寄りかかりながら、書類とファイルを確認している信楽さんは
きょ、今日中には終わる…んじゃないかな?
お、終わるといいね?と自信の無さそうな声色で返した。
ため息を吐きながら、手元の書類の日付を確認していると
ねえねえ、と声を上げた信楽さんが、書類の山を器用に掻き分けてこちらに近づいてきた。


「じゃんけんしようよ」


私の方に身を乗り出して、握り拳を差し出しながらにこにこと笑う彼と見つめ合う。
普段からこの人は突拍子もないことを言い出すけど、今のこれはここ最近で一番の なさ だ。
ここでじゃんけんをする意味があるのか。
というかもう片方の手に握られている書類を早く片付けて欲しい。
この残業代を私に支払うのは他の誰でもないあなただというのに、
こんなのんきに時間を浪費していいのか。

無意識に眉間の間に皺を刻んでいると、女の子はそんなコワい顔しないの、と窘められた。


「…じゃんけんですか」

「そう、じゃんけん!
勝った方は30分休憩、負けた方はお茶を入れて一緒に休憩!なーんて…」

「勝った方は帰宅、負けた方は作業続行ならその勝負を受けます。
ちなみに私はパーを出すので信楽さんはグーを出して下さい。じゃあ行きますよ」

「えっ!?ちょっ、ちょ!ちょっと!タンマ!」

「…なんですか、早く構えていただけませんか所長。グーですよ、グー」

「こーゆー時だけ所長って呼ぶの卑怯だよ…、
普段呼ばれないからちょっと揺らいじゃうじゃない…」

「この要求を呑めないのなら、さっさと手を動かして早く片付けてください所長」

「はい…、所長片付けます…」

「古いのは私では片付けられないので」

「ああそうだね、ごめん。そっちの方をやるよ」

「はい、お願いします」


その後も信楽さんが茶々を入れてそれを私が制して、を繰り返しながらも作業を続け
さらに休憩という名の妨害が何度も入った結果、
彼自身が予想していた終了時刻も大幅にオーバーし、
日付が変わってしばらく経った頃ようやくわたし達はファイリング地獄から解放された。

今日一日だけで一年、いや数年分の紙媒体に触れた気がする。
よくも二人だけであの量を捌けたものだ。
一体何冊のファイルがあり一体何時間かかったのか、もはや数字に出す気にもなれない。

事務所の鍵を閉める信楽さんの背中を視界に入れながら、ふう、とため息を吐くと
鍵を閉め終えた信楽さんが申し訳なさそうに振り返り、ごめんねと眉を下げた。


「明日はちょっと遅れて来ていいからね」

「いえ、大丈夫です」

「なっ…!上司からの遅刻の許可を蹴るとは社会人とは思えないよ、君!」

「帰ってすぐに寝れば大丈夫です」

「でもホラ、女の人は睡眠時間が短いとお肌の調子が――」

「お疲れ様でした」


やいやい言っている信楽さんに背を向けて歩き出すと、
聞きなれた足音が後ろからついてきた。
振り返ると、予想通り信楽さんが私の後ろから歩いてついて来ていた。

もしかして何か大切な言伝があったのだろうか、
いつも通りの戯言だと思って断ち切ってしまった。
まだ何か用事がありましたか?と言うと、んーん?と言って微笑まれた。


「この方向に何か用事でも」

「用事と言えば用事かな、こんな時間に女の子を一人で歩かせられないからね」

「いえ、そういうのではなく」

「いや、それだけだよ」

「…それならお気遣いだけで十分です。今日もお疲れ様でした、では」

「え、ちょっ…、待ってってば!」


「着いて来なくて大丈夫ですよ。私は歩きですし、すぐですし」

「歩きだから余計危ないのー、すぐでも駄目なのー、変な男の人に声かけられちゃうよー」

「私の後ろを歩いている、スーツの男性とかにですか」

「エッ!後ろ? ってそれぼくだよぼく!」

「というか、信楽さんのお家って反対方向ですよね?」

「そんな事気にしないの、女の子ならホラ黙って送られる!」



「はぁ…、私なら本当に大丈夫で…」

「――そんな過信はするものじゃないよ」

「……、ですが」

「君にそういう被害に遭ってほしくない、ぼく自身も嫌だ」

「………」

「女性を送るのは男の役目だろう。
それにこんな深夜なら尚更放っておけないし、放っておきたくない。
頼りないかもしれないけれど、ぼくに男としての役目を全うさせてもらえないかな?」

「…そ、こまで言うなら、お願いします」

「うん、いい子だね、じゃあ帰ろうか」


ほんの一瞬纏わせた、凛とした男の顔はしゅるりと解かれ
先ほどまでの真剣な顔は目はどこかに鳴りを潜め、
いつもの飄々とした信楽さんが私の横でいつものようににこにこと笑う。

たまにこの人がわからなくなる。
子供のようでどこまでも大人で、軽薄なようで誰よりも物事を考えている。
きっと私が見たもの全てが彼なんだろうけれど、
けれど、見たもの全てを単純に足し算する事は私にはまだ難しい。


そんな事を考えながら隣をちらりと見上げると、やさしい視線が降りてくる。

先ほどの話題を何となく拾って、男の人って大変ですね、と声を紡ぐと
んー、だとか あー、だとかよくわからない音声が彼の口からこぼれた。


「まー、オジサンも一応、君が危惧するような事を内内に孕んでる普通の男なんだけどね、
ま!今夜は君を守るナイトとして徹するつもりではいるけど!」

「………」

「ちょ、ちょちょちょ!なんで110押してるの!あああ発信しちゃダメ!ダメだから!」

「身の危険を感じたので」

「だーからー、今日はオジサンがナイトだって言ってるじゃない!
きっと今110をかけてもやってくるのはオジサンだよ」

「ああ、じゃあ試してみますね」

「ちょっ!イ、イタズラ電話はダメだよ!ホラ携帯しまって!
全くもー冗談通じないなあ!オジサンったらヒヤヒヤ!」

「信楽さんが冗談に満ち溢れすぎてるんです、感心して損しました」

「それはホラ、アレだよアレ。…ん?感心ってどゆこと?」

「あ、もう着きましたね。今日はありがとうございました」

「え、もう?、ってあらホント…残念」


「信楽さんも気をつけて帰って下さいね、お疲れ様でした」

「うん、お疲れ。今日は本当にありがとね」


いえ、と頭を下げた瞬間、おでこに何かが ちゅっと当たった。

ちゅ? 今なにか妙な感触が、と思いながらおでこに手を当てつつ頭を上げると、
それと共に信楽さんの顔が私の頭部付近から離れていった。

ん?なんで信楽さんの顔がこんな所に? 
目の前でにこにこと微笑む信楽さんと2、3秒見つめ合い、そして私は唐突に理解する。


「信楽さん、いまなにを」

「んー?なんでしょう」

「……、」


これはセクハラとパワハラのどちらに該当するのだろう、と思いながら
右手を自分のポケットに突っ込んで携帯電話を探す、けれど見当たらない。
あれ?と思ってごそごそしていると、頭上から「ここだよ」と声をかけられた。

その声に反応して顔を上げると、嬉しそうに笑う信楽さんの右手のひらに私の携帯電話が収まっていた。


「…いつの間に」

「だってしようとするでしょ…、ひゃくとーばん」

「されるようなことをする信楽さんが悪いです」

「そうかな?」

「ナイトはどこに行ったんですか」

「お姫様のおうちに着いた途端、ナイトはオオカミになってしまいました」


ちゃんちゃん、と言いながら笑う信楽さんに何と返したらいいのかわからず、
とりあえずその右手から携帯を奪い返して、
送っていただいてありがとうございましたと頭を下げた。

不満そうに口を尖らせながら、反応無いって結構切ないんだけどな、と信楽さんは呟いた。


「今日は本当にお疲れ様でした」

「ん、ああそうだね、明日は一時間遅れて来るんだよ」

「だからそれは、」

「今日はすまなかったね、ゆっくり休みなさい」


ふいに大人の表情になり、穏やかにそして有無を言わせぬ口調で信楽さんは私にそう言った。
やんわりと上司から圧力をかけられた私はこくんと頷くしかなかった。


また明日ね、と微笑んで帰っていく信楽さんの後ろ姿を薄目で見つめながら
私は今日何度目かのため息を吐いた。

子供のようでどこまでも大人で、軽薄なようで誰よりも物事を考えている。
一体何度私の心をわしづかみにすれば気が済むのだろう、彼は。

自宅の扉にもたれかかり、おでこに手を当てながらそのままずるずると座り込んだ。
日々、一緒に仕事を出来るだけで十分なのに
こういう風に不意打ちをされるたび、色んなものが揺らいでしまう。

表ばかり見せておいて不意打ちで裏を匂わせ、上司のようでどこまでも異性だ。
わかりやすいようで何もかもわからない、飄々とした表情で私の心を弄ぶ。


「ああ、もう…」


卑怯だなあ、本当に

日々、無反応を取り繕うばかりの私はもうとっくの昔に堕ちている。


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