なんとなく気晴らしをしたくなったわたしは、ある日旅に出た。

旅といっても、鈍行列車で少し遠くまで行って景色を眺めにいく程度のものだ。
少し遠くといっても、同じ線路をずうっと辿っていけば街に帰れる程度の距離だ。
そしてなんとなくといっても、この間テレビでやっていた
鉄道だか駅だかの旅に完全に触発されたように思う。


そんななんちゃってトラベルに出たわたしが鈍行に揺られること小一時間。

待合室もなく、人が乗り降りする最低限の長さしかなく、
そしてその肝心の乗り降りする人間はほとんどいないに違いない
山間部などを電車で通過する時にたまに見かける、
人の気配のしない域に何故か申し訳程度に作ってある駅。

まさしくそんな駅にわたしは今降り立っている。
こういうところを秘境駅と言うのだろうなと思いながら、
国鉄時代から使われているらしいボロボロの駅名標をしばし見つめ
野ざらしにされているベンチといってももはやただの材木に成り果てているけども
そんな元ベンチに腰をかけて一息ついた。空気が澄んでいてとても気持ちが良い。

時刻を見ようと携帯を取り出すと、かろうじて立っている1本のアンテナに気が付いた。
てっきり圏外だと思っていたのに頑張ってくれてる健気なケータイに感動を覚えつつ、
周りをちらりと見渡してから、先ほど受信していたメールに返事を返し携帯を閉じた。


そういえば、先ほど乗っていた電車の車掌さんに
本当にこんな場所で降りるのかと何度も何度も聞かれたなあ。

乗っている人が少なかったからかもしれないけれど、
降りる時にやけに言葉を交わした気がする。
言葉を交わしたというか、軽く尋問に近いものをされた気がする。
それは鉄道や写真が好きなの?という質問に首を振ってから熱が入ったように思う。

なんにもないし見る場所も行ける所もないよ、
本当にこんな場所で降りるの?と最後に念を押され、
それに対してコクンと頷いたわたしは無事に鈍行電車から降りることを許され、
そして今、このなんにも無い場所に居るのである。


降りる前からそれについてはなんとなく感じていたし、
車掌さんにも何度も言われたことだったけど、この場所には本当に何も無い。

とにかく山に囲まれているけどこの辺りから山道に繋がっていたり、
どこかのハイキングコースがあるようにも思えないし、他に大きな道もない。
ここ以外の例えどんな場所に行くにしても周りの山を越えていくしかなさそうだ。

多分わたしが逆の立場でも詰問したと思う。どうしてこんな場所で降りるのか、と
でもまあもうなんとなく降りてしまったので、それはもう仕方がないことである。


無いと言ってももちろん在るといえばあるけれど、何故か何も無いのだ。
ここにはいつかの人為を感じさせる古ぼけた駅と
切り開かれていない自然しか存在していない。

その二極が長い長い時間をかけて混ざり合って、
在るのに無い、そんな世界を作り上げている。

この世界を自然という言葉で片付けるには何かが決定的に欠けているし、
それじゃあ、と足し算で駅をくっ付けたとしてもそれも何か違うように思う。

視界で確認できるのは手入れのされていない大自然と朽ちかけた駅。
そして言葉では表現し難い何かが混じり合って、この空間はできている。


駅から少し離れた場所に見えるのは、誰かが通っていた道だろうか。
草の生い茂る緑色の間に、か細い土色の痕跡が辛うじて確認出来る。
どこからか続いているけども、どこに続いているかはよくわからない。
その道の傍にはこの辺りに人が居たことを示す痕跡がいくつかあった。

小さな民家だったのか山の所有者か誰かの物置だったのか、
判別はし辛いもののどちらかと言えば家、だったようなものが見えるけれど
屋根も壁もボロボロで、家にしろ物置にしろもはや何一つ機能をこなせるようには見えない。
何か大きな衝撃を与えたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだ。

その廃屋の横には雨風にさらされ続け、錆び付いた古い型の車が放置されている。
今ではもう見かけることが出来ないであろう車の形状が時代を感じさせる。
主を失った半円がどことなく寂しそうに土に沈んでいる。
とうの昔に走れなくなったのだろう、もはや車ではなく解体を待つ大きな鉄の塊だ。

そしてその廃車の横には小さな犬小屋のようなものが見える。
きっとこの家では犬を飼っていたのだろう。
けれどこの犬小屋も例外なく塗装と木がボロボロで朽ち果ててしまっている。
この光景を見ていると、なんとも言えない寂しい気持ちになってくる。

きっとこの辺りにはこの駅と共に生活していた人達がいた、のだろう。
それ以外には人を存在を感じさせるものはもう見当たらない。



風に揺られながらぼんやりと色々なことを考えていると、どうやら電車がやってきたらしい。

遠くの線路上に見える電車の顔から見るに、
わたしが乗ってきたのと同じ系統の列車のようだ。
こういうところの普通列車は一時間に一本だとかそんなイメージがあるなあ、と
携帯電話を見ると、先ほど時間を確認してからぴったり一時間が経過していた。

そんなに経っていたのか、こういう場所にいると時間の感覚がわからなくなる。
一時間、気付いたら経ってたけどこういう時間の過ごし方って悪くないな。
きっと今の現代人に必要なものってこういう時間なんじゃなかろうか。


うんうんと頷いていると、たった今わたしの視界の端で
この駅に停車した普通列車から人が降りてくるのが見えた。

珍しいな、人のこと言えないけどこんな所に何か用事でもあるのだろうか、
あの人もきっと詰問をくらったんだろうなあ、と
何気なしに視線を送って、 わたしは目を見開いた。


降りてきたのはわたしの知っている、赤いスーツに白いヒラヒラの男前だった。

何が起こったのか理解できなくて目をまん丸にしてその人物を見ていると、
その人はやれやれ、といった表情でこちらに向かってきた。
う、動いている、近づいてくる、これってど、どういうことだ。


とりあえずこの山の中では、あの高貴そうなお召し物はとても浮いている。
そして彼がわたしの知っている人物ドンぴしゃりならばその存在からしてこの場で浮いている。
きっと原始人と現代人が出会ったらこんな衝撃なんだろうなあと
ぼんやりと古代に想いを馳せ始めたわたしは大混乱の真っ最中だ。

口をパクパクさせながら、御剣さんですか?と蚊の鳴くような声で話しかけると、
それ以外に誰がいるのだ、と難しそうな顔をされてしまった。どうしよう、これ本物だ。


「…な、なんでこんなところにいるんですか?」

「その台詞はそっくり、君に返そう」

「えっ、わたしは…ぶらり旅のようなものをしてる最中ですが」

「そうか」


「御剣さんはどうしてこんな場所に?」

「…君が、この駅に居ると言ったからだ」

「わたしが?」

「そうだ」


「……わたしが?」

「?そうだ、先ほどメールでそう返してきたのは君だろう?」

「あれは、御剣さんが 今どこにいる?って聞いてきたから」

「そうしたらここだと言われたから、来たのだが」


「えっ、だって あれは…
…ま、まさか、あれはわたしに用事があって
わたしがこの駅にいると言ったから御剣さんはわざわざ…?」

「そういうことになるだろうか」

「すっ!すみません!!そういう意味だとは思わなくて!」

「いや、君に用事があった私が勝手に来ただけだ」


聞いたことのない駅名だったので調べてやってきたのだが、と
わたしが先ほど見つめていた駅名標を、腰を折って興味深そうに見つめている。
まさかあれがそういうメールで、そしてそれだけのやりとりでこんな所まで来てしまうとは。
あの時安易に返した自分の考えのなさを嘆き、この人の行動力のすごさにただただ驚く。

相当年季が入っているな、と呟きながら
塗装の剥がれた部分を触りながら興味深そうに頷いていた彼は
ふいに急に動きを止め、私の方に振り向いたかと思うと酷く申し訳なさそうに声を発した。

「いきなり来て、悪かっただろうか」

「いえ、そんな!完全にこちらの言葉足らずが悪かったと言いますか、
御剣さんにこんな所にまでご足労をおかけして申し訳ない気持ちで一杯というか!」


「いや、私の方こそ君の都合を考えずに来てしまって申し訳ない」

「いえ、元々目的も何もない旅ですから気にしないで下さい!」


「いや、だが考えてみれば本当に無神経だったな、すまない」

「いえ!こんな場所を指定してしまったわたしの方こそ…」


山の方から聞こえる鳥のさえずりたちがピチチチと響き渡る駅で、
大自然の中の会話とは思えない、イヤイエの攻防を繰り広げていると
遠くから何かの音が聞こえてきた。
鳥でも虫でもないこれは先ほどわたし達が乗ってきたモノの音だ。
音に反応してぷつりと途切れた攻防の主達が無意識にその音の方向を見やると、
山林から続いている線路の上に電車が姿を現していた。

近づいてくる様をなんとなく観察している内に
急接近してきたかと思えば、一瞬の後に遠ざかって行ってしまった。
瞬間わたし達を大きく揺らした突風だけを残して。

奴が巻き起こした突風によって乱れた髪の毛を梳かしながら、その後姿に目を細める。
わたし達が乗ってきたモノではあったが種類が違った、あれは快速電車だ。
普段は快速の恩恵を受けている側だと理解していても
こういう駅に止まらないからこそ快速と名乗っているのだと分かっていても、
心のどこかでなんだか見捨てられたような、
少し寂しい気持ちになってしまうのは、何故だろう。

もう何もいない線路をぼうっと見つめていると、ふと今の自分の状況を思い出した。
そういえば、何でこんなところに御剣さんと一緒にいるんだろう。


「そういえば、わたしに用事があるって」

「うム、先日まで所用で海外に行ってきてな、…その土産を渡そうと思ったのだが」

「…ま、まさか、それだけのために鈍行に乗ってここまで来たんですか」

「…日を改めるべきだったかと思ったのは、このふたつ前の駅を出発する頃だったろうか」

「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」

「まさかこんなところにいるとは思わなかったが、
まあ、私にとっても丁度いい気晴らしになった
土産は、…荷物になりそうだからひとまず私が預かっておこう」

「お土産ありがとうございます…というか本当にすみません…」

「勝手に来た私が悪いのだ、君が気に病む必要はない」

「うう…」


極限までしょんぼりとしていると、頭をぽんと撫でられた。

見上げると、本当に気にしてないように見える御剣さんがいつもの表情で
今日はどこかに泊まる予定なのか?と聞いてきたので、
日帰りのつもりなのでそろそろ帰ろうと思っていたところです、と答えると
御剣さんは、そうか、と呟いた。そういえば、次の電車はいつだろう。


「時刻表が見当たりませんね」

「…それは困るな、次の時刻はいつだろうか」

「携帯電話で調べてみます」

「ム、使えるのか」

「はい、なんとか」

「そうか、それで私がここに来れたんだったな
私のはここではダメなようだ、頼む」


御剣さんの携帯電話はたとえ電波が立っていても
調べられる機能はついているのだろうか、
そしてついていても御剣さんは使いこなせるのだろうかと
なんとなく疑問に思いながら、ポチポチと携帯をいじっていると隣から声がした。


どんな犬を飼っていたのだろうか、
その声にわたしは反射的に顔を上げた。

あの廃屋はどんな人達が住んでいたのだろうか、
もし人が住んでいたのなら一体いつからいつまでこの場所に居たのだろうか、
この駅が出来た時はさぞかし喜んだことだろう、どこの誰よりも利用していたに違いない。

ぽつりぽつりと横で言葉を発する彼の横で、
わたしは目の前の廃れた光景を同じように見つめていた。

ここと同じ景色の真新しい光景の中であの人たちは生活していたんだろう、
わたしが知り得ない期間から知り得ない期間まで。
そしてこれから先もわたしがそれを知ることは出来ない。


ふと、手元の液晶画面が真っ暗になっていたことに気が付いて
反射的にその画面を明るくさせたものの、
その状態でわたしはぼんやりと停止していた。

急に言葉を発さなくなった彼に気付き、隣を見上げると
彼は少し目を細めながらその場所を未だに見つめていた。
先ほどのわたしと同じように、目の前に確かに存在していた
遠い遠い過去を見つめているように思えた。

あの廃屋にわたし達が何か思うようなストーリーがあるのかもしれないし、
そんな大層なものは何一つ存在しないのかもしれない。
どちらだとしても、たまたま通りがかっただけのわたし達はきっと一生わからない。


ふ、私は何を感傷的になっているんだ、と自嘲気味に御剣さんは笑った。
この瞬間に御剣さんの意識が現代に戻ってきたことに気が付き
何か話題を変えようと口を開いたわたし、の頭の中に

この場所もいつか取り壊されて、ここも切り開かれてしまうのだろうかとか
そんな頃わたしたちはどうしているんだろう、ここの事など忘れているのだろうかとか、
色んなものがぽつぽつと浮かんできて
なんとなく口をつぐんでしまったわたしは、隣の人を見た。

隣の人も同じタイミングでわたしを見ていた。視線が、ぶつかる。
しばらくそのまま見つめ合って、どちらともなくまた先ほどと同じ光景に視線を戻した。

ざああ、と通り過ぎる風が、廃屋の傍に生えている背の高い草を揺らしていく。


『15分後に来るみたいです、その次は2時間後らしいです』
そんな言葉を飲み込んで、今しばらくは二人でこのゆるやかな風に揺られていようと思った。